表紙 > 読書録 > ちくま訳の解説「裴松之のこと」を読む

01) 三国時代は「近世の嘉史」

「注釈を読むことは実にたのしい仕事である」

上の文章は、ちくま訳『三国志』の2巻末についている解説の1文目です。著者は、ぼくがファンの吉川忠夫氏です。
吉川氏が担当されたのは、裴松之についての解説。
『三国志』に註を付けた裴松之について、改めて知りたいと思ったとします。どうしたら良いか。下手に図書館や大型書店をウロウロするよりも、実はすでに皆さんのお手元に(きっと)ある、ちくま訳を開くのが近道です。2巻に限定せず、各巻末の解説は、多くの発見を与えてくれます!

今回の趣旨は、吉川氏の解説を要約しつつ、自分なりに注釈すること(笑)。陳寿が記した『三国志』本文について知り、裴松之について知り、史料を読む楽しさについて知る。では、始めます。

裴注の誕生

注釈を読むのは楽しい。経書や史書を読むとき、本文⇒伝⇒註⇒疏という注釈の体系が、文章を解きほぐす。原典作者と注釈者の緊張関係は、ドラマの進行のようだ。いま注釈者を、脇役から主役にランクアップさせると、新しい視野が開ける。
今回の主役は、注釈者の裴松之。
裴松之(372-451)は、宋の文帝の429年7月24日に、『三国志』の注釈を進上した。裴松之が58歳のとき。勅撰書だった。

日付まで分かっているから、三国ファンは記念日として祝うべきだ(笑)
文帝の命令で書き始めたんだから、陳寿とは成立の動機が、そもそも違う。

年号は、元嘉だ。范曄『後漢書』、劉義慶『世説新語』と同時代の作品。
陳寿が死んでから132年、魏が滅びてから164年の隔たりがある。

2009年から164年を遡ると、1845年だ。まだペリーが来るまでに8年ある。将軍は、12代の徳川家慶だ。けっこう昔だよね。

だが裴松之は『三国志』を、
「近世の嘉史」
と呼んだ。

日本史にも、「近世」があります。江戸時代です。
ぼくは大学で日本史専攻だから、聞きかじっています。江戸時代を近世と呼ぶのは、明治時代の学者たちの目線です。
マルクス主義の西洋史と、日本の歴史を引き比べた。古代、中世、近代、という3カテゴリしかない。江戸時代を当てはめるとき、困った。近代は、明治維新前からにしたい。かと言って、「祖父母や親の世代が、中世を生きた」というのも、ピンと来ない。西洋の中世とは、暗黒の森に魔女が住んでた時代なので。折衷して「近世」にしたんだとか。
ちなみに大学の研究室では、混乱して「中生代(ちゅうせいだい)」と言ったものだ。恐竜が繁殖した時代じゃん!

「ことがら」の注釈

裴松之は『三国志』を、近世の歴史だと捉えた。だから裴松之は、「ことば」を注釈をせず、「ことがら」に注釈した。近世の「ことば」は、裴松之の時代の人は読めるから、いちいち解説する必要がなかった。

日本語でも同じだ。戦前の新聞を読むには、「ことば」の注釈が欲しい。しかし80年代の新聞を読むには、「ことば」の注釈は別に要らない。別に分かる。どうせ注釈してくれるなら、「ことがら」の解説がほしい。

中国の伝統的な注釈は「ことば」に対するものだ。だから裴松之は、唐の劉知機『史通』や、『四庫提要』に批判された。
どんな批判かと言えば、
「裴松之はバカで、ちゃんと言葉の研究ができなかった。読み方を研究するために、参考資料をダラダラ引用したものの、整理・編集するのをサボった。あげく言葉の注釈は、ちょっとしか付いていない。裴注とは、挫折のやりっぱなしである。悔しかったら、『漢書』の注釈のように、言葉をちゃんと解説すべきだった」
『漢書』は古代の書物だから、難読だった。唐の顔師古の『漢書』注は、「ことば」を解読する手引きである。伝統的な注釈である。しかし、裴松之と比べても仕方がない(というのが吉川氏の意見)

吉川氏は言っていないが、ここで待つべきだと思う。だって『漢書』は、同時代人の大学者・馬融ですら、読めなかった。言葉の時代差のせいではなく、ただ班固が意地悪だっただけでは? 班固は『史記』を上回ろうとして、肩に力を入れすぎた。
『三国志』は裴松之にとって近世とは言え、130年も昔の文書だ。もし陳寿が、班固と同じくらい意地悪だったならば、時代に関わらず読めなかったはず。裴松之は、きっと読み方の注釈を付けたに違いない。
ニーズがあるから、サービスがあるわけで。ニーズの内容を無視して、サービスの傾向だけを論評することに、どれだけの価値があるのでしょう。
吉川氏は「近世」という言葉を拠りどころに、「近い時代だから、故実も名物も自明」と言うけどさあ、21世紀のぼくらだって、江戸時代を近世と呼んでいることに注意です(笑) 23世紀の人に、「平成人は、江戸時代を身近に感じており、ボキャブラリも一致する」と言われたとき、どう思うかなあ。ペリー来航の瓦版が、スラスラ読めるのか。日本は、明治維新や占領統治という、文化の画期を経ているから、同列に論じられないが。


「ことがら」に着目した裴松之は、「三国志注をたてまつる表」で、注釈した4つの目的を言っている。
 1、陳寿のモレを補う
 2、異聞があるときは、すべて並べる
 3、ミスを正す
 4、ちょっとコメントを付けちゃう
裴松之の重点は、1と2だった。例えば陳寿は、荀彧の風姿を伝えない。だから裴松之は、『典略』『禰衡伝』『荀彧碑文』を引用して、荀彧のルックスを伝えた。

魏晋革命をすっぱ抜く

陳寿は、晋室の司馬氏に遠慮せざるを得なかった。だから、曹髦殺害が遠まわしである。「卒した」と書くのみ。
だが裴松之は宋臣だから、司馬氏へのしがらみがない。

『三国志』を立体的に読むための材料は、東晋までは提供されなかった。司馬氏について見届け、ちゃんと裁かないと、三国志は完結しない。東晋が滅亡するまで、三国志の後日談は続いていた。司馬懿の息が吹きかけられていた。

裴松之は、習鑿歯の『漢晋春秋』を土台にして、「考証学者風に」司馬氏を批判した。