02) 家を保つなら、歴史をやれ
裴松之は宋の文帝に命じられ、「ことば」ではなく「ことがら」を注釈した。裴松之は三国時代を、「近世」と身近に捉えた。
陳寿私怨著作説
陳寿は諸葛亮を、手放しに褒めていない。
「応変の将略は、それほどでもない」
と、微妙に辛い。
ウワサでは陳寿の父は、馬謖の参軍だった。敗戦のとき、髪を剃られた。諸葛亮を恨んだ陳寿は、諸葛亮をケナしたと。
唐に成立した『晋書』にあることだが、裴松之も承知していたはずだ。
裴松之は、ウワサに懐疑的だった。陳寿は諸葛亮を敬愛したと、裴松之は思っていた。だから裴松之は、陳寿と同時代の袁準『袁子』を引いて、この部分の注釈に付けた。
「諸葛亮は、苦手なことを敢えてやらなかった。苦手なことを弁えているのは、賢者の証拠である」
裴氏の一族
裴松之の本貫は、河東郡の聞喜県だ。前漢の武帝が地方巡幸しているとき、南越征服のニュースを聞いて喜んだから、この地名だ。
裴松之の六世の祖・裴キと、兄の裴潜は、魏志23に列伝がある。曹操が荊州を接収したときに、配下になった。裴潜は曹操に、
「劉備の才能はどんなものかな」
と聞かれた。裴潜は答えた。
「もし曹操さまの隙につけこみ、険阻な土地に籠もれば、天下の10分の1を治めるでしょう」
劉備の将来を、的確に予言した。裴潜は、曹芳までの4代に仕えて、尚書令、光禄大夫になった。
弟の裴キは、魏の冀州刺史。玄妙の人。哲学者の王弼に問答を仕掛けた。
裴キ曰く、
「無は万物の拠りどころだ。だが、孔子は言及しない。老子は言及しまくっている。なぜ2人の思想家に違いがあるのか」
王弼が答えた。
「孔子は、とっくに無を体得している。また、無は言葉に出来ないのだから、いちいち言わない。だから孔子は、有ばかり話題にした。逆に老子は、有の立場から解放されていない。ないものねだりで、無について語るのだ」
裴潜の子が、『晋書』に列伝のある裴秀だ。
「魏晋では、裴氏と王氏が盛んだった」
と記される。裴氏の8人の子と、瑯邪の王氏の8人の子が比較された。
だが裴氏が栄えたのは、西晋まで。ライバルの王氏は東晋でも輝いたが、裴氏は列伝のある人がいない。ただ1人だけ名が残るのが、裴啓。裴啓とは、『世説新語』の粉本となった『語林』を書いた人。
宋代になり、裴松之が裴氏を復活させた。文帝は、裴松之をあざなで呼んで、
「裴世期は不朽たり」
と言ってくれた。
子の裴インは『史記集解』の撰者だ。徐広『史記音義』をバージョンアップした。裴インは、「ことば」を注釈した。『三国志』と違って、関連する史料が残っていなかったからだろう。
裴インは「物故」という語句を解説するとき、父・裴松之をそのまま引用した。父子の注釈の態度は違ったが、確かに脈絡を保った。
裴インの子・裴昭明は、
「金儲けに、いったい何の価値があるのか。子孫がバカなら、使い果たしてしまうだけだ。歴史の名著を残せてこそ、生きる価値がある」
と人生観を語った。家風が偲ばれる。
裴昭明の子・裴子野は『宋略』を著した。
『宋略』は、裴松之と裴インが着手した歴史書だ。435年にプロジェクトが旗揚げされ、『元嘉起居注』を書き始めた。裴松之にとって『三国志』の次の仕事である。だが裴松之は、友人の何承天『宋書』を気にかけながら、451年に死んだ。残念でした。
「正史は王朝が滅びてから、書き始められるもの。次の王朝が、自分を正当化するために書くんだ」
と言われますが、日記は毎日付けないと忘れるように、当然に同時代の記録がされたはずで。まして「起居注」なんて、皇帝の立ったり座ったりの記録だ。24時間カメラで監視してないと書けない(笑)
裴子野の仕上げた『宋略』とは、
「沈約の『宋書』のダイジェスト版に過ぎませんよ」
という謙虚なタイトルである。だが、ただのダイジェストではない。裴松之から受け継がれた、オリジナルの本だったはずだ。現存しないから、よく分からない。
おわりに
吉川氏の一文を、縮めずにそのまま引用します。
裴松之と裴インは南朝の宋、裴昭明は斉、裴子野は梁をそれぞれ主な活躍の時代としたけれども、目まぐるしい王朝の交代にもかかわらず、河東の裴氏の儒賀の伝統は、とりわけその史学の伝統は、変ることなく一代一代と伝えられたのであった。
東晋で下火になったが、裴氏は確かに盛族だなあ、と感心させられる。金儲けしても使い果たす。軍事権を握って禅譲を受けても、ろくに続かない。そんな南朝で、歴史で家を保ったって、キレイです。
次は『宋書』の裴松之の列伝を読みたいなあ。
『晋書』載記を読んでたのに、石勒の前が止まってるが(笑) 091104