| |
『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
|
1)武帝と光武帝
|
三国志の人たちが、二言目には、
「漢室の復興を」
と言い出すのは、なぜか。2つ理由があるでしょう。1つには、単純に漢代の期間が長いから。2つには、漢室が中断した後、奇跡的に復活をしたから。
「漢は永遠に滅びない。漢は、奇跡の王朝か?」
という疑いを、みなが共通して持っていたから、三国志の人たちは他者を率いるとき、復興を言わざるを得ないのです。
この神話を作ってしまった張本人は、光武帝。彼を知らずして、三国志を語ることはできないはず。岩波書店の注釈&書き下し本に頼って、「光武帝紀」を楽しみながら、思ったことを書いていこうと思います。
◆諡号の隠れメッセージ
世祖光武皇帝は、姓名は劉秀で、あざなは文叔という。
『逸周書』によれば、前代までの業績を継承した人を「光」といい、禍乱を治めた人を「武」というらしい。
これはぼくの妄想ですが、 「前漢以上に後漢を栄えさせたい!」 という気負いを持ったブレーンたちが、劉秀の死後に「諡号ルール表」を片手に、こんなことを話し合ったんじゃないか。 「先帝は天下を統一したんだから、『武帝』という号を贈りたい」
「ダメだって。この王朝は、前漢を継いだ建前でしょ。すでにいる武帝(劉徹)とカブるのは、絶対に良くない。他にいくらでも諡号にできる文字はあるのだし」
「そりゃそうだが、やっぱり『武』はほしいよ。戦争、めちゃめちゃ頑張ったんだから。従軍したあんたも、この気持ちは同じだろう」
「うん・・・ならば『光』という字で、『武』を修飾しよう。これならカブらない。名づけて『光武帝』だ。おお、カッコいいかも」
「光り輝く武を持った皇帝、という意味か?」
「そうだよ」
「そりゃマズくないか。武帝の上をいってしまう」
「キミはものを知らないなあ。『光』は、『能く前業を紹ぐ』君主に贈る称号なんだよ。ここに書いてある」
「諡法ではそうかも知れないが、そんな専門知識を持たない人の方が、圧倒的に多いぞ。後世の歴史ファンが聞けば、やはり武帝を上回る皇帝のように捉える」
「キミは頭が固いよ。それが本来の狙いじゃないか」
「あっはっは」
「光」から始まる諡号というのは、前漢では使ってない。後漢でも、以降は使われない。「光武帝」という変則な諡号の裏には、何かあったと思ってしまう。
◆時代を巻き戻す血筋
劉秀は、南陽郡の蔡陽県の人。ここは襄陽の西南で、フロンティアに属するようだ。三国時代に入れば、荊州南部までいちおう「国内」なんだけど、まだこの時点では同化が完了してなさそう。
光武帝は、劉邦の9世の孫。系図は、
劉邦-文帝-景帝-長沙定発-春陵節侯買-鬱林太守外-鉅鹿都尉回-南頓令欽-光武帝。
史書にありがちか書き方をしていますが、彼らは姓が「劉」で、名が最後の漢字1文字です。あとは役名や諡号です。例えば景帝の子は、長沙王で、諡号が「定」である劉発さんです。
劉発の兄が、武帝です。武帝の弟の家柄から出ているのが、光武帝です。いい加減な例えですが、
「もし過去に戻って人生をやり直せるなら、何年前がいいですか」
というチャンスを与えられたら、人はいつを選ぶのでしょうか。きっと最も楽しかった時期を選ぶでしょう。取り返しのつかない失敗をしたなら、戻って修正をしたいと思うかも知れない。
「武帝の系列が王莽に倒されてしまった。もういちど景帝まで戻って、漢王朝をやり直そう。武帝は功罪ともに大きいから、軌道修正をするなら、武帝のときからだな」
諡号で「武」を踏襲したことにも絡むが、こんな脚本もアリでしょう。
古代中国は、西暦みたいに、時間軸に通し番号が付けられているわけじゃない。時間は皇帝の定める年号とともにあるのだから、心理的現実として、歴史の修正はできるはず。
劉秀が即位できた理由は、戦闘による勝利です。これは間違いない。でも権威づけや正当化のストーリーとしては、
「武帝のときから、やり直し」
とは、心に届くメッセージだと思う。
武帝の父の景帝のとき、呉楚七国ノ乱を経験して、いちおうの統一王朝としての体裁は完成していたんだから。
こんな危なっかしい理屈をこねているには、理由があります。
劉備が祖先ということにした「中山靖王の劉勝」というのは、武帝や長沙定発の弟なのです。つまり、劉備が即位した意味は、
「前漢の武帝の系統は、王莽に滅ぼされた。後漢の光武帝の系統も、曹丕に滅ぼされた。もう一度、前漢の景帝まで遡って、漢のやり直しをやりましょう。その資格があるのは、私です」
という理由づけができる。
◆貧しい生活
すでに劉秀のときは、劉氏はウジャウジャいた。 のちに見ますが、赤眉によって混乱したとき、劉氏が雨後のタケノコみたいに、あちこちから推戴される。つまり、劉氏というだけでは、すでに価値がない。
劉秀は、9歳で父親を失い、叔父の劉良に養われ、小学に通わせてもらった。なんだか境遇が劉備に似ているなあ。
ちなみに父の劉欽がやっていたのは、南頓令。つまり県令に過ぎない。先に書いた系図を見ると、面白いほど分かりやすく、代を経るごとに官位が落ちている。階段をコンスタントに下っている。王、侯まではヴィップ待遇として、郡の太守、郡の都尉、県令、という具合だ。
きっと亡父の蓄えは、大したことはなかったんでしょう。
| |
|
|
このコンテンツの目次 『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
1)武帝と光武帝
2)男伊達の兄が挙兵
3)昆陽籠城の変態
4)ふたりめの皇帝
5)皮肉まじりの帝号
6)北の果てに戻る意図
7)皇帝の大安売り
8)更始帝の最期
9)河南平定と、関中叛乱
10)蜀漢と孫呉の先例
11)ウィットな政策の皇帝
12)ワーカホリックなパパ
|
|