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『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
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2)男伊達の兄が挙兵
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◆爬虫類みたいな顔
身長は7尺3寸で、約168センチ。特徴なし。
ヒゲとマユが美しく、口が大きくて、鼻筋が通って高い。額の骨が隆起していた。
これは、言わずもがな劉邦を意識した表現です。中国の皇帝は、ドラゴンと通じるから、皇帝の顔を「龍顔」という。それは劉邦の顔が、龍に似ていたから。
いま劉秀の顔を想像してみれば、
「爬虫類みたいな顔」
となる。龍のモデルは、ヘビなんだから、平たく言えばそういうことだ。別にカレシにするとか、そういう話でなくとも、ちょっとイヤだ。
顔の横幅は広くなく、横から見ると、ニュッと鼻や口が前に突き出している。頭はほっそりとして、頭蓋骨は後方に傾斜している。額は、ツノみたいに骨が隆起している。そして、上まぶたが見えないくらいに、ビッシリと眉毛が生えていて、黒目の細い瞳が光っている。舌は長い(笑)
竹内康浩『「正史」はいかに書かれてきたか』によると、
皇帝になる人の身体描写がエキセントリックなのは、治められる側が、王朝の正当性を納得するためだそうだ。どこの馬の骨か分からない奴に、いちいち指図されたくない。でも、
「生まれたときから、常人とは大きく違ったのか」
と思えば、仕方ないと思えてくる。つまり、スター性がない人が即位すると、出生秘話を大げさにせざるを得ない。足りない分を、派手な記述で埋めなければならない。
隋の文帝(楊堅)は、
「生まれたとき、庭中に紫の気が満ちた。母が抱こうとすると、頭にツノが生え、全身にウロコが生じた。母は驚いて(生まればかりなのに)地に落としてしまった。額には5つの突起があり、手には『王』の字が書かれていた」
のだそうで。腕が長いとか、耳がデカいとか、地味に思える。
光武帝の場合は、奴隷身分だったり異民族だったりしないから、劉氏の出身であることを確認できれば、それ以外の演出は必要ない。
「やや強めの先祖返りですよ」
と、劉邦との共通点を念押しすれば充分だ。
◆ヘビみたいな兄貴
あざなの「文叔」から推測できるが、劉秀は3男だ。
劉秀は農業に励んだが、兄の劉縯は侠と付き合い、士を養った。兄は劉秀を笑って、
「テメエはせいぜい、土でもほじくっていればいい。でもオレは違うぞ」
と得意になっていた。
さらに、兄は言う。
「劉邦は志を抱き、家業なんかやらなかった。オレは劉邦と同じで、志があるから、チマチマと生業なんかやらん。劉邦の兄の劉仲は、田にかまけていたという。劉秀は、ダサい劉仲と同じだな」
この発言から分かることは、兄の劉縯は、劉秀よりも爬虫類顔だったということだ(笑)
兄(劉縯)の顔が平均的で、弟(劉秀)の顔がちょっとドラゴンっぽければ、兄は気づくだろう。
「天下を取るのは、この地味な弟だ」
と。そうなれば、兄は自分を劉邦に準えている場合ではない。いい笑いものだ。
だが、そうではないようだから、兄も異相だったはず。むしろ、兄の方がヘビっぽかった。だからメンツが保てた。
◆生まれながらの商人
王莽の天鳳年間(14-19)に長安で『尚書』の大略を学んだ。
『東観漢記』が補うには、劉秀は授業料が払えないので、同窓の学生とロバを共同購入して、運送業をやった。
22年、南陽郡が飢饉になった。劉家で養っている食客が盗みをしたから、役人から逃げて、新野に遷った。荊州北部は、劉備が劉表の傘下で過ごした地域ですが、場所が重なります。
『東観漢記』によれば、南陽の作物は壊滅したが、劉秀の畑だけは収穫があった。劉秀が穀物を宛に売ると、宛にいる李通らが、図讖で予言をした。
「劉氏は復活し、李氏が助けるだろう」
これを聞いた劉秀は、
「そんなアホな」
と一蹴したが、
「いや、待てよ。兄の劉縯は、いつも命知らずの部下を連れている。王莽の政治はボロボロだから、戦争が起きるかも知れない。兄が天下を取るためには、武器が必要だな」
と思い直して、兵弩を仕入れて帰った。
劉秀に特徴的なのは、発想が商業活動に落とし込まれる点です。 学問がしたけりゃ、自分で稼ぐ。穀物が減れば値上がりするから、売りに行く。兵乱が起きると予測すれば、武器を購入する。
いわゆる「大将」の動きではない。兄がいたから顔を立てたと見ることも出来るが、まだ軍閥を作って戦うかどうかすら不明。組織の中での役回りを意識したとは思えない。 きっと本性と分かちがたく癒着して、劉秀は商人なんだ。
商人はリアリストだから、図讖を笑い捨てた。のちに後漢を作ったとき、図讖を王朝の正当化に利用しまくる。この矛盾を指摘されるのは、ツラかろう(笑)
◆牛から馬に乗り換え
22年10月、予言をくれた李通の従弟である李軼らと、劉秀は挙兵した。28歳だった。
兄の劉縯も、兵を集めて挙兵した。
「劉縯は私たちを殺す気だ」
と諸家の子弟はビビッて、逃げ隠れた。劉秀が将軍服を着けて、兄に合流した。それを見た人たちは、
「あの地味な劉秀まで、参加してるじゃねえか。男伊達を気取っている劉縯の暴発じゃなく、抑えの効いた軍事行動だろう。王莽派でもない人が、ワケも分からず、殺されることはなかろう」
と安心した。
『後漢書』には「謹厚なる者も、亦た復た之を為す」と書いてある。ぼくなりに噛み砕いてみたが、ニュアンスはこれでいいのか。
劉秀は牛に乗っていたが、新野の尉を殺して、馬に乗り換えた。
農耕に使う牛から、戦闘に使う馬に取り換えたことが、
「耕作者から将軍職、果ては皇帝へ」
という、人生の転機を象徴するハイライトとして語られる。確かにそういう解釈は成り立つが、ぼくが『後漢書』を書く人ならば、そんな意味は込めない。むしろここでは、
「軍馬の供給すら追いつかない弱小から立ち上がり、力を付けた」
という成功物語の上昇幅を強調したいものだ。
◆王莽に敗北。。
湖陽の尉を、族兄の劉終が殺した。だが、
「戦利品を、劉氏が独占してしまう。劉氏を殺せ!」
というクレームが登った。劉秀の兄たちは、手に入れたものを、これ幸いと懐に入れていたようだ。
「兄さん、公平に分配をしないと、未来がありません」
劉秀は商人としての感覚で、うまく分けたはずです。不満なく肉を切り分けられる人は、有望なリーダーなのです。
兄は小さな人間に見えてしまうけれど、平均より少し上くらいの人間なら、同じことをしてしまうだろう。また、兄を差し置いて即位した劉秀を擁護するために、こんな逸話を挟んだのかも知れない。
「兄の器量は小さいから、抜かしても悪くないんです」
という弁明ですね。
ところで、劉縯が挙兵したとき、
「ありゃ、誰を殺すための決起なんだ?オレたちを殺すつもりか?怖ろしいなあ。きゃーきゃーきゃー」
なんて言ってた連中が、劉縯の軍を構成しています。彼らにマトモな論功行賞をする必要はないと思う。少なくとも感情的にはね。しかし人は誰もが利己的だから、そうもいくまいが。
王莽の正規軍が攻めてきて、劉縯たちは大敗した。棘陽に砦を作って、こもった。続きはまた更新します。
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このコンテンツの目次 『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
1)武帝と光武帝
2)男伊達の兄が挙兵
3)昆陽籠城の変態
4)ふたりめの皇帝
5)皮肉まじりの帝号
6)北の果てに戻る意図
7)皇帝の大安売り
8)更始帝の最期
9)河南平定と、関中叛乱
10)蜀漢と孫呉の先例
11)ウィットな政策の皇帝
12)ワーカホリックなパパ
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