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『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ 3)昆陽籠城の変態
◆更始帝の即位
劉秀たちは、王莽に負けっぱなしではありません。
23年正月、王莽の正規軍を破り、将軍を斬った。宛城を包囲した。
2月、劉玄(あざなは聖公)を天子にした。のちの更始帝です。兄の劉縯は大司徒、劉秀は太常と偏将軍に収まった。

「漢の皇帝が立っただと?」
長安で劉秀たちを懼れたのは、新の皇帝の王莽さん。一族の王氏を将軍にして、100万規模の討伐軍を出した。
王莽は、全国から勇者を募った。
「討伐に最適な人物がおります」
と報告が上がった。
「身長は2メートル以上の、巨無覇という人です。東シナ海の向こう側で見つけました。1頭の馬車では運ぶことが出来ず、3頭立てにしましたが、やはりダメ。太鼓を枕にして横になり、鉄の箸を使って食らいます。新王朝を救ってくれるでしょう」
王莽は喜んだ。

『三国演義』には、まるで化け物としか思えない怪物が出てくる。巨無覇の出陣風景は、王双が抜擢された魏朝に似ている。
「この特撮番組の怪人みたいな男なら、敵軍を片づけてくれます」
「よし、存分に暴れてまいれ」・・・みたいな。

◆巻き込みの達人
「討伐軍、きたる」
それを聞いた劉秀の諸将は、
「散らばって、迎え撃ちましょう。真正面から攻められては、とても王莽軍に敵いません」
と弱音を吐いた。
これは建前である。実は各将は、ねぐらにしている小さめの城市に留まって、自分だけは助かろうとしていた。それぞれ城市には、小銭が貯めてある。下手に劉秀に協力し、出撃して戦死するより、こっそり住処だけ守っていたい気持ちだった。
劉秀は笑った。
「私たちは兵糧が残り少なく、敵は強大だ。それなのに散れば助かるかも知れないなんて、ジョークだね。力を合わせねば、勝てない。まだ我らは、宛城すら抜けてない。それなのに妻子や財物だけを保とうとしても、全滅するだけだぜ」
劉秀が作戦を立てたので、各将はしぶしぶ従った。
とは言え、味方は昆陽の城中に8千や9千しかいない。包囲した王莽の軍は、10万人。劉秀が周辺の城から兵をかき集めようとしたが、相変わらず反応が悪い。
劉秀は説いた。
「もし敵を破ったら、珍宝は万倍も手に入るのだ。負ければ、胴の上に頭が残っている保障はない。どうして目先の小銭を、そんなに大切にするのか」
原文の「首領も余す無し」はひどい意訳をしましたが、とにかく劉秀は非協力的な奴らを脅して、味方につけた。

ふと思うのは、
「劉秀の言っていることは本当か?」
ということですね。
もし各将が劉秀に協力せず、シャッターを閉めて小城で物忌みをしていたら、王莽軍に攻撃されたんだろうか。
・・・おそらく王莽軍はスルーしてくれたはずだ。劉秀がいちいち説得したのは、シロの状況をクロと認識させるという、変化を加えるためだ。自明なら説得不要なんだから。
劉秀が最後には勝ったから良かったものの、負けていたら、巻き込まれた人はとても迷惑でした。

◆昆陽の籠城戦
王莽軍は、侵攻方向を話し合った。
「劉秀がいる昆陽は、小さいが堅固だ。いっぽう劉玄(更始帝)がいる宛は、敵ではない。先に劉玄(更始帝)を片づければ、劉秀はアタマを失い、降伏するでしょう」
「バカを言うな。かつて王莽さまは、包囲戦で勝ったものの、敵将を生け捕りに出来なかった将軍を、罰したのだ。いま100万の軍勢で昆陽に来ている。もし小さな城すら攻め落とせなかったとすれば、どれだけ咎められるか」
「そうだった、悪い悪い。少し手こずってもいいから、いま確実に劉秀を殺しておこう」
昆陽は、数十重に包囲されて、兵営は百数。諸葛亮の陳倉攻めにも劣らず、攻城兵器の産業博覧会が行なわれた。旗幟がびっしりで、鉦鼓が鳴りひびいた。袁紹の易京攻めみたく、穴掘り作戦も行なわれた。姜維もうなるような、連射式の弩が使われた。

囲まれた劉秀は、歩騎1000余で出撃し、首を数百千も斬った。
「劉秀さんは、いつも少数の敵にビビるくせに、大軍を前にすると勇敢になる。変態じゃないか」
有名なこのコメントは、このとき付けられました。

◆運びきらない財宝
「宛を攻めていた劉縯(劉秀の兄)が、やっと勝った。この昆陽に、援軍に来てくれるそうだ」
劉秀はこんなレターを作って、わざと道に落とした。これはウソで、援軍の報せなんてない。だが王莽軍がレターを拾うと、
「げっ!劉秀だけでも強いのに、劉縯も加わるのかよ」
と、暗い気持ちになった。
これだけでも、それなりに面白い偽報作戦なんだが、まだ続きがある。実は劉縯は、3日前に本当に宛城を落としていた。ウソから出たマコトになった(笑)
荊州の狭い地域で、これだけ情報が行き違っているのは面白い。だが、5世紀に書かれた『後漢書』に、これだけ細かな行き違いが記されていることは、もっと面白いと思う。

劉秀は、王莽軍を徹底的に叩いた。川は、王莽軍の死体で流れが止まった。王莽の将軍たちは、死体を踏み越えて逃げていった。
曹操が徐州で虐殺したとき、
「泗水の流れが死体で止まった」
という記述がある。三国志から古典に入った人は、これが固有の出来事に思えて、
「うわ!曹操はひどすぎねえか?」
と、何に対してか分からないが、とにかく憤るのです。しかし戦死者が多く出たときの常套句だと思えば、そこまで騒がなくてもいいと気づく。こんな冷めたことをぼくが言えるのは、この文章を書いている場所が徐州でなく、曹操軍が来てないからである(笑)

劉秀は、うなるような車甲珍宝を手に入れた。諸将との約束を果たしたことになる。だが、何ヶ月運んでも、運びきれない。
「火をつけちゃえ」
他人に持っていかれるなら、灰にした方がマシである。大量の物資を持ってきた王莽軍も凄いが、運ぶためのマンパワーすらないほど劉秀軍が少ないのは、もっと驚きだ。
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このコンテンツの目次
『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
1)武帝と光武帝
2)男伊達の兄が挙兵
3)昆陽籠城の変態
4)ふたりめの皇帝
5)皮肉まじりの帝号
6)北の果てに戻る意図
7)皇帝の大安売り
8)更始帝の最期
9)河南平定と、関中叛乱
10)蜀漢と孫呉の先例
11)ウィットな政策の皇帝
12)ワーカホリックなパパ