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『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
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4)ふたりめの皇帝
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◆兄の死と女の子
先に宛城陥落はマジだったと書いたが、兄から援軍は来てない。
なぜなら兄の劉縯は、劉玄(更始帝)に殺されたから。自ら劉邦を気取っていた兄貴で、大司徒だった。すなわち更始帝の政権で、ナンバー2だったから、煙たがられたんだろう。 劉秀が耕作をしているのを、ゲタゲタ笑っていた兄貴である。劉玄(更始帝)のプライドに障ることを言ったんだろう。
劉秀は豫州の頴陽に転戦していたが、宛城に戻った。
「兄を殺しやがって、、更始帝め、許せん!誰が皇帝に祭り上げてやったのか、この刀で思い出させてくれる」
などと、のちの天下人の劉秀がキレたりはしません。
「兄が無礼を働き、申し訳ございませんでした」
劉秀はしょんぼりした。兄の元部下が近寄ってきても、私語を交わさなかった。昆陽での大勝についても、言い出さなかった。喪にも服さず、いつもどおり飲み食いをした。
「兄は、殺されて当然のことをしました。兄の死には、納得こそすれ、恨みに思うことはなく、弔いの気持ちすら起こりませんわ」
というポーズだ。
実際に兄とはあまり仲が良かったとは思えないが、喪の礼は生前の人間関係では決まらない。更始帝は、
「うっ、劉秀ちゃん、めっちゃゴメン」
と慙じて、劉秀を破虜大将軍、武信侯にした。 更始帝は、小学校の教室で女の子を泣かした、男の子と同じです。周囲の有声・無声のブーイングの圧力は、すごいのです。
◆王莽のくび
「お届け物です。塩漬けなので新鮮です」
宛城のスタッフが発泡スチロールの箱を開けると、王莽の首が入っていた。三輔の豪族が、皇帝である王莽を、殺して届けた。
王莽を殺したら、届ける先が更始帝だった。この時点で更始帝は、次代を担う最有力者として、三輔から認められていたことが分かる。三輔とは、首都の長安周辺の行政区です。
「北上しよう!洛陽に遷都だ」
更始帝は、がぜん張り切った。
◆はじまりの洛陽
さて。前漢の首都は長安で、後漢の首都は洛陽です。
なぜ都を洛陽に移したんだろうか。
これは、ぼくのとても大きな関心の1つです。
三国志が開幕するのは、董卓が洛陽を焼き払ってからです。その後も洛陽は、曹操に復興されて魏の首都になります。晋も洛陽を使った。永嘉ノ乱で洛陽が陥落して、漢民族による「中華(中夏)」は、311年にいちど終わってしまう。
洛陽は、三国(&後漢&西晋)ファンにとっては、統一権力の象徴です。
洛陽が「皇帝」の住処になるのは、意外にもこのときが初めて。洛陽の上に後漢が成立していく過程を、濃いめに「光武帝紀」で見守っていきましょう。
更始帝は、
「劉秀を司隷校尉にする。先に洛陽に入り、宮殿と官庁を整えてくれ」
と命じた。
洛陽は東周で都だったけれど、秦も前漢もその用途では使っていない。だから、施設が充分でない。お花見で先にビニルシートを引いて、昼間から退屈そうに座っているおじさんがいる。劉秀が任された役は、これと同じだ。
更始帝よりも、劉秀の方が先に洛陽に入った。好きなだけ飛躍させた意味づけ(妄想)が、どうにでもできそうで、嬉しい出来事です。
三輔の吏士は、更始帝を洛陽に招き入れた。
「なに?あの見っともない格好は?」
更始帝が率いた諸将は、頭巾を被っていた。これは冠を被れない、身分の卑しい人がやる服装だった。女物の服を着て、袖の短いチョッキを着ていたから、
「センスのない田舎物だぜ」
と馬鹿にされた。馬鹿にされるだけなら、まだいいが、
「立場と服装がチグハグなのは、禍いである。必ず滅びるだろう。更始帝の一味に巻き込まれるのはゴメンじゃ」
と言って、辺境に逃げてしまう知者も出た。
分相応というのは、儒者にとってはとても大切だそうだ。男が女物を着たら、ダメなのだ。 後漢の霊帝のとき、雄鶏と雌鳥が入れ替わっても、単なる「おもしろ事件」ではなくて、国家の一大事だと騒ぐ人種なんだ。現代日本のテレビでバラエティ番組を見たら、悲嘆するに違いない。
ちなみに、
「更始帝が赤眉に殺されたのは、臣下の服装が変だったからだ」
と片づけたのは『続漢書』です。更始帝が殺されるのは、まだ先のことですが。
赤眉とは、王莽に反発して挙兵した、大勢の反乱軍です。赤眉はレッドなアイブロウで、黄巾はイエローのスカーフが敵味方を区別する目印。
洛陽の古い役人たちは、
「まさか、再び漢官の威儀を見られるとはねー」
と泣いて喜んだ。
劉秀は、大司馬(軍事最高責任者)を兼ねた。
◆袁紹のロールモデル
23年10月、劉秀は黄河を渡って、州郡を鎮撫した。大司馬だから、こんなことを始めたのでしょう。 地方政治の人選を見直して、王莽がメチャメチャにした行政制度を、もとに戻した。王莽は、アーティスティックに地名や官名を変更しまくったから、誰も正解が分からなくなっていたのです。
思い出すのは、河北の巨人・袁紹です。
袁紹は洛陽から出て(というか董卓を懼れて逃げ)、河北を根拠地にして南下をし、天下を取ろうとしました。袁紹がロールモデルとした光武帝の覇業とは、まさにこのときのことです。袁紹は、途中で曹操に噛み付かれて、南下を断念してしまったが。
劉秀は河北を平定すると、邯鄲で進言を受けた。
「河東郡に、赤眉がいます。黄河を決壊させれば、赤眉は魚になります」
「・・・」
これを聞いた劉秀は黙ったままで、真定に立ち去った。
劉秀は、人が魚になるという魔法の世界のファンタジーに、関心がなかったのである。もしくは、口を聞いたら泡になるという、人魚姫の伝説を連想したのである。もしくは、赤眉もいずれ自分の王朝の民となるから、無碍に殺しまくることに、気が進まなかったのである。
河東は袁紹のとき、張燕を下したり、甥の高幹を并州刺史にしたりして、勢力圏に収めていた。河北を土台にするなら、河東は必然的に手に入れたくなるエリアです。 無言だった劉秀の反応に、
「河東はとても欲しいが、評判の下がる攻め方はできん」
というジレンマがあったと思う。
◆新しい皇帝のDNA
「前漢9代の成帝のご落胤が、即位なさった」
12月のこと。劉秀が去ったばかりの邯鄲で、劉子輿と「名乗る」人が天子になった。劉子輿は周辺に使者を送ったから、郡国はこの新しい天子に忠誠を誓った。
洛陽には更始帝がまだ健在だが、荊州北部、長安と洛陽の周辺に立った地方政権に過ぎない。洛陽と邯鄲に、2人の皇帝が現れた。天子が2人もいるなんて変だ。必然的に、争うことになる。
24年正月、劉秀は薊を攻め取った。新しい天子に対抗し、劉秀は北から邯鄲に圧力をかけようとした。
「もし劉秀を殺したら、10万戸を与える」
新しい天子は対抗して、劉秀を指名手配にした。 種明かしをすれば、この新しい天子は、生まれを詐称している。
――占師の王郎、
が、劉氏に化けているのだ。ちなみに、会稽太守で魏で三公になった王朗とは、当然ながら別人です。無用な注釈だなあ。
劉秀がいた薊城は、新しい天子に味方した。
劉秀は薊城から追い出され、終日ずっと城壁の外で過ごした。野宿をして南方に逃げたが、道中に食べ物がなくなった。。
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このコンテンツの目次 『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
1)武帝と光武帝
2)男伊達の兄が挙兵
3)昆陽籠城の変態
4)ふたりめの皇帝
5)皮肉まじりの帝号
6)北の果てに戻る意図
7)皇帝の大安売り
8)更始帝の最期
9)河南平定と、関中叛乱
10)蜀漢と孫呉の先例
11)ウィットな政策の皇帝
12)ワーカホリックなパパ
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