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『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ 5)皮肉まじりの帝号
◆命がけのハッタリ
劉秀たちは、飢えた。食べ物がないと、死ぬしかない。
「私たちは、邯鄲(新しい天子)の使者です」
と、敵の名前を騙って、劉秀は宿駅に入った。
「ああ、やっと食い物にありつける・・・」
劉秀と配下たちは、ガツガツと食べた。それを見た宿駅の役人は、
「天子さまの使者が、飢えてるなんて変じゃね?」
と疑った。
揺さぶりをかけてみようという話になり、
「邯鄲より、将軍が到着されました!」
と、宿駅の役人たちは、大声で触れ回った。もし使者が偽者ならば、将軍と鉢合わせしたときに正体がバレるはずだ。
「やばいことになった」
震え上がったのは、劉秀たち。正真正銘の偽者なんだから、将軍と会ってしまったら、どうにもならない。
しかし劉秀は腹を括って、席に戻った。
「では、いらっしゃるという将軍を、こちらにお通し下さい。一緒に食事をしましょう」
もう、開き直りである。
敵の将軍が入ってこようが、入ってこなかろうが、顔色を変えてしまっては宿駅の役人に殺される。もし将軍が入ってきたら、やはり殺される。もし将軍が入ってこなければ、唯一助かる。
ゲーム理論の囚人のジレンマではないが、このときの劉秀の選択は、とても正しい。将軍の到着はウソだから、誰も入ってこない。
「さて、将軍がいらっしゃらないなら、私たちは、おいとまします。使者の任がございますので」
劉秀たちは、そそくさと去った。
「閉門せよ」
劉秀が出た後、門長は戸締りをしてから言った。
「さっきの使者は、オーラが違った。これから天下がどうなるか分からないときに、大人物を閉じ込めてはいけない

せっかく劉秀が超人的な機転でピンチを切り抜けたエピソードなのに、台無しだ。この『後漢書』の書き方だと、門長に花を持たせてしまう。門長は、劉秀の正体を勘づいていたとでも、言いたそうな筆致だ。

◆手紙を焼き捨てる
劉秀は真冬に昼夜兼行で、顔がひび割れて血を流しながら進んだ。
河に船がなければ、凍結した水面を歩いた。途中でビキビキと氷が崩壊して、台車が沈んでしまった。慣用句どおりに、ほんとうに薄氷を踏んだ人も、珍しかろう。
劉秀たちは、道に迷った。白衣の老父に、
信都郡に行きなさい。ここから80里だ。あそこの太守は、更始帝の味方だよ」
と教えてもらった。この老父はおそらく神人だそうで。

劉秀は信都郡に迎えられ、冀州の北部をまたたくまに味方に付けた。このとき味方に付いた人は、『後漢書』の列伝の最初のほうに名前を並べて、後世まで栄誉を称えられるのでした。
新しい天子の王郎への逆襲が始まります。鄧禹が、近くに敵がいるのも気づかずに輜重を運び、まるまる失ってしまうというミスもあったが(笑)、鉅鹿を囲んだ。
24年4月、ついに王郎を邯鄲に包囲し、5月に斬った。
邯鄲からは、劉秀のことを悪く言った文書がゴロゴロ出てきたが、劉秀はろくに読まなかった。諸将を集めて、
「焼いてしまえ」
と命じた。劉秀への批判を書いた人たちは、安心した。

三国ファンはとっくにピンと来ていると思いますが、官渡に勝った曹操は、全く同じことをしています。これを、史書の定型句と見るか、成功者の行動パタンの類似と見るか。
「大将のオレですら、袁紹に勝てるとは思っていなかった。まして臣下のお前らが、袁紹と内通していたところで、どれほどの罪があろうか」
というやつです。
もし社長をやっていて、ある会社を買収したとします。そしたら、社内メールを保管したサーバーを、全従業員が見ている前でハンマーで焼きましょう。信頼が得られて、人材交流に成功するに違いない(笑)

◆皇帝への芽
更始帝は、使者を邯鄲に送ってきた。
「劉秀よ、よくぞニセ天子を倒した。褒美に、蕭王に封じる。もう兵を率いなくていいから、長安に帰れ」
劉秀は、断った。
「ニセ天子を倒したものの、まだ河北は不安定です。長安に帰っている場合ではありません。私は河北にいます」
はじめて劉秀が、更始帝に反対した。すなわち「弐」が生じた。
わざわざ『後漢書』がこんな文を挟んだのは、劉秀が独立して、自ら皇帝になっていくキッカケを強調したいからでしょう。

ここで長安のことを「行在所」と書いてある。
洛陽が、更始帝の都だから、長安は「行在所」と表現される。
せっかく劉秀が洛陽を整えたのに、なんで長安にいるのか?
洛陽は地形が守りにくく、周辺勢力が味方になっていないからだろう。とくに河東にいる赤眉からは、目と鼻の距離である。そんなとこ、危なっかしくて仕方がない。
長安は、王莽末期に焼けたはずなのに、それでも長安の方がマシのようで・・・更始帝の地方政権ぶりがよく分かる。

◆銅馬帝
「劉秀が更始帝に背いたのは、理由のないことではない」
そう弁明することが、『後漢書』のやらなければならないことである。
――四方は背叛す。
ということで、梁王の劉永は自立し、公孫述は巴蜀で王となり、他にも淮南王、楚の黎王が現れ、瑯邪・東海・漢中・夷陵でも、ミニ君主が立った。数百万の部曲が、めいめいに国土を分割した。

劉秀は、呉漢に幽州を攻めさせ、自分も軽騎を率いて転戦した。降伏した人は、
劉秀さまは、自分の真心を他人に預ける人だ。どうして劉秀さまのために命を惜しもうか」
と語り合った。
賊だった銅馬(人名)の軍勢が、劉秀に合流して主戦力になったので、関西の人々は劉秀を、
「銅馬帝」
と呼んだ。
関西というのは、函谷関の西です。つまり、更始帝のいる長安周辺の人が、東で活躍する劉秀に付けた呼び名です。正式な諡号の語感はありません。 賊の名前を冠させているから、劉秀へのほのかな敵意と脅威を含ませた呼称でしょうか。
「更始帝の帰還命令を無視して、関東で好きに暴れている。賊の兵力を吸収して、みるみるデカくなっている。けしからんことだ」
というニュアンスでしょう。

射犬(地名)で、赤眉の別隊を破った。押し出されるようにして赤眉は、西への移動を始めました。西にいるのは、言わずもがな更始帝です。
劉秀は、更始帝を助けるのでしょうか。。
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このコンテンツの目次
『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
1)武帝と光武帝
2)男伊達の兄が挙兵
3)昆陽籠城の変態
4)ふたりめの皇帝
5)皮肉まじりの帝号
6)北の果てに戻る意図
7)皇帝の大安売り
8)更始帝の最期
9)河南平定と、関中叛乱
10)蜀漢と孫呉の先例
11)ウィットな政策の皇帝
12)ワーカホリックなパパ