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『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ 6)北の果てに戻る意図
◆更始帝の危機
赤眉が、函谷関から侵入して、更始帝を攻めた。
「鄧禹よ。兵を連れて、洛陽に発ちなさい」
劉秀は、鄧禹に6人の副将をつけて、西に向わせた。鄧禹に伝えられた劉秀の命令は、
「更始帝と赤眉の争いに付けこめ」
というものだった。
赤眉と更始帝を共倒れにして、洛陽も長安も手に入れたい。これが劉秀の狙いだったようで。大司馬になって、すぐに洛陽を飛び出したところが不自然だったが、自立の目論見があったのだ。
「兄(劉縯)の二の舞を踏むものか」
という思いもあっただろう。
更始帝は部将を洛陽に置いて、赤眉(と劉秀)を防ごうとした。劉秀も部将を孟津において、洛陽の戦乱が河北に及ばないように守らせた。

25年正月、
「今度こそ、真・皇帝が即位した」
という話が出た。王莽が形式的に立てた前漢最後の皇帝が、物心が付いて天子を称したのだ。劉嬰である。
「孺子嬰」という帝号のようなもので呼ばれているけど、「孺子」とは「小さな子供」の意味でしかない。范増が項羽に怒って、
「孺子(ガキ)め、こんな奴と天下を望めない」
と罵ったことは有名です。
気に食わない年下の人がいたら、是非とも一度は使ってみたい言葉ですね。相手が漢籍に疎いことを確認してから、使いましょう(笑)
余計なことを言えば、「嬰」というのも乳児の意味がある。どれだけお子様な人なんだ。
「劉嬰は、ニセ皇帝である」
そう主張しなければならないのは、更始帝。
劉嬰は更始帝なんかより、はるかに前漢の皇室に血が近い。更始帝の正統性を、無効化するほどの尊貴さである。更始帝は、赤眉に攻められて忙殺されているが、きっちりと劉嬰を斬った。

◆劉秀が死んだ?
劉秀は洛陽と距離を置き、河北の安定に力を注ぐ。果ては北平郡まで遠征して、平定した。
調子に乗って追撃をかけていたら、劉秀は負けた。
「すぐそばで、白兵戦になっています」
劉秀は、死を覚悟した。高い岸から飛び降りて、逃げ道を探した。
突騎の部将と遭った。部将が、
「私の馬でお逃げ下さい」
と馬を差し出した。劉秀は、部将の肩をポンポンと叩いて、もらった馬にまたがった。劉秀は、左右のものに、
「あーあ、あやうく捕虜になり、笑い者になるところだった。危ねー!」
と言って、馬にムチをくれた。
もっと遠慮するとか、部将の命を惜しむとか、忠心を讃えるとか、そういうポーズがほしい。劉氏の創業者は、こういう奔放なところがあります。劉邦だって、劉備だって、逃げるときはドライに逃げる。

劉秀の軍勢は、范陽の砦に逃げ込んで、人心地ついた。
「おや、劉秀さまが居ませんが」
「あ、本当だ」
「死んじゃったのかも知れないぞ」
騒ぎかけたとき、重臣の呉漢が言った。
「そうそう騒ぐんじゃない。主君の兄(劉縯)の子が、まだ故郷の南陽郡にいる。劉秀さまが死んだところで、心配はいらん
すごいことを言う重臣です。
敵は、劉秀軍の戦績に威圧されて、勝ったくせにそれ以上は攻められなかった。
さて『後漢書』は、劉秀が現れたときのエピソードを載せてくれていない。
「数日にして、乃ち定まる」
と、分かるような、分からんような、説明に留まっている。
「うわっ、お化けだ」
とか騒ぎになり、呉漢は問い詰められて、
「非常時だからあんなこと言ったけど、本当は劉秀さまの生還を願っていたんですよ」
なんて言い訳をしたに違いない(笑)

◆即位ノススメ
劉秀は、温を攻めた。司馬懿の先祖はいたのかな(笑)
温を平定すると、諸将は、
「劉秀さま、皇帝を名乗って下さい」
と言い出した。
温というのは、洛陽にとても近い場所です。ちょっと手を伸ばせば、洛陽を手元に押さえられる。しかし、それは性急というもの。
馬武という人が、進み出て言った。
「天下には、主がいません。いま国土は疲弊しています。どこからか聖人が出てきて、孔子を大臣とし、孫子を将軍に任命しても、うまく治めることが出来ないでしょう」
じゃあ、どうしようもないじゃないか・・・。そう思わせておいて、馬武さんは語調をカラッと切り替える。
「劉秀さんは、へりくだって控えめです。それは、大いに結構。しかし祖先の祭りや、国家の政治をどうするつもりですか。まさか、知らんとは言わないでしょうね」
劉秀は、ウッと思ったに違いない。
馬武は、まだ吼える。ここからが秀逸で、とても聞かせる。
「いったん薊まで戻って、皇帝に就かれるべきです。そこから南へ征伐を開始されるが宜しい」
薊とは現代の北京(ペキン)だから、当時としては北辺だ。せっかく洛陽に逼っているのに、なぜわざわざ迂回して、国の果てまで戻るのか。
理由を、馬武は説明してくれた。
「はじめに私は、いまの天下には主がいないと言いました。主がいなければ、賊もいないことになります。主に歯向かうのが賊ですから。そんな状態で、あちこちの敵と戦っていても、秩序は永遠に生まれません。子犬のジャレ合いみたいなもんです」

なるほど!
薊城は、劉秀が河北平定を始めたあたり。地盤は固い。
次に進軍の過程で、
「私は皇帝で、あなたは帰順した臣下だ。そういう構図で宜しくね
と署名活動を行ないながら、南下する。ここまで数年の戦闘で、薊城から洛陽までの間には、敵は残っていない。
親征に模したセレモニーをやる。王莽のせいでリセットされ、上下左右の分からなくなった国に秩序を、取り戻そうというのだ。
署名活動には漏れがあってはいけないから、北の果てにある薊城は、スタート地点にピッタリなのだ。

秦の始皇帝は、顔見世のために、命を削って全土を行脚した。あれと同じだ。
『蒼天航路』は、アニメをやってますね。
あの中で赤壁に行くときの曹操は、長江から東シナ海に出て、黄河から中原に帰ってこようとしている。
秩序が壊れた地域には、君主が自ら、遠路はるばるの巡察したくなるらしい。曹操の移動距離はすごい。

◆やんわり承諾
馬武の提案に、劉秀は驚いて、
「どの将軍が、そんなことを言っているのだ」
と聞いた。馬武は、
「全員です」
と強めに言った。劉秀は帝位には就かなかったが、軍を引き上げて薊城に向った。やんわりと承諾したサインか。
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このコンテンツの目次
『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
1)武帝と光武帝
2)男伊達の兄が挙兵
3)昆陽籠城の変態
4)ふたりめの皇帝
5)皮肉まじりの帝号
6)北の果てに戻る意図
7)皇帝の大安売り
8)更始帝の最期
9)河南平定と、関中叛乱
10)蜀漢と孫呉の先例
11)ウィットな政策の皇帝
12)ワーカホリックなパパ