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『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
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7)皇帝の大安売り
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◆またも皇帝の誕生
ついに劉秀が「光武帝」になるかと思いきや、まだです。
それどころか、25年夏4月、公孫述が天子を称した。言わずもがな、巴蜀に割拠している軍閥です。劉備の先例とも言えます。
劉秀は薊城に戻りつつ、戦死した人を埋めてあげた。人心を得る常套手段ですが、なかなか出来ないらしい。
中山国で再び、即位コールを受けた。今までの功績を確認して、「だからあなたは相応しい」が落としどころです。劉秀は却下した。
南平棘で、また即位コールを受けた。
「四面に敵が残っているのに、帝号なんて名乗れないよ」
と劉秀が断ったので、
「今日もダメかあ」
と諸将が退出しようとした。しかし耿純が進み出て、言った。
「天下の士大夫が、親戚を捨て、故郷を捨てて、劉秀さまに従っているのは、なぜだと思いますか」
「う・・・」
「劉秀さまが皇帝になり、志を果たされることに期待するからです。すでに平定戦は目処が立ち、天命も人望も集まっています。にも関わらず、いつまでもグズグズしていたら、士大夫は劉秀さまのために努力するのが馬鹿らしくなり、帰ってしまいますよ。即位をジラすことで、劉秀さまは自らの首を絞めています。一度バラけた大衆は、なかなか再びまとまりません」
耿純の発言は、内容こそ脅しだが、誠実な調子だったから、劉秀は感じ入った。
「私が皇帝になることについて、考えてみよう」
◆即位のきっかけは・・・
河北で戦い続けていると、劉秀が長安に遊学したときの友人が、カードを持ってきた。
「ああ、懐かしいなあ。ところで、何を持っているのかね」
「これは『赤伏符』だよ」
「何それ」
「図讖さ。ここには、キミすなわち劉秀が即位するという、占いめいた暗示が記されているのだ。めでたいから、持ってきてやったぞ」
「よせよ」
「はっはっはー、もう遅いよ。群臣に見せちゃったもんね」
そういうわけで、群臣は天の意向まで味方につけて、劉秀に即位を要請した。劉秀は若いころに、李氏の占いを笑い飛ばしたことがある。そういう男だが、群臣には逆らえない。
劉秀は有司に命じて、即位するための壇場を築かせた。きっかけは、自然科学人には眉唾だが、占いでした。
6月、劉秀は即位した。よく小説にあるのは、
――以降は劉秀を、光武帝と記す。
という呼称の変化宣言です。でも、厳密に言うと違うんだよなあ。この時点では、日本風に言えば「今上皇帝」になっただけで、「光武皇帝」になるのは死んでからです。でも日本史でも、生前から諡号で呼ぶのだし、ここでも「光武帝」でいいや。
祝文に曰く、
「天地の最高神よ、私は人民の父母となります。私はイヤだったけど、群臣が口を揃えて即位しろ!というから、即位します。王莽が前漢から帝位を奪ったので、私は怒って挙兵しました。王莽軍を昆陽で破り、河北では王郎と銅馬を倒しました」
河北でのメインの敵役が、王郎(ニセ劉氏)と銅馬(あだ名の由来)だったことが、この祝文から分かります。
◆後醍醐天皇のお手本
光武帝は年号を、
――建武、
と定めて天下に大赦した。
余談ですが、東晋を復興した司馬睿も、建武(317-318)という年号を使っている。 そしてもっと有名なのが、後醍醐天皇です。鎌倉幕府に政権を奪われたけれども、また京都の天皇が主権しますよ!という心意気で、年号を建武にした。王莽に帝位を奪われたが、また劉氏の漢を建てた光武帝に倣っている。 光武帝の考案した年号は、日本の小学校で教えられている。
後醍醐天皇は、
「先例がないからって、尻込みしてはいけない。私は新しいことを始めよう。私が後世の先例となるのだ」
と宣言していた。気合の入り方が、ぼくは好きです。
もう1つ言えば、日本で「正閏論」の火種を作ったのが、後醍醐天皇の時代だ。京都の天皇と、吉野の天皇。どちらがホンモノかという議論は、まるで魏と蜀の争いだ。
余計ついでに補足すると、日本の南北朝時代は、西晋末に洛陽と建康に皇帝が立った時代から、呼び名をもらっている。
後醍醐天皇を、「日本中世の三国志男」と呼ぶことにしよう(笑)
◆皇帝のバーゲンセール
三国時代に袁術が即位したとき、
「やたらと皇帝を名乗るなんて、下品な人ね」
と顰蹙を買ったのであるが、後漢初の方が、かなり派手だったりする。また1人、皇帝が立てられた。
赤眉は、劉盆子を天子にした。
「1つの勢力を形勢したいなら、1人の皇帝が必要だ」 そう言わんばかりの、皇帝のバーゲンセールである。前漢から後漢へのバトンタッチは、三国ファンには割りに円滑なイメージがあったが、全くそうではない。
全ての既成秩序がリセットされて、有史以来の大混乱が起きたと言っても、過言ではない。それだけの破壊力を、王莽が持っていたと言い換えてもいいかも。 春秋時代は周を推戴するという名目があった。戦国時代は、強国が固定されて、互いに牽制していた。秦末は項羽が諸王を封じた。乱世とは言え、いつも何らかの軸が通っていた。 だが今は違う。
三国ファンの感覚なら、
「劉嬰(もと孺子嬰)が出てきたら、正統論争は収束するだろう」
という想定をしてしまいそうだ。 なぜなら、献帝のことが念頭にあるからで、
「いくら幼少で無力な皇帝でも、血筋は全てに優先する」
と信じている。
だが劉嬰は、登場した直後に、一撃で斬られた。。
劉秀は、河北の軍閥に過ぎなかった。臣下が過剰に即位をリクエストしたのは、他軍閥と張り合うためもあるだろうが、秩序を回復する台風の目になって欲しかったからだね。
◆儒教による秩序化
話題の時代がズレるけど、後漢は幼帝を連発させる。生後100日の殤帝は極端なサンプルだが、10歳未満の子供たちが、外戚に支えられて皇帝になる。 叩けば死ぬような幼帝ですら、やわらかい布にくるんで推戴された。幼帝が殺され、後漢初のカオスに逆戻りしなかったのは、奇跡だ。それほどに、後漢初は無重力空間だ。
3代章帝のとき、白虎観で儒教と政治について話し合われるんだが、そのおかげか? 4代和帝の即位は、西暦88年。まだカオスの残り香がありそうな時代に、さっそく晒された幼帝を守ったのは、儒教のパワーだろうね。
・・・すごいなあ、儒教。
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このコンテンツの目次 『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
1)武帝と光武帝
2)男伊達の兄が挙兵
3)昆陽籠城の変態
4)ふたりめの皇帝
5)皮肉まじりの帝号
6)北の果てに戻る意図
7)皇帝の大安売り
8)更始帝の最期
9)河南平定と、関中叛乱
10)蜀漢と孫呉の先例
11)ウィットな政策の皇帝
12)ワーカホリックなパパ
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