いつか書きたい『三国志』
三国志キャラ伝
登場人物の素顔を憶測します
『晋書』と『後漢書』和訳
他サイトに翻訳がない列伝に挑戦
三国志旅行記
史跡や観光地などの訪問エッセイ
三国志雑感
正史や小説から、想像を膨らます
三国志を考察する
正史や論文から、仮説を試みる
自作資料おきば
三国志の情報を図や表にしました
企画もの、卒論、小説
『通俗三国志』の卒業論文など
春秋戦国の手習い
英雄たちが範とした歴史を学ぶ
掲示板
足あとや感想をお待ちしています
トップへ戻る

(C)2007-2009 ひろお
All rights reserved. since 070331
『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ 8)更始帝の最期
前回、皇帝になった劉秀。
だけど1年ほどの短い間に、巴蜀の公孫述、赤眉の劉盆子が即位している。
つまり、劉秀の即位は、取り立てて特別な出来事ではない。各地の有力者が皇帝を名乗ってゆく、連続した流れの1コマでしかないと考えた方がよいでしょう。正統も逆賊もなく、どこが勝つか分からない。

◆更始帝を葬る
7月、鄧禹を大司徒にした。呉漢を大司馬にした。
呉漢に11将軍を率いさせて、光武帝は洛陽を包囲させた。
馬武が描いた天下平定プランに照らし合わせるなら、河北の巡業は完了して、ついに本丸に取り掛かったことになる。
洛陽は、かつて光武帝が更始帝に命じられて、首都の機能を整えた地です。是非、ほしい。

9月、報せが入った。
「赤眉が、長安に入りました。更始帝は逃走し、妻子は肌をむき出しにして放浪しています
光武帝は、言った。
「なんとまあ、可哀相に。更始帝を、淮陽王にしよう。もし更始帝に危害を加える人がいれば、大逆罪を適応するぞ」
優しげに見えますが、極めて酷です!
いちどは皇帝になった人を「王に封じてやろう」というのは、降格の押し付けだ。しかも更始帝は、光武帝の旧主ではないか。
会社に例えると下世話だが、ある日専務が社長に向って、「キミを部長に任命しよう」と言っているのと同じだ。
それに、もともと赤眉をけしかけ、更始帝を襲わせたのは光武帝でした。更始帝は、赤眉ではなく、光武帝によって葬られたに等しい。

10月、光武帝は洛陽に入り、都を定めた。後漢の準備が進んでいるようだが、そうでもない。
11月、梁王の劉永は、天子を称した。
三国ファンなら聞き覚えがある名前だと思います。劉備の子は、劉永といいます。同名だ。この人は、魯王に封じられた。その弟の劉理が、梁王だ。蜀漢の領地には、魯も梁も属さないから、名ばかりだが。
蜀漢で、兄の劉永を梁王にしなかったのは、後漢初の劉永とカブるのを嫌ったからだろうか。孔明さんなら、それくらい目は配っている。

12月、赤眉が更始帝を殺した。
長安の秩序がリセットされて、立ち上がったのは隴右の隗囂と、安定の盧芳だ。2人は軍閥として自立した。
だが、2人は『後漢書』列伝の3巻と2巻に収められているから、のちに光武帝の強い味方になるはずだ。ネタバレだ(笑)

◆国の大きさ
26年正月、功臣を列侯にした。大国は4県を食邑とした。
詔をした。
「もし功績を立てたのに、国をもらえなかった人がいたら、大鴻臚に言いなさい。功績を記録するから」
博士が、反論した。
「諸侯に、国をあげすぎだ。古代の帝王は、諸侯に百里をあげただけだ。4県なんて、バブルに狂った大盤振る舞いだ」
こういう頭の固い人は、どうしても出てくる。中原の生産力は、飛躍的に向上して、耕地は広がったのに。。
例えば日本で、終戦直後に1円が大金だったからと言って、いま子供に理由なく10円あげたら目くじらを立てますか。
光武帝は反論した。
「無道なことをやれば、国は滅びるだろう。だが、功臣に土地を分け与え過ぎて滅びた国を、私は知らない」
たしかに光武帝は知らないだろうが、300年弱後に西晋の司馬氏が、封国に分権させすぎて滅ぶのです。あれは皇族だから、やはり功臣の例にはならないか。

◆建国の体裁
洛陽に前漢皇帝11代の廟を立て、社稷を建て、祭壇を築いた。
「この王朝は火徳で、シンボルカラーは赤でいく」
と定めた。
『後漢書』の注を読むと、
「前漢のはじめは土徳だと思って、黄色を尊んだ。だが途中で火徳だということになり、赤を重んじるようになった」
のだそうで。
例えます。ずっと自分のことをA型だと思っていた人は、意識して几帳面に生きてきた。でもあるとき、本当はB型だったと判明し、自分の性格が分からなくなった――。
そんな話とは違うだろうが(笑)相克説と相生説のどっちを採用するかなどで、シンボルとなる徳が変わる。信じてきた前提が、予告なく揺らぐのは、怖いことです。

同じ正月、赤眉が長安の宮室を焼いた。赤眉は、前漢皇帝の陵墓を暴いた。
祖先の陵を守れないというのは、人間として最低なことです。鄧禹は長安に入り、前漢皇帝の霊を洛陽にお招きした。
っていうか、赤眉!
赤眉が推戴している劉盆子だって、前漢の皇族出身だろう。その祖先を尊ばないとは・・・もう統制の利かない賊徒でしかないわけで。

6月、光武帝は、貴人の郭氏を皇后にして、子の劉彊を皇太子に立てた。これを書いている時点で、先のことを知りませんが、岩波書店が劉彊に「列伝32」という注を付けているから、廃嫡されるのでしょう。もしかして後継者争い?もしくは惜しまれつつ病没?はたまた戦死か?
2代明帝の名は調べれば分かるが、お楽しみ。

◆他の皇帝との争い
この年に光武帝は、たびたび天子の劉永と戦った。光武帝が優勢で、劉永は拠点を転々と変えた。
更始帝の遺臣が合流して、劉永の味方をした。 更始帝を滅ぼしたのは光武帝だと、バレたか。
劉永はしぶとくて、諸王をどんどん東方に封じた。もし劉永が勝利していたら、このときに建った国が藩屏として、何百年も続いていたんだろうなあ、と思う。『後漢書』は詳しくないが、劉永のところも、洛陽に劣らぬ官制が整備されていたに違いない。

11月、銅馬らの余族が、孫登という人を天子に押し上げたが、すぐに内輪もめして自滅した。かつての河北の大勢力であることも気になるが、孫権の嫡子と同名だということが、もっと気になる。
太中大夫の伏隆が、青州と徐州を帰順させた。河北ばかり話題になり、河南は放置されていたが、1行で片付いてしまった!

次回、赤眉と光武帝の最終決戦です。
前頁 表紙 次頁
このコンテンツの目次
『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
1)武帝と光武帝
2)男伊達の兄が挙兵
3)昆陽籠城の変態
4)ふたりめの皇帝
5)皮肉まじりの帝号
6)北の果てに戻る意図
7)皇帝の大安売り
8)更始帝の最期
9)河南平定と、関中叛乱
10)蜀漢と孫呉の先例
11)ウィットな政策の皇帝
12)ワーカホリックなパパ