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『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ 9)河南平定と、関中叛乱
◆赤眉との最終決戦
27年正月、大司徒の鄧禹征西大将軍の馮異が、赤眉と戦った。負けてしまった!
鄧禹を罷免した。鄧禹は、しばしば負ける重臣です。次に列伝を読むとしたら、この人だなあ。

宜陽に光武帝が行って、赤眉と戦った。光武帝は6軍を率いて、大司馬の呉漢が精兵を率いた。
「あの輝かしい軍勢と、戦うのは損だ」
局地戦で負けていた赤眉は、勢いをそがれた。赤眉は後ろ手に縛り、顔を正面に向けて、劉秀に降伏した。この降伏のポーズは伝統で、劉禅や孫皓も同じことをしている。
「高帝・劉邦の璽綬を返します」
赤眉は、差し出した。長安を席巻し、墓地を掘りまくったときに、手に入れたんだろう。天子を名乗った劉盆子は、ただの人に戻った。
「赤眉の10余万を降伏させたのは、前漢皇帝のお力である。今こそ私が劉邦を祭ろう」
ただの勝利宣言だと、見過ごしてはいけない。わざわざ前漢を継ぐとアピールしたとは、光武帝が前漢を継ぐことが自明ではないことの暴露です。油断はさせませんよ(笑)

◆消えぬ火種
漢の正当性を確保したものの、光武帝は座れない。
3月に薊で叛乱し、賊が燕王を自称。4月、劉永の部将を破り、6月に劉永を捕らえた。11月、涿郡太守が叛乱。
この歳、李憲が天子を自称。
翌28年4月、光武帝は鄴に移った。河北をぐるっと回り、涿郡の叛乱を平定。7月、譙に移った。8月、寿春に行き、臨淮郡を平定。10月に洛陽に戻るが、11月に宛城に行く。翌29年正月、洛陽に戻った。2月、魏郡へ。3月、楚郡で暴動。
飽きることなく中原を巡回して、後漢の国威をマーキングしているようだ。

大物との接触も、始まりつつある。
28年に馮異は、公孫述の部将と陳倉で戦った。蜀から北伐してきた人を、陳倉で食い止める。まるで諸葛亮と郝昭と同じだ。

27年、西州大将軍隗囂が使者を遣した。西州とは、涼州と并州を合わせた呼び名のこと。
29年4月、河西大将軍の竇融がはじめて使者を遣した。北や西の軍閥が、味方になってくれた。ネタバレの伏線を回収できました。
北や西は異民族に乱されて、後漢のときにずっと苦労します。北や西を守ってくれる将軍が、国家に持てはやされることとなります。
7月、光武帝は沛で劉邦を祭った。
足はついでに東方へ伸び、彭城や下邳を平定した。10月、魯で孔子を祭った。臨淄で会戦をこなし、斉を平定した。
とても地道に、河南を味方に入れています。

戦歴を見ると、こう言いたくなる。
「 光武帝には前漢の神威なんか憑いていない
まず更始帝の将軍として、泥臭く河北を平定した。洛陽を平定してから、赤眉と睨み合いをやって、長安を収めた。その後に、やっと河南の平定に時間を割けるようになった。
なんの飛躍もない。平凡に勝ち抜いた人だったのか!

◆諸葛亮が成功していたら
ここから「光武帝紀」は、下巻に入ります。まだ折り返し地点だが、以後はペースアップさせて、そんなに長くしないつもり。いかめしい詔の長文が増えるが、省こう。
30年、山東地方を片づけて、洛陽に戻った。
3月、公孫述が南郡(江陵)を攻めた。公孫述が動くと、ついつい蜀漢とダブらせてしまいます。夷陵の戦いのときと同じように、巴郡から長江を下ってきたのでしょう。
対する光武帝は、4月に隴道から公孫述を攻撃した。

4月に長安で前漢皇帝を祭った光武帝だが、5月に関中で隗囂が反した!ついさっきまで光武帝がいた場所での叛乱です。何か直接のトラブルがあったに違いない。
光武帝の部将は、隗囂に敗れた。
光武帝は、詔を出した。
天水郡、隴西郡、安定郡、北地郡の人らよ。キミらは赤眉に苦しんで、仕方なく法を侵したんだろう。後漢からの処罰を恐れて、隗囂に付いているんだよな。心配はいらん。キミらの罪は問わない」
北風ではなく太陽政策を選んだが、隗囂は弱体化せず。彼らは後漢に裁かれるのが怖いのではなく、後漢を中央政府として認めていないんだ。ニーズと違う詔を出してしまって、恥ずかしい。マーケティングのミスですな。

6月、公孫述の北伐を、西城で破った。曹叡のときの魏と違い、隗囂のせいで関中を後方基地として使えないから、巴蜀から北伐を受けるのは大変だったはず。
12月、隗囂の部将が扶風郡を攻めた。あの五丈原のある土地です。征西大将軍の馮異が防いだ。

31年3月、公孫述は、
「隗囂を、朔寧王に奉ろう」
と言い出した。巴蜀と関中の反対勢力が、手を結んでしまった。
もしもの話で恐縮だが、魏延の奇襲が成功し、巴蜀と関中が結んで、中原に対抗したら、こういう構図になるに違いない。諸葛亮のため、公孫述と隗囂には、是非とも頑張ってほしいものだ。
8月、隗囂が安定郡を寇したが、馮異が退けた。

◆隗囂の最期
エンディングには光武帝が勝つことは、残念ながら知っている。だが、どういう勝ち方をするのか、ワクワクして「光武帝紀」を読みつつ、これを書いています。
32年閏4月、光武帝は自ら隗囂を攻めた。河西大将軍の竇融は、隴西郡・天水郡・酒泉郡・張掖郡の太守を率いて、光武帝に従った。隗囂は敗れて、隴右から西城に逃げた。包囲されても、降伏はしない。
11月、公孫述が動いた。
「隗囂を助けよ」
天水郡と隴西郡は、ふたたび隗囂に味方した。後漢から離脱した。諸葛亮が長安を直撃せずに、いつも西へ迂回して北伐をくり返した。性急なファンには不可解だが、隗囂によってこの地方が切り取られた歴史を知っていれば、合点がいく。
いちど脱臼を経験した肩のように、洛陽の政権から外れやすい。

33年正月、隗囂は病死した・・・
そういう結末を用意していましたか。
この歳、護羌校尉を設置した。前漢の武帝が設置して、比二千石のポストです。姜維が、羌族を味方にして、北伐の望みを繋ぎます。西方で争うと関わってくる羌族を、光武帝は抑えようとした。狙いは、羌族から漢人への恨みを解くこと。。因縁深いのだ。

34年10月、隗囂の子・隗純を破った。部将は蜀に逃げた。隴右郡を平定した。
喜びも束の間だった。先零羌が、金城郡と隴西郡に寇した。
後漢の国庫を食い尽くす異民族の侵入は、すでに始まっているのです。隗囂がいたときに記述がないのは、隗囂が羌族を受け止めていたからでしょう。以降は、後漢が自前で防がねばなりません。

次回、巴蜀の討伐。がんばれ、公孫述☆
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このコンテンツの目次
『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
1)武帝と光武帝
2)男伊達の兄が挙兵
3)昆陽籠城の変態
4)ふたりめの皇帝
5)皮肉まじりの帝号
6)北の果てに戻る意図
7)皇帝の大安売り
8)更始帝の最期
9)河南平定と、関中叛乱
10)蜀漢と孫呉の先例
11)ウィットな政策の皇帝
12)ワーカホリックなパパ