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『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ 10)蜀漢と孫呉の先例
蜀漢ファンは必見です。
巴蜀に建てられたミニ国家が、どのように滅びていくのか。
蜀漢の人たちは、公孫述の末路を先例として知っていたはずだ。 自分たちと重ね合わせないように心に鍵をかけながら、でもどこかでダブッて感じていたに違いない。
前年に、関中を占めていた盟友・隗囂の軍閥が、滅ぼされた。益州だけを保つ、公孫述です。

◆諸葛亮と司馬昭の挟み撃ち
35年閏3月、荊門(宜昌の東南)に出張っていた公孫述の部将は、捕らえられた。後漢は長江を遡り、江州(巴郡の治所)は包囲された。水軍で攻められて、巴郡は陥落してしまった。
劉備に呼び寄せられて、荊州から張飛・趙雲・諸葛亮らの主力軍が、益州の劉璋を攻めました。荊州から長江を遡る進路は、このときと後漢軍と同じです。
江州を攻め落としたのは、趙雲だったかな。

6月、下弁でも、公孫述の部将が敗れた。下弁は、張飛と張郃が、恐ろしい顔をしてシノギを削ったあたりだ。
すでに後漢は関中を接収したから、こういう攻めが出来るのです。7月、光武帝は長安に入った。
山岳地帯から部隊が南下し、大将は長安でプレッシャーをかける。司馬昭がやったことと同じです。司馬昭は鍾会と鄧艾を奔らせ、自らは長安で存在感を発揮した。

以降、北の山と東の江の二面作戦を、公孫述は引き受けます。諸葛亮と司馬昭が、同時に攻めかかってきているようなものだ。よくぞ恐慌をしなかったと感心する。
8月、長江に沿った黄石と沈水で、公孫述は防御を突破された。
10月、武都郡が平定された。これは北からの攻め。
12月、大司馬の呉漢が水軍で公孫述を攻めた。これは東から。

じわじわと敗戦を重ね、36年の11月、成都で決戦。
征伐が始まってから、1年半以上も、公孫述は持ちこたえている。見るべき部将も軍師もおらず、ただ天険に頼っているだけの公孫述でも、これだけ保てるのだ。劉禅さんの潔かったことよ(笑)
公孫述はキズを負い、夜に死んだ。
呉漢は成都を平らげて、公孫述の一族は殺された。

37年4月に呉漢は洛陽に凱旋し、いちおう、
「兵革すでに息(や)む」
と宣言された。吉川英治みたいに締めくくるならば、
「こうして天下は一つになったのである――」
と、自信たっぷりに素っ気なく片づけてしまいたくなる。だが、本当にそれでいいのか。このあたりから本紀は、異民族との接触にメインテーマが移る。
立場が安定した後の光武帝を見る前に、ちょっと脱線をさせて下さい。

◆呉がないんだけど
踏み固めるように全土を統一してきた光武帝だけど、三国ファンならば確認せずにはいられない忘れ物があるだろう。
「揚州(呉)に出かけなくて良いのか?」
です。きっと三国ファンの10人に8人くらいは不満に思うはずだ。少なくともぼくは、スパイスを故意に抜かれた料理を食べているような、気持ちの悪さが残っている。
なぜ、呉の平定がないのか。それは、
――呉はまだ、漢人の住む土地じゃないから。
これに尽きるだろう。
後漢の後期ですら、徐州の南部あたりがフロンティアとして、よく離反する。そして、しばらく返ってこなくなる。孫呉の部将たちは、必ず全員が列伝で越族の討伐をやらされている。孫呉の領地は、三国時代にやっと開拓に到った場所なのだ。

このサイトの初めにチラッと書いたが、光武帝の出身の荊州北部だって、「楚」と呼ばれた野蛮な土地だった。「荊州」というのも、イバラの生えた土地という意味だ。
酒見賢一の『周公旦』では、まるで異星に亡命でもしたかのように、楚に流れた周公旦の人生が描かれていた。
そういうわけで、光武帝が長江を渡る必然性がないのです。

◆赤壁から撤退した理由
ぼくは曹操が赤壁で敗れた原因は、光武帝にあると思う。
曹操は革新の政治家だと思われているが、とても保守的な人だ。
腐った後漢権力と、不可分の家柄に生まれた。言わずもがな、宦官の孫です。彼は、世を拗ねたおじさんたちから、どうしても月旦評をもらいたかった。皇帝では、最も無難な献帝を支持した。董卓は皇帝を殺し、劉焉は天子を伺い、袁術は自ら即位し、袁紹は劉虞を選んだ。それらに比べると、つまらないチョイスだ。
曹操は『孫子』に注釈したが、あくまで古典研究なのです。本当にクリエイティブな兵法家なら、自分で『曹子』を書けばいいじゃん。『演義』に出てくる『孟徳新書』って何だろうね。新書版のサイズで値段が安く、お求めやすかったのか(笑)

曹操は袁紹を乗っ取り、河北から南進するというサクセス・ストーリを描いた。曹操がロールモデルとして最も意識したのは、直近の武力統一者である光武帝でしょう。光武帝の記録を読み読み、次の行動を考えるのです。
荊州を攻めて、襄陽を戦わずに手に入れた。益州からは、劉璋の使者が帰順を示した。この時点で光武帝に追いついたんだが、ページをめくっても次がない。
もう台本は終わっているのに、揚州には孫権が残存している。こんな話、聞いてないぜ。どう対処したらいい?」
曹操がゼロからイチを作り出す人なら、うまく対処したでしょう。しかし曹操はイチからニを連想する人なので、どうにもならん。けっきょく、目的もわからずに長江を流れて、放火されて帰ってきてしまった(笑)

もし光武帝の時代に、呉に独自勢力があったら、どう対応しただろうか。きっと部将を四方八方から送り込んで、手堅く下しただろう。大船団を気取ったりせず、小刻みに敵拠点を落としただろうなあ。

脱線はこれまでにして、次回から光武帝の治世を見ます。
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このコンテンツの目次
『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
1)武帝と光武帝
2)男伊達の兄が挙兵
3)昆陽籠城の変態
4)ふたりめの皇帝
5)皮肉まじりの帝号
6)北の果てに戻る意図
7)皇帝の大安売り
8)更始帝の最期
9)河南平定と、関中叛乱
10)蜀漢と孫呉の先例
11)ウィットな政策の皇帝
12)ワーカホリックなパパ