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『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
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11)ウィットな政策の皇帝
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◆諡号
39年4月、更始帝に殺された兄の劉縯に、「斉武公」を贈った。全くカゲの薄い次兄には、「魯哀公」を贈った。諡号から分かるが、夭折していたようだ。いちおう本紀で「仲」と呼ばれているが、「次男」という一般名詞だし、記録の価値がない。
こうやって号を贈っているから、もう統一は成ったという朝廷の認識なんだろう。
◆アイディア平定戦
40年2月、交趾で叛乱。
9月、ひどい兵乱。大姓(豪族)、兵長、群盗が、郡県の役人を殺して回った。青州・徐州・幽州・冀州がもっともひどかった。
このエリアを見ると、黄巾ノ乱にそっくりである。後漢の根拠地だから、ここに背かれたとは一大事だ。もっとも文化が進んだ地域で、自立の傾向も強いのでしょう。
後漢末なら、
「何進が大将軍に任命され、朱儁が」
云々という話が始まり、真正面から戦いを挑んでいく。だが後漢は始まったばかりで、そんなつまらないことをやらない。もっとウィットに富んだ平定をやる。
10月、使者を郡県に回らせ、
「兵を挙げた人よ。5人でチームを組み、1人の賊を斬ったなら、5人の罪を免除する」
と伝えた。
挙兵した人は、一枚岩ではない。利益のために立ち上がったのに、自分が1人の斬られる側になったら、大損である。こぞって5人の側に回っただろう。単純に、
「1人の賊を捕らえた1人は、罪を免除する」
では、挙兵した人は顔を見合わせて、
「まさか裏切るまいな」
と確認し合って終わりです。効果なし。しかし5人であることが秀逸なのです。これで賊の6分の1は斬られ、6分の5は後漢に味方する。こんな計算以上に、きっと雪崩を打つように、賊は後漢に帰順したと思う。
使者が間違えて、
「1人で5人の賊を討てば、罪を免除する」
と言ったら、しょーもない結果になっていたよなあ。
後漢が放った命令には続きがあり、
「郡県の役人のうち、城を捨てて、群盗から逃げ隠れしていたとしても、責任を問わない」
在地の役人は、後漢に味方したものの、まだ体制に完璧に取り込まれていない。平定の責任をいちいち追及したら、後漢から心が離れてしまうだろう。
「今回の騒ぎは、後漢が至らないから起きたのです」
と責任の所在を明らかにしたのだ。
これだけでは張り合いがないから、
「群盗を捕らえた人は、手柄に応じて褒賞する」
と宣言し、
「ただし役人のくせに、盗賊を匿っていた人だけは、罰する」
とケジメをつけた。
黄巾ノ乱のときも、同じようにアイディアで鎮圧していたら、乱世は起きなかったかも知れない。国外の異民族を平定するときと同じ温度で、黄巾をかぶった自国民を攻めてしまったから、後漢は滅びたんだ。
◆皇太子を取り換える
41年10月、皇后の郭氏を廃して、中山太后とした。貴人の陰氏を皇后とした。
平たく言うなら、
「天下を取るために必要だった政略結婚は、もう後漢の権力が固まり、必要なくなった。本当に好きな人を、皇后にしましょう」
ということだ。
「妻にするなら、陰麗華」
なんてキャッチコピーみたいに夢を語っていた人だから、さぞかし達成感があったでしょう。
天下統一を祝って、叔母たちと宴会を開いた。 光武帝の母が、言った。
「秀ちゃんは、若いときはクソ真面目で、人付き合いが下手だった。ただ柔和なだけの青年でした。それが今では、皇帝陛下さまね」
光武帝は、それを聞いて爆笑した。
「ママ、私は皇帝になったが、真面目に柔和に、天下を治めたいと思っていますよ。むかしと何も変わりありません」
こんな、ほのぼのエピソードもありつつ、43年6月に皇太子の取替えを行なった。後継問題は、いつも火事を起こすから、慎重にやってほしいものだ。
詔した。
「孔子の書いた『春秋』には、後継者を立てるならば、貴い子を選べとのこと。東海王の劉陽は、陰皇后の子だから貴い。2代皇帝となるべきである。いま皇太子となっている劉彊には、代わりに東海王になり、身を引いてもらいたい。父子の思惑にギャップがありことは、良くない。さあ劉彊よ、父の言うことを聞いてくれ」
勝手なことです。陰氏を皇后に立てたのも、この皇太子チェンジの伏線だったと分かる。2年弱経ってから言い出しているので、中期的な作戦ですよ。確信犯だ。
「この2年間、皇后の子が皇太子ではないから、ずっと違和感があった。しかし、もう我慢の限界だ。うー!わー!父のこの苦しみを理解し、将来を諦めてくれ!劉彊よ」
と光武帝が、演技して幼児化している。 皇后を取り換えたのは、他ならぬ光武帝だろ。原文の
「父子之情、重久違之」 とは、漢字がいっぱいで難しそうだが(笑)子供の駄々に見せかけた、計算づくの台詞だ。
郭氏と劉彊の母子にしてみれば、
「私たちの実家は、河北で有力な豪族だ。実家のパワーを頼り、劉秀が結婚を申し入れた。将来への投資だと思い、劉秀に味方してやった。だが、リターンはゼロだった」
と怨みに思っただろう。
ここで、
「劉彊を支持する一派が、野に下り、兵器を蓄え・・・」
と書いてあれば面白いのだが、そうではない。
◆節税したいなあ
43年9月、光武帝は南に巡狩した。
汝南の南頓県の役所に寄った。ここは、光武帝の父が県令をやっていた場所だ。 現地の父老が、頭を地面に叩きつけて、願い出た。
「この県は、陛下ゆかりの土地ですから、免税して頂いております。ありがとうございます。どうか、もう10年間、免税して下さい」
調子のいい要求だ。光武帝は答えた。
「天下は大切な宝だ。つねに統治に失敗するリスクに怯え、私は1日また1日と、コツコツ生きている。いきなり10年という長い期間の話をされても、思考が追っつかん」
負けずに父老は言い返した。
「陛下は、ただ税を免除するのが、惜しいだけですね。謙虚な言葉を使っていますが、本心はケチっているのです」
絶対権力を持った皇帝に、こんな軽口を叩いていいのかと不安になる。光武帝は大笑いして、
「もう1年、免税しよう」
と許した。
『後漢書』を書いた人は、フランクに有権者と語り合う皇帝像を、後世に宣伝したかったのでしょうか。
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このコンテンツの目次 『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
1)武帝と光武帝
2)男伊達の兄が挙兵
3)昆陽籠城の変態
4)ふたりめの皇帝
5)皮肉まじりの帝号
6)北の果てに戻る意図
7)皇帝の大安売り
8)更始帝の最期
9)河南平定と、関中叛乱
10)蜀漢と孫呉の先例
11)ウィットな政策の皇帝
12)ワーカホリックなパパ
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