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『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
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12)ワーカホリックなパパ
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◆馬超の祖先
45年秋、鮮卑が遼東を寇した。
10月、伏波将軍の馬援が、長城から出撃して烏桓を攻めた。勝てなかった。
馬超が、
「漢の伏波将軍、馬援の後裔だぜ!」
と飛び出してくるのですが、元ネタはここにあります。
冬、西域の16国が、子を人質に差し出したが、
「やっと中国が定まったところで、国外の異民族とは戦いが絶えない。お子様たちを預かることは、まだ出来ません」
と申し出て、子たちを返した。
もう細かくは引用しませんが、匈奴・鮮卑・烏桓・蛮との交渉が、延々と書かれています。
匈奴が後漢に敗れて、南北に分裂します。匈奴の扱いは、劉淵が西晋を滅ぼす伏線だから、後日きちんと扱おうと思います。
50年、はじめて使匈奴中郎将を設置した。南単于は、子を後漢に差し出した。雲中、五原、朔方、北地、定襄、雁門、上谷、代郡の8つが、「本土に帰」した。
◆デフレな国家
51年5月、詔した。
「むかし、契(せつ)は司徒となり、禹は司空となった。古代は、前漢の大司徒・大司空みたいに、『大』の文字がついていない。インフレしたネーミングは辞めて、『大』の字を除け」
ついでに、
「大司馬を、大尉と改めよ」
と命じた。これで、後漢末まで見ることができる三公の官名が定まりました。めでたしめでたし。
◆泰山で封禅
56年2月、魯に御幸した。泰山に登って、封禅した。
「封」とは、土を集めて祭壇を作ること。「禅」とは、土を除いて祭ること。『後漢書』の注にあることだが、そういう意味だとは知らなかった。
6月、洛陽で甘い水が湧き出した。これを飲んだ人は、持病が癒えたが、眼と脚の病いだけには効かなかった。
べつに神秘性を剥がして手柄にしても仕方ないんだが・・・水に効能はなかっただろう。眼と脚の病いは、他人から見ても病気だと分かる。それらは直らず、自己申告で治ったことにできる病気にだけ、効いたことにされた。
赤い草が生えた。あちこち郡国で、甘露が降った。
群臣は、
「天と地の神が、陛下の中興を認めたのです。史官にめでたい出来事を記録させて、後世に伝えましょうよ!」
と奏上した。
「えー、そんなの要らない。私はろくに徳がない人間だから、天地に認められるわけない」
光武帝は却下した。 国家を保つには、こういう人智を超えたイベントを宣伝することが必要だ。光武帝その人が超常現象が好きだろうが嫌いだろうが、国家へのメリットの着目して、記録させるのが正解だろう。
だが光武帝はざっくばらんな人だから、思ったことを言ってしまう。
『後漢書』は、
「史官は吉祥をあまり書き残せなかった・・・」 とクレームを付けてる。 『後漢書』を書いている人から見て、後漢初の史官は同業者です。仕事を妨げられた無念に、共感しているのでしょう。
だがもし熱心に記録されたら、現代日本人が見たら面白くもない超常現象が、ズラズラと本紀に並んだに違いない。食傷だよなあ、、
◆日本の呪い
57年正月、東夷の倭の奴の国王が、奉献した。
翌2月、光武帝は死んだ。62歳。
ここでふと気づくのです。
奴の国王から使者が来た翌月に、光武帝は死んだ。卑弥呼の使者が来た直後に、魏の明帝(曹叡)は死んだ。
いつもタイミングが悪いのか、何か悪い病気でも持ってきているのか。ぼくが日本人だから、こんな日本人に無礼なことを言えるのですが。
光武帝の遺言です。
「私は万民のため、役に立てなかった。前漢の文帝のように、金銀銅錫の飾りなどつけずに、瓦器を副葬してくれれば、充分だ。既存の山に葬ってくれ。わざわざ墳墓を建設するな。倹約せよ」
とてもエコな最期です。
「刺史も太守も長吏も、任地の城郭を離れてはいけない。役人を遣わし、全土に駅伝して、私の死への哀悼を告げて回るな」
と。あれ?どこかで見たことがある。
曹操の遺言が、
「天下は安定していない。古式に従い、荘厳にやることはない。埋葬が終われば、喪服を脱げ。守備している城郭から離れるな。遺体に平服を着せ、金銀の装飾はいらん」
です。とても似ている。
『三国志』だけ読んだときは、任地を守り抜くように命じた曹操が革新的だと思ったが、何のことはない。パクりやん。三国志らしく、乱世の香りがする遺言だなあ、と感心した過去の自分が恨めしい。
正史にあるのか小説なのか忘れたが、
「墓を75個つくり、どれがホンモノか分からないようにせよ」
という曹操の趣向は、面白いが面倒くさい。
◆皇太子との交流
正史というのは、本人を死なせた後に、もっともその人らしいエピソードを挿入して、読後感をスッキリさせてくれます。分かったような気にさせてくれます。
光武帝は、軍事にあきていた。隗囂と公孫述を片づけてからは、危急にでもならないと、軍事を話題にしなかった。
皇太子が、
「合戦について教えて下さい」
と甘えた。光武帝は、
「むかし孔子は、軍事のことを衛ノ霊公から質問された。孔子は、私は儀式には詳しいですが、軍旅を学んではいません、と答えた。孔子が口を閉ざした軍事なんて、話題にする価値のないテーマだよ」
と答えた。
最後の文は、「此れは爾の及ぶ所には非ず」をぼくが言葉を補って書きましたが、解釈が会っているのか分かりません。
光武帝は早起きして政務を見て、日が暮れたら終えた。夜になったら郎官たちと、経書について議論して、遅くなってから寝た。睡眠時間を、ろくに取れていない。
皇太子は、
「父は、夏ノ禹王や殷ノ湯王のように、明智をお持ちです。しかし、黄帝と老子が説いた、養生の福を失っています。ちゃんと休憩して下さい」
と心配した。光武帝は答えた。
「政治も学問も、楽しいからやっているんだ。疲れないよ」
名君というより、ワーカホリックだ。
ところで、ここに出てくる皇太子って、劉彊と劉陽のどっちだろう。愛のある会話から見て、後者で良いんだろうね。
ここでの皇太子は、光武帝のキャラを立たせるための狂言回しとして、使われている。劉陽くんは、名を「荘」と改め、2代明帝となります。
◆王者の符(しるし)
本紀の「論」は、光武帝に起きた不思議現象をたっぷり紹介し、
「王者になる人には、必ず予兆があるものだ。符命がなければ、他にどんな方法を使って天下を取れるものか(反語)」
と締めくくってある。
後漢が符命の時代だというイメージを与えるのは、『後漢書』が書かれた5世紀の風潮が溶かし込まれたからで、実際の光武帝は、現代のぼくたちが使う意味での「合理的な」思考をした人だった気がする。
090613
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このコンテンツの目次 『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ
1)武帝と光武帝
2)男伊達の兄が挙兵
3)昆陽籠城の変態
4)ふたりめの皇帝
5)皮肉まじりの帝号
6)北の果てに戻る意図
7)皇帝の大安売り
8)更始帝の最期
9)河南平定と、関中叛乱
10)蜀漢と孫呉の先例
11)ウィットな政策の皇帝
12)ワーカホリックなパパ
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