01) 晋の皇帝と皇后に学ぶ
『群書治要』とは、唐代の魏徴という人が作った、古典の要約です。唐の太宗の勅撰で、全50巻。
読んで字のごとく、
「いろんな書物から、治世の要点となる参考箇所を集めたテキスト」
です。
愛知県立図書館に行って「晋書」と検索したら、
『群書治要』を1787年に出版した冊子を見つけた。徳川家斉の時代だ。おそらく木版印刷です。図書館で「貴重書」というカテゴリで管理されていた。司書さんに監視されながら、書き写してきました。
今日的な意味でいう、活字本は出ていません。江戸時代の本は取り扱い注視だ。印影本は、中世の手書きの毛筆で、ちょっと読みにくい。『群書治要』は、ぼくらには取っつきにくい本です。
このページの目的
『群書治要』に縮めて紹介されている『晋書』を、さらに短縮&和訳しました。皆さんの興味の足しにして下さい。
膨大な『晋書』のうち、どのネタが抜粋されているか見守るだけでも、面白いと思うのです。
「唐代以降の中国人や、中世や近世の日本人は、こんなものを読んで、教養人を自認していたのか」
とご確認いただければ、目的が果たされます。
武帝の参考エピソード
泰始5年、平民の麹路が、太鼓を鳴らして、妄言を吐いた。役人は、この狂人を罰しようとしたが、武帝が制止した。武帝曰く、
「私の政治が充分でないから、狂人が出現した。むしろ私の罪だ。この平民を罰してはいけない」
咸寧4年、大医の程拠が、雉頭キュウという珍品を、武帝にプレゼントした。武帝は、せっかくのプレゼントを焼いてしまった。珍品を重んじることで、ゼイタクな風潮が蔓延することを、武帝が嫌ったからだ。
『群書治要』は、本紀や列伝を真似て、冒頭で姓名を述べ、おわりで諡号を書いて、その間にエピソードが置いてある。『世説新語』のような「小説集」ではなくて、「正史の短縮版」というつもりなんだろう。
太康元年、群臣は武帝に提案した。
「孫呉を滅ぼし、天下統一を果たしました。泰山を祭って下さい」
武帝は「盛徳のイベントには、まだ早い」と辞退した。
武帝・司馬炎の話はこれだけです。
恵帝のエピソード
皇太子の司馬遹が謀反を疑われた。張華、裴頠、閻纉らは、もっとよく事実を調べるように上奏した。
成帝のエピソード
咸和7年、成帝は命令をした。
「虎や熊の飼育費用を除きなさい」
夏侯盛は、成帝の英断を大絶賛した。
簡文帝のエピソード
咸安2年、簡文帝は倹約を命じた。
「華美をやめて、民を休めよ。減らせる出費は、減らせ」
もとの「本紀」のように、歴史の流れを伝えない。教訓を引き出すことだけに重点がある。
武元楊皇后のエピソード
賈充の妻は、楊皇后に頼んだ。
「うちの娘(南風)を、皇太子(のちの恵帝)の妃にして下さい」
武帝は、衛瓘の娘を皇太子妃にしたかった。だが、楊皇后が口ぞえして、賈氏の娘が皇太子妃になった。
なぜ、実在の皇帝すら省略してしまう本で、武元楊皇后の列伝が立っているのか。その理由は、『群書治要』が紹介する『晋書』の主人公は、賈皇后だから! おいおい分かっていきます。
恵賈庶人のエピソード
賈皇后は、妬虐な人物だった。妊婦の腹に戟を投げつけ、戟が刺さった胎児が出てきた。
きっと反面教師にせよ、というつもりで掲載されているんだろう。
次回から、列伝に移ります。
細かい文言は、ぼくが省略しまくってます。図書館の開館時間の中で、手書きでは写せないからです。疲れるし。
でもネタ数は、基本的に減らしてません。これだけを読んで、
「私は『晋書』から学ぶべきことを、学んでいる」
と偉そうにする知識人って、どうなんだろう? ニセモノだろうな。