03) 西晋を建国した功臣
唐代の『群書治要』を、江戸時代の出版物で読んでいます。
連座を緩めよ、衛展
家の人が、納税せずに逃亡したら、家長は死罪されるルールだった。
衛展は、あまりに刑罰が厳しいので、緩めなさいと進言した。
ちくり魔、何曾
何曾は、司馬懿に告げ口した。
「阮籍は、親が死んだのに、酒肉を食らっています」
司馬懿は、何曾の様子をチェックした。阮籍がとても悲壮だったので、司馬懿は忍びなく思った。司馬懿は、阮籍を咎めなかった。
何曾の孫は、何綏である。
何綏は、潘滔にそしられて、殺されそうになった。司馬懿は、潘滔を取り合わなかった。司馬懿は潘滔と、日常の雑談だけをした。
何曾は、他人をチクって、陥れようとした。だが司馬懿は、受け流した。つぎは逆に、何曾の孫がチクられた。司馬懿はまた、受け流した。
司馬懿は、何氏の敵でも味方でもない。
「チクりを、本気で受け止めるな」は素晴らしい教訓だ。だが、何曾の孫の時代まで、司馬懿って生きていたんだっけか (笑)
堕涙碑がつくられた、羊祜
西晋が孫呉を滅ぼす前に、羊祜は死んだ。だが孫呉を破る準備をしたのは、羊祜である。武帝は「平呉は、羊祜の功績だ」と言った。
これより前、孫呉を攻めるとき、みな羊祜を思い出して泣いた。杜預は、堕涙碑を建てて、羊祜の功績を記念した。
「賈充を荒公」とせよ、秦秀
賈充が死んだ。秦秀は、賈充の生前の行いが良くなかったから、賈充の贈り名を「荒公」にしろと提案した。あまりに縁起が悪いから、却下になった。
何曾が死んだ。みな「何曾は、伊尹や霍光のような人だった」と褒めた。だが秦秀だけは、何曾のへつらいを批判した。
武帝を言い負かした、李憙
李憙は、司馬懿のスカウトを断った。のちに李憙は、司馬炎からスカウトされ、応じて出仕した。
武帝・司馬炎は、李憙に聞いた。
「前は断ったのに、なぜ今は応じたのか」
「司馬懿さまは、礼をもって私を待遇しました。私も礼に則って、進退を決めました。でも司馬炎さまは、法で私を縛りました。私は法を恐れて、仕方なく就職しました」
桓霊に劣る、劉毅
西晋の武帝が、劉毅に聞いた。
「私を漢の皇帝に例えるなら、誰かね」
「桓帝や霊帝です。いや、霊帝は官位を売買して、国庫を富ませました。武帝さんは浪費しかしないので、霊帝より下ですね」
武庫の井中で、龍が現れた。みな吉兆だと騒ぐけれど、劉毅は違うことを言った。
「子産の故事では、政治が乱れたときに、龍が現れました。魏代からの弊法を取り除き、政治改革をしなければ、西晋は治まらないでしょう」
天下を悲酸させた、張華
張華は、朝野から「台輔」に擬された。そのため張華は、荀勖や馮紞に敵視された。
張華は幽州に左遷され、馮紞が権力を持った。だが馮紞では、大きな仕事が務まらなかった。張華が中央に呼び戻され、太常になった。
孫秀に殺されたとき、天下が張華のために悲酸した。
東宮の人選に異議あり、裴頠
元康7年、東宮に「遊接」する人物が置かれたので、裴頠は諌めた。
裴頠が批判したのは、陳淮子匡、韓蔚子嵩である。
「遊接」は、人格も能力も低レベルな、腰巾着を想像させます。
気難しい、傅玄
傅玄は、他人の欠点を受け容れなれない人だった。西晋の武帝が、魏の曹奐から禅譲を受けたとき、傅玄と皇甫陶は批判した。
しかし、他人の欠点を咎めてばかりの性格って、どうよ・・・
志を得られず、任愷
任愷は賈充に悪まれ、免官されてしまった。
武帝は任愷を評価していたから、ふたたび出仕させた。任愷は太常にまでなったが、また賈充の妨害を受けて、辞めることになった。
任愷は志を得なかった。
次回、最終回。『群書治要』のメッセージを推測します。