04) 賈充と賈皇后が、目の仇
唐初の『群書治要』を、江戸時代の出版物で読んでいます。
賈充を殺せば、、裴楷
武帝が、裴楷に聞いた。
「天下は統一された。私は、何を得て、何を失っているか」
「呉蜀を滅ぼして、いま外敵がいないことが、得たものです。しかし賈充のような奴がいるので、武帝さんは堯舜には及びません。これが失ったものです。賈充を殺せば、湯武に並ぶでしょう」
ロコツに賈充を批判しましたねえ。怖いなあ。
恵帝の恨み言、和嶠
和嶠は、武帝に言った。
「皇太子はバカです。皇太子は、必ず司馬氏の家を滅ぼすでしょう」
やがて武帝が死に、恵帝が即位した。恵帝は、賈皇后に入れ知恵されて、和嶠に突っかかった。
文法の勉強も、捨てたもんじゃない?
恵帝曰く、
「おい和嶠、私が皇帝を継いだが、家は治まっているぞ。和嶠は、私をけなす進言をして、それが外れたのだ。それなりの刑罰を、覚悟しているだろうな」
和嶠は答えた。
「好きに罰しなさい。武帝に向かって、私が皇太子を批判したとき、すでに刑罰を受けるべきでした。しかし武帝は度量が大きいので、聞き流してくれました。これは国の福でした。いま恵帝さんが私を咎めるなら、それも仕方がないことでしょうね」
しかも恵帝は、この底の浅い恨み言ですら、賈皇后に言わされているんだ。確かにバカと言われてもしょうがない。
ことわざを作った、郗詵
郗詵は言いました。
「古人は賢を求め、今人は爵を求める」
賈南風の仲人、荀勖
賈充が、関中に左遷されそうになった。荀勖や馮紞の派閥にとっては、大打撃である。
荀勖は、賈充に教えた。
「娘の南風さんを、皇太子妃にしなさい。関中に行かずにすみますよ」
平呉を妨げる、馮紞
張華が、孫呉の平定を主張した。馮紞は、武帝に言った。
「もし張華が手柄を立てたら、鍾会の二の舞となり、私たちに叛逆するでしょう。孫呉を攻め滅ぼしてはいけません」
と言ってやりたい (笑)
そろそろ種明かししますが、賈充の列伝が建てられていません。また元の『晋書』と比べたとき、列伝の順序がめちゃくちゃです。荀勖や馮紞が、後ろに追いやられています。
『群書治要』を作った人は、賈充と、その娘の賈皇后を責めることに、全力を尽くしたようです。賈充の仲間は、いくら建国を手伝ったとしても、後ろに下げられます。
また、採用されるエピソードは、賈氏がらみが妙に多い。
『徙戎論』江統
関隴が羌族に犯されたし、異民族には気をつけろ。
1行だけ、陸機
すぐに孫盛の著作を引用した、注釈が付いているが。ここの注釈は読んでません。すみません。
泥棒の疑惑、胡威
胡威は、役所で支給された絹1匹を、盗品だと怪しまれた。
以下、東晋の人たち
周ガイ:王敦に敗戦したが、論破した。
陶侃:荊州を治め、風俗が清くなった。
高ショウ:哀帝の服飾と食事のゼイタクを諌めた。
何充:成帝の死後、弟の康帝を立てて、王朝を守った。
ほとんどの関心が、西晋にあるようです。理由は、反面教師が豊富だからか、『三国志』が近くて人気があるからか。
貪水の伝説、呉隠之
広州の北辺には、飲んだ人に士節が備わるという、伝説の水がある。現地の不老は「貪水」と呼んでいる。かつて蛮夷が、この水を飲んで、善人に心変わりしたらしい。
呉隠之は、この水をモチーフに、漢詩を読んだ。
おわりに
ここまでお読みいただいた皆さんは、
「『晋書』の目ぼしいところは、ひととおり学んだ」
と胸を張っていただいて良いはずです。少なくとも、唐代の魏徴の意図としては、そうなります。
すなわち、歴史ファンのサロンで賈氏を罵れば、免許皆伝です。
今回ぼくは、天明7年の「古文書」を読むというエンターテイメントを堪能し、それをこのサイトに結び付けましたが・・・同じ『群書治要』でも、どうせなら『三国志』の部分でやるべきだったな。図書館で、検索ワードを「晋書」としたから、仕方なかったけれど。100207