表紙 >漢文和訳 > 『群書治要』で『晋書』を学び、江戸時代の教養人に仲間入り

02) 皇族や政策立案者たち

唐初の『群書治要』を、江戸時代の出版物で読んでいます。

瑯邪王・司馬伷

司馬懿の5男。孫皓の投降を受けた。
宗室で尊重されたが、「矜満の色」がなかった。

扶風王・司馬駿

司馬懿の7男。雍梁州の諸軍事となり、田地を開発した。
司馬駿が死んだとき、西方の人たちが泣いた。司馬駿の仕事を伝えるために、西方の人たちは、碑を建てた。

斉王・司馬攸、司馬冏

司馬攸は、武帝の次男で、「孝敬忠肅」な人。
司馬冏は、司馬攸の子。天子のみに許されたオーケストラを持ち、遊び暮らした。朝見しなかった。桓豹が諌めたが、無視をした。

司馬冏は、何もすばらしいエピソードがない。そもそも、西晋の人を教科書にしようという発想そのものが、間違っている気がする。

愍懐太子・司馬遹

恵帝の皇太子。長身だった。学問を好まず、左右の人と嬉戯した。保傅(世話係の先生)を敬わず、賓友(遊び仲間)を敬った。

賈皇后に殺されたから「とても惜しい人」というイメージがあるが、そうでもない?

司馬遹は、その佳誉ぶりを賈皇后に妬まれた。賈皇后は、宦官を使って、司馬遹をワナに誘った。江統が止めたのに、司馬遹はまんまと敵中に出かけていった。

泥酔させられ、思ってもいないことを書かされる事件です。司馬遹が、年長者の言うことを聞けば、悲劇を防げたんだと『群書治要』は言っているのかなあ?
年長者の説教の正しさを強調するため、司馬遹がどんなに理不尽な謀略に苦しんだか、細かく細かく書いてある。
(賈皇后のひどさを強調するためでもあるけど)

魏の純臣、司馬孚

司馬懿の弟。殺された曹髦に泣きつき、都落ちする曹奐に、
「私は死ぬまで魏の純臣ですよ」
と宣言した。

寒士と同じ服装、司馬泰

大きな国をもらっていたが、服装は質素だった。貧しい士人と同じくらい、ボロい服を着ていた。

皇族はここまで。

人気投票せよ、劉寔

劉寔、あざなは子真。司馬懿の輔佐を務め、元康年間に司空へ。
『崇譲論』を著して、賢人の採用を提言した。
「もし三公に欠員が出たら、より多くの人に推薦された人を、次の三公に任命するべきである。勢家の出身だからと言って、自動的に三公に任命してはいけない」

読んで字のごとく「譲られた人を、とうとべ」です。
『群書治要』の編者は、劉寔の意見に興味を持ったらしく、『晋書』を抜粋した文字数の3%も、『崇譲論』に割いている。

主人のいない家を切り盛り、閻纉

武帝の死後、外戚の楊駿は、閻纉を太傅にした。
楊駿が誅殺されると、楊氏をまとめる人がいなくなった。閻纉は、官職を辞めて、楊氏の陵墓を補修した。

恩のあった人の家の面倒を見る。儒教屋さんが好きそうな話だ。

閻纉は、司馬遹を弁護した。

鄧艾を弁護した、段灼

段灼は、敦煌郡の人。鄧艾に仕えた。
蜀漢を滅ぼしたとき、鄧艾は鍾会にハメられて、罪を得てしまった。段灼は鄧艾の名誉回復に努めた。武帝は、段灼の言い分を認めた。

死んでもいい、虞悝

虞悝は、弟の虞望とともに、郷里で名声が高かった。

兄がグリなら、弟はグラがよかった。ロコツにやるのが難しければ、虞良(グリョウ)とカムフラージュして、実はグラと読む、とか。

王敦が譙王に作逆したとき、虞悝は王敦に誘われたが、断った。虞悝の味方・魏艾が、王敦に殺された。味方たちは、浮き足立ってしまった。虞悝は、言った。
「人は必ず死ぬ。死んで忠義の鬼になれるならば、恨みはない」

この次、なぜか『晋書』の「刑法志」「百官志」が始まる。編者が列伝をこれで終わらせるつもりだったのかなあ。
だが素知らぬ顔で、列伝が再開する (笑)
次回、西晋の建国の功臣たちが登場します。