157-159年、劉陶の改鋳、寇栄の冤罪
『後漢紀』を抄訳します。
157年、貨幣を改鋳して重くすれば、困窮は減るか
〔一〕范書桓帝紀作「春正月己未」。徐紹楨曰:「永壽三年正月癸未朔,紀有己未,疑誤。」
春正月癸未、天下を大赦した。
〔范曄の桓帝紀では「春正月己未」とする。徐紹楨はいう。「永壽三年の正月ついたちは、癸未である。范曄は、誤りだろう」と〕
〔一〕范書桓帝紀系此事於「冬十一月」。
是時有人上書言人所以貧困者,貨輕也,欲更鑄錢。事下群臣及太學之士。
6月、司徒の尹頌が薨じた。司空の韓縯は、司徒となる。
〔范曄の桓帝紀は、冬11月とする〕
このとき上書があり、貧困の原因は、貨幣がかるいからだ。貨幣を改鋳せよと。郡臣や太学に、はかられた。
〔一〕李賢引說苑曰:「有東郭祖朝者,上書於晉獻公曰:『願聞國家之計。』獻公使人告之曰:『肉食者已慮之矣,藿食者尚何預焉?』祖朝曰:『肉食者一旦失計於廟堂之上,若臣等藿食,寧得無肝膽塗地於中原之野?其禍亦及臣之身,安得無預國家之計乎?」 〔二〕周禮天官大宰曰:「乃懸治象之法於象魏,使萬民觀治象。」鄭司農曰:「象魏,闕也。」即宮外之闕也。 〔三〕絳闕,宮闕也,猶言丹墀、紫宸。 〔四〕甲子事,指紂兵甲子日敗于牧野,紂赴火而死。事見史記殷本紀。
〔一〕出僖公二十六年左傳載齊侯之語。「室如」四字本在「野無」句之上。 〔二〕「今」字原闕,據黃本補。 〔三〕「陰陽為炭,萬物為銅」八字出賈誼服賦,見漢書賈誼傳。
ときに劉陶らは、太学で議した。劉陶は、改鋳に反対した。桓帝は、したがった。
158年、罪のない寇栄が、滅ぼされた理不尽
延熹元年、夏五月甲戌みそか、日食した。京師で蝗あり。6月、天下を大赦した。丙戌、はじめて博陵郡をおいた。
〔東觀記、司馬彪、范曄にしたがい、年号を延熹とした〕
侍中の寇栄を誅した。寇栄は、寇恂の曾孫だ。寇栄は、辯絜は自善で、わかくして人と交わる。ゆえに寇栄は、貴寵に殺害された。寇栄の從兄子は、益陽長公主をめとる。また桓帝は、寇栄の從孫女を、後宮にめとる。
左右の人は、寇氏の繁栄をにくみ、寇栄をおとしいれた。寇栄の宗族は、免官して故郡にかえされた。官吏がきびしく追及したので、寇栄は免れない(有罪となる)ことをおそれ、出奔して、みずから訴えた。寇栄が訴えるまえに、刺史の張敬が、寇栄をとらえた。寇栄は、数年のあいだ亡命した。恩赦があったが、免ぜられず。寇栄は困窮し、山中に亡命して、上書した。
〔一〕「榮」字據蔣校補,黃本作「宗」。 〔二〕借曾參母聽三人誤傳曾參殺人,懼而投杼下機,踰牆而走一事,以喻桓帝聽信讒言,陷其於死地。
寇栄は上書する。「皇帝の役割は、みなの仲を良くすることだ。だが、わたしの宗族は、おとしいれられた。死を覚悟して、みずから弁明します」と。
〔一〕「榮」字亦據蔣校補。 〔二〕置,音苴,免網也。見說文。 〔三〕楚平王誅殺伍奢,奢子員奔吳。楚懸賞粟五萬石、爵執珪以購員。又漢初劉邦以曾數窘於項羽將季布,故購季布以千金,令敢藏匿者罪三族。事並見史記。
「刺史の張敬は、へつらいを好む。司隸校尉の應奉、河南尹の何豹、洛陽令の袁騰は、相手がにくければ、かるい罪でもとがめ、死骸をあばいて罰する。罪なき人が罰せられる風潮だ。罪のない私・寇栄は、山林にかくれた」
〔一〕據黃本及范書改。 〔二〕據黃本及范書改。 〔三〕據黃本及范書補。 〔四〕周禮秋官朝士曰:「朝士掌建邦外朝之法。左九棘,孤卿大夫位焉,群士在其後。右九棘,公侯伯子男位焉,群吏在其後。面三槐,三公位焉,州長眾庶在其後。」棘者,取其赤心而外刺;槐者,懷也,取其懷來人而與之謀。三槐九棘,實指在朝之三公九卿諸大臣。 〔五〕據范書補。
「私が罰をうけてから、3たび恩赦があったが、ゆるされず」
〔一〕國語魯語申生曰:「吾聞之,仁不怨君,智不重困,勇不逃死。」范書「毀名」作「重困」。名者,孝名也。 〔二〕欲效屈原赴湘沅而死。
「桓帝は、私をゆるしてください」
〔一〕范書作「上省章益怒」。又范書寇榮傳作「延熹中被罪」,又言「遇罰以來,三赦再贖」,則榮被誅不當在元年。
桓帝は、寇栄の上書をみず。ついに寇氏は、滅ぼされた。
范曄は「桓帝は、寇栄の上書をみて、ますます怒った」とする。また寇栄伝は「延熹のとき、罪をうけた」、また「罪をうけてから、3たび恩赦があった」とする。寇栄は、延熹元年のうちに殺されたのでない。
ぼくは思う。寇栄の最期は、寇恂の功績とセットで味わってこそ。寇恂伝、やろう。
〔一〕語見易繫辭上,袁紀多有脫文,據以補。
夫松竹貞秀,經寒暑而不衰;榆柳虛撓,盡一時而零落。此草木之性,修短之不同者也。廉潔者必有貪濁之對,剛毅者必遇彊勇之敵,此人事之對,感時之不同者也。咸自取之,豈有為之者哉?萬物之為,莫不皆然,動之由己,應之在彼,猶影響形聲,不可得而差者也。故君子之人,知動靜,為否泰,致之在己也。繕性治心,不敢違理,知外物之來,由內而至,故得失吉凶,不敢怨天。夫然遇泰而不變其情,遭否而不慍其心,未嘗非己,夫何悲哉!
袁宏はいう。寇栄の心は、まことに哀しむべきだ。さいごに滅びた人でも、天命がないわけでない。目先のことに振り回されないで、なにが起きても天を怨まず、心の平静をたもつべきだ。無罪を罰せられても、悲しむことなどない。
桓帝の時代を批判して、後漢が滅びる理由をもとめたのか。ちがう。桓帝の時代のような理不尽は、袁宏の時代でも日常茶飯事だから、その現実を受け入れよと言ったのだろう。
ここまで読んで、思った。
袁宏の執筆態度は、「史実を例示し、袁宏なりに主張する」こと。「史実を網羅して記す」でない。東晋の袁宏の手元には、膨大すぎる後漢に関する史書があった。網羅して記すニーズはない。増やしても、仕方ない。自分の意見を述べれば充分。小まめ&客観的な引用より、気まま&主観的な意見が優先。これは、今日の読書感想ブログと同じ。誰でも手にとれる本につき、緻密に書き写す人はいない。気づいたところだけ、重点的にとりあげる。
范曄『後漢書』とは、執筆の動機がちがうのだから、両書を比べるのが、そもそもおかしい。范曄になく、袁宏のみが記す記事があるのは、偶然の幸運。しかし、「網羅性があるなあ」と、袁宏をほめるのは、的外れだろう。袁宏の主眼は、史料の網羅性にない。
159年(1) 梁冀が外戚をはずれそうで、あせる
〔一〕三月辛丑朔,無甲午,或系甲子之錯誤。
六月,鮮卑寇遼東。度遼將軍李膺擊破之。 膺字元禮,潁川襄城人。初為蜀郡太守,威德並行。後轉護烏桓校尉,會匈奴攻雲中〔一〕,殺略吏民。膺親率步騎,臨陣交戰,斬首二千級,羌寇遠退〔二〕,邊城安靜。後以公事免官。天子賢劉陶之言,而嘉膺之能,遷度遼將軍。先時疏勒、龜茲數抄張掖、酒泉、雲中諸郡,吏民苦之。自膺在邊,皆不復為害。匈奴、莎車、烏孫、鮮卑諸國,常不賓附者,聞膺威名,莫不威服。先時略取民,男女皆送還塞下。遷河南尹、司隸校尉。膺風格秀整,高自標持,欲以天下風教是非為己任,後進之士有升其堂者,皆以為登龍門。
〔一〕范書李膺傳「匈奴」作「鮮卑」。 〔二〕疑「羌」系「虜」之誤。
延熹二年(159)3月甲午、刺史と二千石に、三年喪をやめさせた。
〔3月ついたちは、辛丑だ。3月に、甲午はない。甲子の誤りか〕
6月、鮮卑が遼東を寇した。度遼將軍の李膺は、鮮卑をやぶる。
李膺は、あざなを元禮。潁川の襄城の人だ。蜀郡太守、護烏桓校尉となる。匈奴が雲中を攻めて、吏民を殺略した。
〔范曄の李膺伝では、匈奴でなく、鮮卑とする〕
李膺は、みずから步騎をひきい、2千級を斬首した。異民族がとおのき、邊城は安靜となる。李膺は、公事で免官された。桓帝は、劉陶の発言をみとめ、李膺の能力をよみし、度遼將軍とした。これよりさき、疏勒、龜茲は、しばしば張掖、酒泉、雲中の諸郡をかすめ、吏民は苦しんだ。李膺が辺境にいると、異民族がこない。匈奴、莎車、烏孫、鮮卑の諸國は、みな李膺に威服した。とらわれた漢民族を、返してもらった。
李膺は、河南尹、司隸校尉にうつる。李膺に会うことは、登龍門となる。
〔一〕范書作延熹元年七月甲子以日食免。
丙午,皇后梁氏崩。乙丑,葬懿獻梁皇后。 於是梁冀專權,其同己者榮顯,違忤者劾死,百僚側目,莫不從命,省中咳唾之音,冀必知之,臺閣機事,先以聞冀乃得奏御。內外恐懼,上下鉗口,而帝不得有所親任,上既不平之矣。冀以私憾,專殺議郎邴尊〔一〕,上益怒之。於是亳貴人見幸〔二〕,冀嫉其寵,遣客夜盜其家,欲刺貴人母〔三〕。母入宮求哀,因言冀之罪。
〔一〕邴尊,鄧猛之姊婿也。冀恐其沮敗猛易鄧姓為梁姓,迺遣刺客殺尊於偃城。 〔二〕亳,黃本作「豪」,蔣本此作「毫」,下文仍作「亳」。龍溪精舍本、學海堂本并作「亳」。按續漢書鄧猛立為后,惡梁氏之姓,改姓亳。范書皇后紀作「薄」。亳乃薄之俗字,其以薄太后家謹良故改而為姓。黃本誤,蔣本此作「毫」亦誤,逕改。 〔三〕貴人母名宣,初適鄧香,生桓帝鄧皇后猛。後改嫁梁紀,猛遂冒姓梁氏。
159年7月、太尉の黃瓊を免じた。太常の胡廣が、太尉となる。
〔范曄は、延熹元年7月甲子、日食で黄瓊が免じられたとする〕
7月丙午、皇后の梁氏が崩じた。7月乙丑、懿獻梁皇后をほうむる。これにおいて梁冀は、
専権した。梁冀にしたがえば榮顯し、さからえば劾死した。みな梁冀の顔色をうかがい、びびった。桓帝は、親任する人を用いられない。梁冀は、桓帝にことわらず、議郎の邴尊を殺した。ますます桓帝は、梁冀に怒った。
〔邴尊とは、鄧猛の姊婿だ。梁冀は、沮敗をおそれ、鄧猛の姓をかえ、梁猛とした。梁冀は刺客をやり、邴尊を偃城で殺した〕
ここにおいて、亳貴人が桓帝に愛された。梁冀はこれに嫉妬し、夜にしのびこんで、亳貴人の母を殺した。
〔『続漢書』によると、鄧猛は皇后に立てられたが、梁姓をきらい、「亳」氏に姓をあらためた。范曄の皇后紀では、「薄」氏とする。「亳」は、「薄」の俗字だ。前漢のとき、薄太后の家が謹良だったから、薄姓とした。「亳」がただしく、「豪」や「毫」とする版本は誤りである〕
亳氏の母は、後宮に助けをもとめた。梁冀の罪を、言った。
〔亳貴人の母は、名を宣という。はじめ鄧香といい、桓帝の鄧皇后・鄧猛を生んだ。のちに鄧香は、梁紀にとついだ。娘の鄧猛は、梁氏となった〕
〔一〕貝瑗,范書作「具瑗」。 〔二〕據范書、通鑑及龍溪精舍本改。
159年8月癸酉、桓帝は小黃門の唐衡に問うた。「左右のうち、だれが梁冀と仲がわるいか」と。唐衡はこたえた。「單超、左悺は、河南尹の梁不疑とぶつかり、兄弟を洛陽獄におくられた。徐璜、貝瑗は、梁氏の放橫に怒るが、口に出さないだけだ」と。
〔范曄は、貝瑗でなく、具瑗とする〕
桓帝は、5人の宦官とともに、梁冀をたおすことにした。桓帝はひじをかじり、血盟した。単超らは言った。「計画は、すでに定まった。もう言うな。ひとに疑われる」と。
〔一〕胡三省曰:「使惲入禁中直宿,以防超等,而無上旨,徑使惲入,自恃威行宮省,故敢然。」 〔二〕據范書改。
8月丁丑、梁冀は単超らをうたがった。中黃門の張惲を禁中にとまらせ、事変をふせいだ。
〔胡三省はいう。梁冀は張惲を、禁中に宿直させた。単超らを防いだ。しかし張惲の宿直は、桓帝の意思でない。梁冀は、みずからの威行をたのみ、あえて張惲を、禁中につっこんだのだ〕
桓帝は前殿にゆき、公卿をめして、梁冀から大將軍の印綬をうばう。梁冀を、北景都鄉侯とした。。黃門令の具瑗は、虎賁士1千人をひきい、司隸とともに、梁冀の宗親をとらえ、洛陽獄につなぐ。年齢にかかわらず、梁氏をころした。梁冀は自殺した。懿獻后を廃して、貴人にランクダウンした。
梁冀のあと始末について、つづきます。110601