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159年~秋、梁冀が専横する例

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
159年は長いので、3ページに分割しました。

159年春夏、ウザい梁皇后

孝桓皇帝上之下延熹二年(己亥,公元一五九年)
春,二月,鮮卑寇雁門。 蜀郡夷寇蠶陵。 三月,復斷刺史、二千石行三年喪。
夏,京師大水。 六月,鮮卑寇遼東。

159年春2月、鮮卑が、雁門を寇した。蜀郡の夷が、蠶陵を寇した。

李賢はいう。蠶陵は、蜀郡に属す。蠶陵山がある。

3月、ふたたび刺史と太守に、三年喪を辞めさせた。

胡三省はいう。永興二年(154年)三年喪をゆるした。いま5年目でやめた。

159年夏、京師は大水した。6月、鮮卑が遼東を寇した。

梁皇後恃姊、兄廕勢,恣極奢靡,兼倍前世,專寵妒忌,六宮莫得進見。及太后崩, 恩寵頓衰。後既無嗣,每宮人孕育,鮮得全者。帝雖迫畏梁冀,不敢譴怒,然進御轉希, 後益憂恚。

梁皇后は、姉(順烈太后)と兄(梁冀)をたのみ、おごり妬む。

胡三省はいう。「兄廕勢」とは、兄にかばわれるということ。代々、官位を得ることを、蔭官という、おそらく木を例えたのだ。木は枝をのばして、根元をかばうから。ぼくは補う。日本史でも「蔭身の制」ってあった。

桓帝は、六宮の女と会えない。梁太后(順烈太后)が死んでから、梁皇后への恩寵はおとろえた 。梁皇后は子供がいない。梁太后が養育して、成人できる子は少ない。桓帝は梁冀に迫畏されても、あえて譴怒しない。桓帝は、憂恚がたまった。

胡三省は、『周礼』をつかい、六宮を注釈する。皇帝の妻の人数構成など。はぶく。


159年秋、梁皇后が死ぬ

秋,七月,丙午,皇後梁氏崩。乙丑,葬懿獻皇後於懿陵。梁冀一門,前後 七侯,三皇後,六貴人,二大將軍,夫人、女食邑稱君者七人,尚公主者三人,其餘卿、 將、尹、校五十七人。

159年秋7月丙午、皇后の梁氏が崩じた。7月乙丑、懿獻皇後(梁皇后)を懿陵にを葬る。

李賢はいう。『諡法』はいう。温和で聖善なるを、懿という。聡明で叡智あるを、献という。
ぼくは思う。さっき桓帝は「梁皇后の嫉妬ウザい」と言ってたじゃないか。やはり桓帝は、梁冀に遠慮している。でも外戚の権力の源は、皇后だ。梁皇后が死んだから、梁冀はヤバい。

梁冀一門は、前後 で七侯、三皇後、六貴人、二大將軍をだす

胡三省はいう。梁冀の祖父・梁雍は、乗氏侯。梁冀は襄邑侯で、乗氏侯もつぐ。梁冀の子・梁胤は、襄邑侯。弟の梁不疑は、潁陽侯。弟の梁蒙は、西平侯。梁不疑の子・梁馬は、潁陰侯。梁胤の子・梁桃は、城父侯。これが7侯だ。恭懐皇后、順烈皇后、懿献皇后で、3皇后だ。
ぼくは思う。固有名詞を、入力するのは、しんどい。

夫人や娘で食邑をもらい、君と称したのは7人。公主の待遇は3人。これ以外に、卿、將、尹、校となったのは57人だ。

これだけ梁氏が独占し、後漢は中断しなかったのだから、すごい。後漢の粘りづよさがすごい。臣下でいることに、こらえた梁冀もすごい。


冀專擅威柄,兇恣日積,宮衛近侍,並樹所親,禁省起居,纖微 必知。其四方調發,歲時貢獻,皆先輸上第於冀,乘輿乃其次焉。吏民□貨求官、請罪 者,道路相望。百官遷召,皆先到冀門箋檄謝恩,然後敢詣尚書。

権限も情報も金品も、梁冀に集まった。百官が召されると、さきに梁冀にお礼の箋(手紙)をわたし、あとで尚書にゆくほど。

胡三省はいう。『字書』はいう。箋とは、表である。識である。書である。左雄伝に用例がある。「奏」は天子につかい、「箋」は中宮や東宮、将相や大臣につかう。「檄」は、徴召や伝令につかう。いま梁冀にしたように、謝恩するためのツールでない。胡三省は思う。蔡倫が紙を発明してから、紙に書いたものを「箋」という。木に書いたものを「檄」という。百官は梁冀に、紙で謝恩をのべたのだ。


159年、梁冀を批判する人々

下邳吳樹為宛令,之 官辭冀,冀賓客布在縣界,以情托樹,樹曰:「小人奸蠹,比屋可誅。明將軍處上將之 位,宜崇賢善以補朝闕。自侍坐以來,未聞稱一長者,而多托非人,誠非敢聞!」冀嘿 然不悅。樹到縣,遂誅殺冀客為人害者數十人。樹後為荊州刺史,辭冀,冀鴆之,出, 死車上。
遼東太守侯猛初拜,不謁冀,冀托以它事腰斬之。

下邳の吳樹は、宛令となった。梁冀の賓客が、宛県の県境にきた。賓客は、呉樹に挨拶した。呉樹は言った。「梁冀の腰ぎんちゃくは、下らない連中しかいない」と。梁冀は黙って、悦ばず。呉樹は宛県で、梁冀の賓客・数十人を殺した。のちに呉樹は、荊州刺史になる。呉樹は、梁冀に挨拶した。梁冀は鴆毒で、呉樹を殺した。
遼東太守の侯猛は、就職したとき、梁冀に挨拶しなかった。梁冀は、侯猛にべつの罪をきせて、腰斬した。

郎中汝南袁著,年十九,詣 闕上書曰:「夫四時之運,功成則退,高爵厚寵,鮮不致災。今大將軍位極功成,可為 至戒,宜遵縣車之禮,高枕頤神。傳曰:『木實繁者披枝害心。』若不抑損盛權,將無 以全其身矣!」冀聞而密遣掩捕,著乃變易姓名,托病偽死,結蒲為人,市棺殯送。冀 知其詐,求得,笞殺之。

郎中する汝南の袁著は、19歳で上書した。「『伝』で范ショはいう。木が茂れば、枝が広がる。枝が広がれば、幹を傷つけると。梁冀は、寿命を全うできないだろう」と。

ぼくは思う。腐敗は、梁冀その人の越度というより。梁冀に連なる人が増えすぎて、制御が利かなくなった、というのが本当か。非道なことをするのは、名前のない、梁冀の賓客である。梁冀は、自派の維持のため、賓客をかばう。ただ賓客の行動が、梁冀の望んだものとは、限らない。
この点、袁著の指摘は、じつに正しい。「梁冀の忠臣」として、諫言したとも言える。ただ、19歳の若造に、分かりきったことを指摘されると、腹が立つけれども。

梁冀は、袁著を逮捕したい。袁著は姓名をかえ、病死したふりで、葬送された。梁冀は、袁著が病死していないと知った。梁冀は、ムチで袁著を殺した。

ぼくは思う。汝南の袁氏だから、袁著は、袁湯の近親者だろう。
ぼくは考えたい。袁湯は、梁冀と添い遂げたか。早くも、つぎの権力者・桓帝に、擦りより始めたか。梁冀を批判(忠告)した袁著は、若すぎる。袁著の発言は、袁氏の方針というより、暴発という可能性もある。ただ、病死&葬送のふりは、協力者が必要だ。袁氏の家で、少なからぬ人が、袁著に加担したことは分かる。


太原郝絜、胡武,好危言高論,與著友善,絜、武嘗連名奏記 三府,薦海內高士,而不詣冀。冀追怒之,敕中都官稱檄禽捕,遂誅下家,死者六十餘 人。絜初逃亡,知不得免,因輿梓奏書冀門,書入,仰藥而死,家乃得全。

太原の郝絜と胡武は、危言や高論をこのむ。郝絜と胡武は、袁著と友である。郝絜と胡武は、袁著と連名で、三公府に上奏した。梁冀に挨拶せず。梁冀は怒った。中都官は、郝絜と胡武を捕まえた。

胡三省はいう。司隷校尉は、中都官1200人を領す。梁冀は、司隷校尉の軍を動かした。

胡武の家族60余人を殺した。郝絜は、逃げられないと悟る。郝絜は、梁冀に手紙を投げ入れ、服毒した。郝絜の家族は、死なずにすんだ。

安帝嫡母耿 貴人薨,冀從貴人從子林慮侯承求貴人珍玩,不能得,冀怒,並族其家十餘人。

安帝の嫡母・耿貴人が薨じた。梁冀は、耿貴人の遺品がほしい。耿貴人の從子・林慮侯の耿承に、遺品をくれと言った。断られた。梁冀は、耿氏10余人を殺した。

涿郡崔 琦以文章為冀所善,琦作《外戚箴》、《白鵠賦》以風,冀怒。琦曰:「昔管仲相齊, 樂聞譏諫之言;蕭何佐漢,乃設書過之吏。今將軍屢世台輔,任齊伊、周,而德政未聞, 黎元塗炭,不能結納貞良以救禍敗,反欲鉗塞士口,杜蔽主聽,將使玄黃改色、馬鹿易 形乎!」冀無以對,因遣琦歸。琦懼而亡匿,冀捕得,殺之。

涿郡の崔琦は、文章で梁冀をほめた。崔琦は《外戚箴》と《白鵠賦》で、梁冀へのコメントを仄めかした。

胡三省は《外戚箴》をひく。どこから、持ってきたんだ。はぶく。

梁冀は怒った。崔琦は言った。「むかし管仲が斉の宰相だったとき、譏諫の言を聞きたがった。蕭何が前漢を佐けたとき、過ちを記録する役人を置いた。梁冀さんが批判に怒るなら、天地の色を塗りかえ、馬を鹿と呼ぶ話と同じだ」と。梁冀は、答えられない。崔琦は帰った。崔琦は梁冀を懼れてかくれた。梁冀は、崔琦を殺した。

159年秋、桓帝が宦官5人と、血盟する

冀秉政幾二十年,威行內外,天子拱手,不得有所親與,帝既不平之;及陳授死, 帝愈怒。和熹皇後從兄子郎中鄧香妻宣,生女猛,香卒,宣更適梁紀;紀,孫壽之舅也。 壽以猛色美,引入掖庭,為貴人,冀欲認猛為其女,易猛姓為梁。冀恐猛姊婿議郎邴尊 沮敗宣意,遣客刺殺之。又欲殺宣,宣家與中常侍袁赦相比,冀客登赦屋,欲入宣家, 赦覺之,鳴鼓會眾以告宣。

梁冀は、政権を20年担当した。桓帝は何もできない。桓帝に近い人材が、要職につけない。桓帝は不平だ。陳授が殺され、桓帝はいよいよ怒った。

ぼくは補う。158年夏5月甲戊みそか、日食した。太史令の陳授は言った。「この日食は、梁冀のせいだ」と。梁冀は、陳授を殺した。前のページでやりました。一気にやりすぎて、忘れている。笑

和熹皇後の從兄子で、郎中の鄧香は、宣を妻とした。宣は、猛という娘を産んだ。鄧香が死んだ。宣は、梁紀に嫁いだ。梁紀は、梁冀の妻・孫壽の舅だ。

ワケがわからん!和熹皇後とは、ぼくがたびたび気にしている、鄧太后です。
宣さんは、姓はなんというのか。また、梁冀の妻の舅が、梁氏というのも、分からん。以下、梁冀が養女を迎える話がある。よく分からずに訳してます。単語や構文が分からんのでなく、訳せても、内容が分からん。

孫寿は、猛が美しいので、掖庭にいれて貴人とした。梁冀は、猛を養女にして、梁姓にした。梁冀は、猛の姊婿・議郎の邴尊が、養女に反対することを恐れた。養女にすることは、猛の母・宣の気持ちに反する。
梁冀は、邴尊を刺殺した。梁冀は、宣を殺したい。宣の家と、中常侍の袁赦は、家が隣だ。梁冀の刺客は、袁赦の家に登り、宣の家に入ろうとした。袁赦が刺客に気づき、鼓を鳴らして、宣に伝えた。

ぼくは補う。これを「宣伝」という。ウソばっかし。
袁赦は、梁冀による暗殺を、事前に聞いていない。梁冀と袁氏とのつながり、見えにくいなあ。梁冀の賓客が暴走し始めた時点で、ちょっと距離をおくようになったか。


宣馳入白帝,帝大怒,因如廁,獨呼小黃門史唐衡,問: 「左右與外捨不相得者,誰乎?」衡對:「中常侍單超、小黃門史左心官與梁不疑有隙; 中常侍徐璜、黃門令具瑗常私忿疾外捨放橫,口不敢道。」於是帝呼超、心官入室,謂 曰:「梁將軍兄弟專朝,迫脅內外,公卿以下,從其風旨,今欲誅之,於常侍意如何?」 超等對曰:「誠國奸賊,當誅日久;臣等弱劣,未知聖意如何耳。」帝曰:「審然者, 常侍密圖之。」對曰:「圖之不難,但恐陛下腹中狐疑。」帝曰:「奸臣脅國,當伏其 罪,何疑乎!」於是更召璜、瑗等,五人共定其議,帝齧超臂出血為盟。超等曰:「陛 下今計已決,勿復更言,恐為人所疑。」

宣は逃げて、桓帝に知らせた。桓帝は、大怒した。桓帝は厠に、小黃門史の唐衡だけをよんだ。桓帝は、唐衡に聞いた。「宦官で、外戚に通じないのは、誰か」と。

胡三省はいう。小黃門史は、小黃門の、文書を担当する役職。
左右は宦官。李賢はいう。外舎とは、皇后の家のこと。

唐衡は答えた。「中常侍の單超と、小黃門史の左悺は、梁不疑と仲がわるい。中常侍の徐璜と、黃門令の具瑗は、外戚の放橫に怒る」と。桓帝は宦官5人と、謀議した。桓帝は、単超のひじをかじった。単超の血で、密盟をむすぶ、単超らは言った。「ふたたび口に出すな。疑われるから」と。

桓帝と宦官たちの会話を、はぶきましたが。腹を固めるシーン。ドラマチックだが、どうせ創作である。創作でないなら、情報が洩れてるじゃん。ってことは、ぼくがどのように妄想してもいいシーンだ。


159年は長い。後半に、つづきます。