159年8月、梁冀を誅し、新政をしく
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
159年秋8月、袁盱が梁冀の印綬をとりあぐ
帝御前殿,召諸尚書入,發其事,使尚書令尹勳持節勒丞、 郎以下皆操兵守省閣,斂諸符節送省中,使具瑗將左右廄騶、虎賁、羽林、都候劍戟士 合千餘人,與司隸校尉張彪共圍冀第,使光祿勳袁□於持節收冀大將軍印綬,徙封比景 都鄉侯。冀及妻壽即日皆自殺;不疑、蒙先卒。
梁冀は、単超を疑う。八月丁丑、中黃門の張惲を禁中に宿直させた。梁冀は、クーデターを防ぐ。具瑗は、張惲を捕えた。具瑗は言う。「張惲が進入し、謀逆しようとした」と。
桓帝は前殿にきた。尚書たちを召し、クーデターを告げた。尚書令の尹勳に、持節させた。丞や郎より以下は、みな兵を操り、省閣を守る。
具瑗は、左右の騎士をひきいる。虎賁、羽林、都候で、剣戟の士1000余人を合わせた。司隸校尉の張彪は、梁冀の屋敷をかこむ。光祿勳の袁盱は持節して、梁冀から大将軍の印綬をとりあげた。梁冀を、比景都鄉侯に徙した。
袁氏、ちょいちょい出てくるなあ。気になるなあ。
梁冀と孫寿は、その日に自殺。梁不疑と梁蒙は、すでに死んだ。
是時,事猝從中發,使者交馳,公卿失其度,官府市裡鼎沸,數 日乃定;百姓莫不稱慶。收冀財貨,縣官斥賣,合三十餘萬萬,以充王府用,減天下稅 租之半,散其苑囿,以業窮民。
すべて、梁氏と孫氏を捕えて、棄市した。公卿、列校、刺史、太守で、連座して死んだ人は、数十人。太尉の胡廣、司徒の韓縯、司空の孫朗は、みな梁冀につき、宮殿を防衛せず、長壽亭にいた。三公を免じ、庶人とした。
いま免じられた三公の経歴と、梁冀との近さを、確認したい。孫朗って、孫寿の同族か? 胡広と梁冀の距離は、列伝で知ろう。
故吏や賓客は、300余人を免ず。朝廷がカラになった。
数日で騒動がおさまる。梁冀から、30余億を没収。後漢の公庫に入れた。天下の税を半減できた。
158年8月、太尉・黄瓊による新しい政治
8月壬午、梁貴人を皇后とした。懿陵(梁皇后陵)をやめて、梁貴人の墓とした。桓帝は、梁氏を悪む。梁皇后に、薄氏と改姓させた。のちに鄧香の娘と知り、鄧氏にもどした。
桓帝は、5人の宦官を県侯にした。単超2万戸など。五侯と呼ばれた。左悺と唐衡を、中常侍とした。尚書令の尹勳ら7人を、亭侯とした。
大司農の黃瓊を、太尉とした。光祿大夫する中山の祝恬を、司徒とした。大鴻臚する梁國の盛允を、司空とした。黄瓊をトップとする新しい政治は、天下に期待された。州郡にいる貪汚な人を、除いた。死刑や徙刑した人は、10余人だ。海内は、これをほめた。
黄瓊は、汝南の范滂を辟した。范滂は、詔使が冀州をまわる案内をした。范滂は、天下を清める志がある。
范滂伝はいう。ときに冀州は飢えて、盗賊がたつ。范滂は見回った。
ぼくは補う。だれが冀州を回ったか、よく分からないか。個人の仕事というより、「清らかな人だから、あの仕事をしたに違いない」という、投影なのかなあ。
後ろめたい人は、范滂が来たから、印綬をおいて去った。范滂は三公府に、刺史や太守の成績を報告した。
ぼくは思う。人事査定が、公明正大すぎて、ぎゃくにモチベーションが下がる。笑
尚書は、范滂を疑った。范滂が弾劾した人は、20余人だ。多すぎる。范滂は、私情をはさんだではと。范滂は答えた。「民衆のため、事実を述べるだけです」と。尚書は、范滂を詰問できず。
158年、陳蕃があげた5人の処士
尚書令の陳蕃は、5人の處士を推薦した。豫章の徐稚、彭城の姜肱、汝南の袁閎、京兆の韋著,穎川の李曇だ。桓帝は歓迎したが、5人とも出仕せず。
いま断った5人は、梁冀と桓帝の連続性が見えている。いちおう、劉氏の王朝だ。劉氏がトップにいるほうが、自然ではある。
豫章の徐稚は、貧しいが人柄がよい。豫章太守の陳蕃が、功曹に召したが、つかず。陳蕃は賓客と会わないが、徐稚にだけ、座席を与えた。安帝の建光元年(121年)有道な人材として、太原太守に、家で任じられた。つかず。徐稚は人に会わないが、葬儀にはゆく。喪主に会わず、帰るけど。
彭城の姜肱は、盗賊に襲われたとき、兄弟でかばいあった。盗賊は、兄弟を2人に謝った。姜肱は、盗賊を許した。姜肱は、彭城の図面を書きとった。姜肱は、引きこもった。
汝南の袁閎は、袁安の玄孫だ。身を苦しめ、節を修めた。辟召に応じず。
京兆の韋著は、隠居して講授した。穎川の李曇は、酷烈な継母に、よく仕えた。郷里で尊敬された。
桓帝は、汝南の安陽で、魏桓をスカウトした。魏桓は、諫言した。「宮殿や飼馬の数を減らせ。さもなくば仕えない」と。左右の人は答えた。「減らせない」と。桓帝は、魏桓にあきれた。魏桓は、身を隠した。
次回、桓帝の政治が腐ります。