168年-1、陳蕃と竇武が、政権を担当
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
168年正月、陳蕃が尚書を叱る
春,正月,壬午,以城門校尉竇武為大將軍。前太尉陳蕃為太傅,與武及司徒胡廣 參錄尚書事。
168年春正月壬午、城門校尉の竇武を、大將軍とした。
さきの太尉の陳蕃を、太傅とした。
陳蕃は、竇武および司徒の胡廣とともに、3人で錄尚書事した。
己亥,解瀆亭侯至夏門亭,使竇武持節,以王青蓋車迎入殿中;庚子,即皇帝位, 改元。
ときに桓帝が死に、皇帝がいない。諸尚書はおそれ、病気だと言って、出勤しない。陳蕃は、諸尚書を責めた。「君主が死んでも、死ぬ前と同じに勤めるのが、義のルールだ」と。諸尚書は、出勤した。
正月己亥、解瀆亭侯の劉宏は、夏門亭にきた。竇武を持節させ、王の青蓋車で、劉宏を殿中に迎えた。正月庚子、劉宏は即位して改元した。
168年2月、段熲が皇甫規をのけ、東羌を破る
初,護羌校尉段熲既定西羌,而東羌先零等種猶未服,度遼將軍皇甫規、中郎將張 奐招之連年,既降又叛。桓帝詔問熲曰:「先零東羌造惡反逆,而皇甫規、張奐各擁強 眾,不時輯定,欲令熲移兵東討,未識其宜,可參思術略。」熲上言曰:
168年2月辛酉、桓帝を宣陵に葬った。桓帝の廟は、威宗だ。2月辛未、天下を赦した。
はじめ、護羌校尉の段熲は、西羌を定めた。だが東羌や先零羌らは、まだ後漢に服さず。度遼將軍の皇甫規と、中郎將の張奐が、東羌を担当した。東羌は連年、降ったり叛いたり。
ぼくは思う。ある種族を、完全に「支配」するのは、不可能である。皇甫規や張奐は、梁冀の方針をつぎ、「外交」する。これが、自然な姿だろう。だが桓帝と、桓帝派の段熲は、とことん異民族を討伐する。ムチャをやる人たち。
桓帝は、段熲に聞いた。「皇甫規と張奐では、ラチがあかない。段熲なら、どんな戦術をとるか」と。段熲は、桓帝に上言した。
「私(段熲)は考えます。皇甫規は、東羌2万戸を降らせた。東羌は、まだ3万戸が国境ちかくにいる。并州や涼州を乱し、三輔に入ってくる。西河、上郡は、すでに郡治を内地に徙した。安定、北地は、郡治が危ない。雲中、五原より西は、漢陽まで、匈奴や諸羌がいる。(段熲の上言つづく)
もし私に、騎兵5千と、歩兵1万と、車3千をくれたら。3冬2夏のうちに、東羌を破る。永初年間から14年で、240億をつかった。永和の末年から、7年たち、80余億をつかった。この巨額の出費を、やめることができる。私に節度をくれ」と。
桓帝は、段熲をもちいた。兵1万余人、15日分の食糧を、段熲につけた。段熲は、8千余級の東羌を斬った。太后は、段熲をほめた。「段熲に銭20万をあたえ、家の1人を郎中にしよう」と。段熲は、破羌將軍となった。
168年夏、竇武と曹節と陳蕃を、侯にする
夏,四月,戊辰,太尉周景薨,司空宣酆免;以長樂衛尉王暢為司空。
五月,丁未朔,日有食之。 以太中大夫劉矩為太尉。
166年閏月甲午、霊帝の祖父母と父に、諡号した。祖父は元皇帝で、父は仁皇帝だ。霊帝の母・董氏を、慎園貴人とした。
166年夏4月戊辰、太尉の周景が薨じた。司空の宣酆を免じた。長樂衛尉の王暢を、司空とした。
166年 5月丁未ついたち、日食した。 太中大夫の劉矩を、太尉とした。
植身長八尺二寸,音聲如鐘,性剛毅,有大節。少事馬融,融性豪侈,多列女 倡歌舞於前,植侍講積年,未嘗轉眄,融以是敬之。
166年6月、京師は大雨。6月癸巳、竇武が霊帝を立てたから、聞喜侯とした。竇武の子・竇機、兄の子・竇紹と竇靖を、侯とした。中常侍の曹節を、長安郷侯とした。侯に11人がついた。
涿郡の盧植が、上書して竇武を説く。「竇武は、周公旦とおなじ功績がある。桓帝と同じ血筋から、霊帝を立てたから。身名を全うせよ」と。竇武は、盧植を聞かず。
ぼくは思う。盧植のいう「身名を全うする」とは、なにか。ともあれ、盧植が竇武派(陳蕃派)ということは、よく確認しておこう。
【追記】T_S氏はいう。(引用はじめ)
「竇武は、周公旦とおなじ功績がある。桓帝と同じ血筋から、霊帝を立てたから。身名を全うせよ」これは意味が取れていないかと。「あんたの功績を周公以上と言う奴もいるが、近親を立てただけのことで大きな功績じゃない。賞を辞退して禍を避けよ」こういう意味でしょう。
つまり、「立つべき血縁の者を迎えただけで周公のような大功ではないんだから、今の賞は分不相応。「出る杭は打たれる」から、禍を避けるには賞は辞退すべき。」そう言っているのでしょう。「何勳之有!」は反語表現で、「周公のような勲功があるだろうか?いやない」 (引用おわり)
盧植は、身長が8尺2寸。声が鐘のようで、性質は剛毅だ。盧植は、馬融に仕えた。馬融は、性質が豪侈だ。馬融がどれだけ女倡を並べても、盧植は見向きもせず、勉強した。馬融は、盧植を敬った。
陳蕃は、ふるく徳がある。竇太后は特例として、陳蕃を高陽鄉侯に封じたい。
陳蕃は断った。「孔子は言う。道理でない方法で、手に入れた場所に、いすわるなと。私は侯にならない」と。陳蕃は、10回断った。竇太后は、あきらめた。
次回、第二次・党錮の禁が起きます。