表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

168年-2、竇武と陳蕃が敗死する

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

168年夏、張奐が段熲を呼び戻せという

段熲將輕兵追羌,出橋門,晨夜兼行,與戰於奢延澤、落川、令鮮水上,連破之; 又戰於靈武谷,羌遂大敗。秋,七月,熲至涇陽,餘寇四千落,悉散入漢陽山谷間。護 匈奴中郎將張奐上言:「東羌雖破,餘種難盡,段熲性輕果,慮負敗難常,宜且以恩降, 可無後悔。」詔書下熲,熲復上言:

段熲は橋門を出て、東羌を追いつづけた。168年秋7月、涇陽で4千戸を降した。東羌は散って、漢陽の山間に逃げこんだ。

胡三省はいう。橋門は、橋山にある、長城の門だ。涇陽県は、安定郡だ。

護匈奴中郎将の張奐は、上言した。「段熲は、東羌を破った。だが、東羌は全滅しない。段熲のように攻めるな。恩をほどこして降すべきだ」と。霊帝は、段熲を呼び戻した。段熲は、上言した。

「臣本知東羌雖眾,而軟弱易制,所以比陳愚慮, 思為永寧之算,而中郎將張奐說虜強難破,宜用招降。聖朝明監,信納瞽言,故臣謀得 行,奐計不用。事勢相反,遂懷猜恨,信叛羌之訴,飾潤辭意,雲臣兵『累見折衄,又 言『羌一氣所生,不可誅盡,山谷廣大,不可空靜,血流污野,傷和致災。』臣伏念周、 秦之際,戎狄為害,中興以來,羌寇最盛,誅之不盡,雖降復叛。今先零雜種,累以反 覆,攻沒縣邑,剽略人物,發塚露屍,禍及生死,上天震怒,假手行誅。昔邢為無道, 衛國伐之,師興而雨;臣動兵涉夏,連獲甘澍,歲時豐稔,人無疵疫。上占天心,不為 災傷;下察人事,眾和師克。自橋門以西、落川以東,故宮縣邑,更相通屬,非為深險 絕域之地,車騎安行,無應折衄。案奐為漢吏,身當武職,駐軍二年,不能平寇,虛欲 修文戢戈,招降獷敵,誕辭空說,僭而無征。何以言之?昔先零作寇,趙充國徙令居內, 煎當亂邊,馬援遷之三輔,始服終叛,至今為鯁,故遠識之士,以為深憂。今傍郡戶口 單少,數為羌所創毒,而欲令降徒與之雜居,是猶種枳棘於良田,養虺蛇於室內也。故 臣奉大漢之威,建長久之策,欲絕其本根,不使能殖。本規三歲之費,用五十四億;今 適期年,所耗未半,而餘寇殘燼,將向殄滅。臣每奉詔書,軍不內御,願卒斯言,一以 任臣,臨時量宜,不失權便。」

段熲は言う。「張奐は失敗し、東羌を平定できなかっただけ。漢族にとって、異民族はずっと脅威だった。私に戦いを続けさせてくれ」と。

ぼくは思う。長く喋っているが、おなじ意見の反復だった。はぶく。


168年8月、竇武と陳蕃が仲間と権限をあつめる

八月,司空王暢免,宗正劉寵為司空。
初,竇太后之立也,陳蕃有力焉。及臨朝,政無大小,皆委於蕃。蕃與竇武同心戮 力,以獎王室,征天下名賢李膺、杜密、尹勳、劉瑜等,皆列於朝廷,與共參政事。於 是天下之士,莫不延頸想望太平。

168年8月、司空の王暢をやめた。宗正の劉寵を、司空とした。
はじめ竇太后は、陳蕃に政事をまかせた。陳蕃と竇武は、後漢をたすけた。天下の名賢である、李膺、杜密、尹勳、劉瑜らを、朝廷にならべた。

ぼくは補う。いまの顔ぶれが、桓帝のときに発生した、陳蕃派だ。


而帝乳母趙嬈及諸女尚書,旦夕在太后側,中常侍曹 節、王甫等共相朋結,諂事太后。太后信之,數出詔命,有所封拜。蕃、武疾之,嘗共 會朝堂,蕃私謂武曰:「曹節、王甫等,自先帝時操弄國權,濁亂海內,今不誅之,後 必難圖。」武深然之。蕃大喜,以手椎席而起。武於是引同志尚書令尹勳等共定計策。 會有日食之變,蕃謂武曰:「昔蕭望之困一石顯,況今石顯數十輩乎!蕃以八十之年, 欲為將軍除害,今可因日食斥罷宦官,以塞天變。」武乃白太后曰:「故事,黃門、常 侍但當給事省內典門戶,主近署財物耳;今乃使與政事,任重權,子弟布列,專為貪暴。 天下匈匈,正以此故,宜悉誅廢以清朝廷。」太后曰:「漢元以來故事,世有宦官,但 當誅其有罪者,豈可盡廢邪!」

ところで。霊帝の乳母・趙嬈は、竇太后のそばにいる。中常侍の曹節と王甫は、竇太后に誤報をふきこむ。
陳蕃と竇武は、乳母と中常侍がウザい。陳蕃は、竇武を誘った。「ともに宦官を除こう」と。竇武は陳蕃に賛成し、尚書令の尹勳を味方にした。
日食した。陳蕃は言った。「私は80歳だが、宦官を除くために尽力しよう」と。竇武は、太后に言った。「宦官の子弟は、貪暴してばかり。宦官を除け」と。竇太后は、竇武に反対した。「光武帝のときから、宦官をおくルールだ。罪がある人を罰すればいい。宦官をすべて廃する必要はない」と。

ぼくは補う。何太后も、おなじことを言ってた。宦官は、生活に不可欠である。


時中常侍管霸,頗有才略,專制省內,武先白收霸及中 常侍蘇康等,皆坐死。武複數白誅曹節等,太后□豫未忍,故事久不發。蕃上疏曰: 「今京師囂囂,道路諠譁,言侯覽、曹節、公乘昕、王甫、鄭颯等,與趙夫人、諸尚書 並亂天下,附從者升進,忤逆者中傷,一朝群臣如河中木耳,泛泛東西,耽祿畏害。陛 下今不急誅此曹,必生變亂,傾危社稷,其禍難量。願出臣章宣示左右,並令天下諸奸 知臣疾之。」太后不納。

しばしば竇武は、竇太后に「曹節を除け」と言った。太后は、竇武をきかず。陳蕃は太后に言った。「侯覽、曹節と、王甫、鄭颯と、乳母の趙夫人は、天下を乱している。彼らを除け」と。竇太后は、陳蕃をきかず。

是月,太白犯房之上將,入太微。侍中劉瑜素善天官,惡之,上書皇太后曰:「案 《占書》:宮門當閉,將相不利,奸人在主傍,願急防之。」又與武、蕃書,以星辰錯 繆,不利大臣,宜速斷大計。於是武、蕃以硃寓為司隸校尉,劉祐為河南尹、虞祁為雒 陽令。武奏免黃門令魏彪,以所親小黃門山冰代之,使冰奏收長樂尚書鄭颯,送北寺獄。 蕃謂武曰:「此曹子便當收殺,何復考為!」武不從,令冰與尹勳、侍御史祝□雜考颯, 辭連及曹節、王甫。勳、冰即奏收節等,使劉瑜內奏。

彗星がでた。天文官と仲のいい侍中の劉瑜が、竇太后に上書した。「奸人が、皇帝のそばにいる。除け」と。竇武と陳蕃は、朱寓を司隷校尉に、劉祐を河南尹、虞祁を洛陽令にした。

ぼくは思う。洛陽の軍事・警察権を、竇武たちがにぎった。

竇武は、親しい小黃門の山冰を、黄門令にした。山冰に、長樂尚書の鄭颯を捕えさせた。陳蕃は言った。「さっさと、鄭颯を殺せ」と。陳蕃は鄭颯を殺さない。「鄭颯は、曹節や王甫と同罪だ」と言った。尚書令の尹勳と、黄門令の山冰は、言った。「曹節を捕えよ」と。侍中の劉瑜は、これを竇太后に内奏した。

胡三省はいう。鄭颯がついている長楽尚書とは、太后が臨朝したとき、置かれる。外朝にくだす文書を、つかさどる。
ぼくは補う。この事件の顛末は、翻訳作業をしてないな。あとで列伝を読むための、手引きを作っています。列伝がありそうな人物名ばかり、強調します。


168年9月、宦官が、陳蕃と竇武を殺す

九月,辛亥,武出宿歸府。典中書者先以告長樂五官史硃瑀,瑀盜發武奏,罵曰: 「中官放縱者,自可誅耳,我曹何罪,而當盡見族滅!」因大呼曰:「陳蕃、竇武奏白 太后廢帝,為大逆!」乃夜召素所親壯健者長樂從官史共普、張亮等十七人,歃血共盟, 謀誅武等。曹節白帝曰:「外間切切,請出御德陽前殿。」令帝拔劍踴躍,使乳母趙嬈 等擁衛左右,取棨信,閉諸禁門,召尚書官屬,脅以白刃,使作詔板,拜王甫為黃門令, 持節至北寺獄,收尹勳、山冰。冰疑,不受詔,甫格殺之,並殺勳;出鄭颯,還兵劫太 後,奪璽綬。令中謁者守南宮,閉門絕覆道。

166年9月辛亥、竇武は大将軍府に帰った。長楽五官史の硃瑀は、竇武の上奏を盗み見た。

胡三省はいう。長楽は、太后の宮だ。太后の宮には、女尚書が5人いる。五官史が、女尚書5人をまとめる。
『考異』はいう。范曄の桓帝紀は「丁亥」とする。袁宏は「辛亥」とする。長暦では、168年9月には、辛亥しかない。袁宏にしたがう。

宦官の硃瑀は、竇武を罵った。「宦官のうち、放縱な人は、誅されたらいい。だが、なぜ私まで、族滅されるのか」と。硃瑀は言いふらした。「陳蕃と竇武は、霊帝を廃する気だ。大逆だ」と。

ぼくは思う。竇太后に上奏するなら、かならず宦官の手をとおる。それなのに竇武は、宦官に「宦官を全滅せよ」という手紙を渡して、のんびり帰宅した。下手だなあ。

硃瑀は、親しくて壯健な長樂の從官史を17人集めた。血盟して、竇武を殺そうと謀った。曹節は、霊帝に言った。「外は、緊迫する。德陽前殿にいろ」と。曹節は、霊帝に剣をぬかせ、踴躍させた。乳母の趙嬈は、霊帝を閉じこめた。曹節は、尚書の官属を白刃でおどし、詔を書かせた。「王甫を黃門令とする。王甫に、北寺獄を任せる。尹勳、山冰を捕えよ」と。山冰は王甫に逮捕されない。王甫は、山冰を殺した。鄭颯は、竇太后の印綬を奪った。中謁者に南宮を守らせ、門や道を遮断した。

使鄭颯等持節及侍御史謁者捕收武等。武 不受詔,馳入步兵營,與其兄子步兵校尉紹共射殺使者。召會北軍五校士數千人屯都亭, 下令軍士曰:「黃門、常侍反,盡力者封侯重賞。」陳蕃聞難,將官屬諸生八十餘人, 並拔刃突入承明門,到尚書門,攘臂呼曰:「大將軍忠以衛國,黃門反逆,何雲竇氏不 道邪!」王甫時出與蕃相遇,適聞其言,而讓蕃曰:「先帝新棄天下,山陵未成,武有 何功,兄弟父子並封三侯!又設樂飲宴,多取掖廷宮人,旬日之間,貲財巨萬,大臣若 此,為是道邪!公為宰輔,苟相阿黨,復何求賊!」使劍士收蕃,蕃拔劍叱甫,辭色逾 厲。遂執蕃,送北寺獄。黃門從官騶蹋踧蕃曰:「死老魅!復能損我曹員數、奪我曹稟 假不!」即日,殺之。

鄭颯は持節し、竇武を捕えたい。竇武の兄の子で、歩兵校尉する竇紹が、鄭颯の使者を殺した。
陳蕃は、官属と諸生80余人をひきい、刀を抜いて承明門に入った。尚書門に到った。陳蕃は抗議した。「竇武は功績がある。叛逆したのは、黄門だ」と。王甫は、陳蕃に反論した。「竇武は、父子3人で侯になり、財産を築いた。叛逆したのは、竇武だ」と。王甫は剣士に、陳蕃を捕えさせた。陳蕃は剣を抜き、王甫を叱った。

ぼくは思う。陳蕃にしたがった80余人が、太学の勢力だ。
『考異』はいう。陳蕃伝はいう。陳蕃が王甫を叱ると、兵は陳蕃に近づけない。数重にも陳蕃をかこんでから、陳蕃を捕えた。司馬光は、袁宏に従い、この話をはぶいた。

陳蕃は、即日に殺された。

時護匈奴中郎將張奐征還京師,曹節等以奐新至,不知本謀,矯 制以少府周靖行車騎將軍、加節,與奐率五營士討武。夜漏盡,王甫將虎賁、羽林等合 千餘人,出屯硃雀掖門,與奐等合,已而悉軍闕下,與武對陳。甫兵漸盛,使其士大呼 武軍曰:「竇武反,汝皆禁兵,當宿衛宮省,何故隨反者乎!先降有賞!」營府兵素畏 服中官,於是武軍稍稍歸甫,自旦至食時,兵降略盡。武、紹走,諸軍追圍之,皆自殺, 梟首雒陽都亭;收捕宗親賓客姻屬,悉誅之,及侍中劉瑜、屯騎校尉馮述,皆夷其族。

ときに護匈奴中郎将の張奐が、京師にかえった。張奐は、事情を知らない。曹節は張奐を動かし、竇武と戦った。

ぼくは、こまかい経過を省いていますが。
宦官の曹節が強いのは、軍の命令系統を、手際よく抑えたから。曹節の勝因である。張奐の軍だって、ごく自然に利用したのだろう。張奐の個人的な感情を、いっさい挟ませる余地なく。朝廷の令状ひとつで、思いのまま。張奐を、説得する必要すらない。

宦官は、竇武の軍に言った。「竇武は謀反した。竇武の兵は、ほんらいは朝廷を守る兵だ。なぜ竇武に従うか。さきに降れば、賞をとらす」と。竇武の兵は、もとより宦官を畏れた。朝食のころ、竇武の兵はすべて、宦官に降った。
竇武は自殺した。竇武の宗親、賓客、姻屬は、すべて殺された。侍中の劉瑜と、屯騎校尉の馮述は、三族みなごろし。

宦官又譖虎賁中郎將河間劉淑、故尚書會稽魏朗,雲與武等通謀,皆自殺。遷皇太后於 南宮,徙武家屬於日南;自公卿以下嘗為蕃、武所舉者及門生故吏,皆免官禁錮。議郎 勃海巴肅,始與武等同謀,曹節等不知,但坐禁錮,後乃知而收之。肅自載詣縣,縣令 見肅,入閣,解印綬,欲與俱去。肅曰:「為人臣者,有謀不敢隱,有罪不逃刑,既不 隱其謀矣,又敢逃其刑乎!」遂被誅。

宦官は、以下の人物を陥れた。虎賁中郎將する河間の劉淑と、もと尚書した會稽の魏朗だ。劉淑と魏朗は、自殺した。竇太后を南宮に遷し、竇武の家屬を日南に徙した。公卿より以下で、陳蕃と竇武の門生故吏は、みな免官して禁錮された。

ぼくは思う。これが、第二次党錮の禁。梁冀の人脈と、竇武と陳蕃の人脈に、重複した人がいないかなあ。1人でも見つけたら、面白いが。

議郎する勃海の巴肅は、竇武と同謀した。だが曹節はそれを知らず、巴肅を禁錮とした。のちに知り、巴肅を捕えた。県令は、巴肅を逃がしたい。だが巴肅は、断った。「人臣ならば、謀を隠さない。罪があれば、刑を受ける。すでに謀がバレたのだから、刑から逃げられない」と。巴肅は、殺された。

胡三省はいう。巴肅は、高城県の人だ。高城県令だ。ぼくは思う。巴肅のセリフは、わざわざ司馬光が紹介するほど、名文だろうか。一般論じゃん。


曹節遷長樂衛尉,封育陽侯。王甫遷中常侍,黃門令如故。硃瑀、共普、張亮等六 人皆為列侯,十一人為關內侯。於是群小得志,士大夫皆喪氣。蕃友人陳留硃震收葬蕃 屍,匿其子逸,事覺,系獄,合門桎梏。震受考掠,誓死不言,逸由是得免。武府掾桂 陽胡騰殯斂武屍,行喪,坐以禁錮。武孫輔,年二歲,騰詐以為己子,與令史南陽張敞 共匿之於零陵界中,亦得免。張奐遷大司農,以功封侯。奐深病為曹節等所賣,固辭不 受。

曹節は、長樂衛尉、育陽侯となる。王甫は中常侍となり、黃門令はつづける。硃瑀ら6人の宦官は、列侯になった。11人が、関内侯になった。群小(宦官)が志を得て、士大夫は喪氣した。

勝者が、官位をもらう。いつもの話だ。陳蕃派は、敗れた。桓帝と霊帝が交替したとき、陳蕃は勢力を拡大させたが、すでに滅亡した。

陳蕃の友人、陳留の硃震は、陳蕃の子をかくまい、逮捕された。拷問されても沈黙したから、硃震は出獄できた。
竇武の大将軍府掾する桂陽の胡騰は、竇武の死体を弔ったから、禁錮された。竇武の孫は、竇輔だ。竇輔は、2歳だ。胡騰は、令史する南陽の張敞に竇輔をゆだね、零陵にかくまった。張奐は大司農になり、侯に封じられた。張奐は、曹節に利用されたことを悔い、固辞した。

168年冬、烏桓の王が乱立する

以司徒胡廣為太傅,錄尚書事,司空劉寵為司徒,大鴻臚許栩為司空。
冬,十月,甲辰晦,日有食之。 十一月,太尉劉矩免,以太僕沛國聞人襲為太尉。 十二月,鮮卑及濊貊寇幽、並二州。

司徒の胡廣を、太傅として、錄尚書事させた。司空の劉寵を司徒とした。大鴻臚の許栩を、司空とした。
168年冬10月甲辰みそか、日食した。11月、太尉の劉矩をやめた。太僕する沛國の聞人襲を、太尉とした。12月、鮮卑および濊貊が、幽州と并州を寇した。

是歲,疏勒王季父和得殺其王自立。
烏桓大人上谷難樓有眾九千餘落,遼西丘力居有眾五千餘落,自稱王。遼東蘇僕延 有眾千餘落,自稱峭王。右北平烏延有眾八百餘落,自稱汗魯王。

この168年、疏勒王の季父・和得は、王を殺して自立した。
烏桓の大人・上谷難樓は、9千余戸をもつ。遼西の丘力居は、5千余戸をもつ。どちらも王を自称した。遼東の蘇僕延は、1千余戸をもち、峭王を称した。右北平の烏延は、8百余戸をもつ。汗魯王を称した。101210

胡三省はいう。史は、烏桓が強盛だという。ぼくは思う。はやくも、五胡十六国みたいになってる。なにがあったんだろう。鮮卑が、後退したのか?