168年-2、竇武と陳蕃が敗死する
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
168年夏、張奐が段熲を呼び戻せという
段熲は橋門を出て、東羌を追いつづけた。168年秋7月、涇陽で4千戸を降した。東羌は散って、漢陽の山間に逃げこんだ。
護匈奴中郎将の張奐は、上言した。「段熲は、東羌を破った。だが、東羌は全滅しない。段熲のように攻めるな。恩をほどこして降すべきだ」と。霊帝は、段熲を呼び戻した。段熲は、上言した。
段熲は言う。「張奐は失敗し、東羌を平定できなかっただけ。漢族にとって、異民族はずっと脅威だった。私に戦いを続けさせてくれ」と。
168年8月、竇武と陳蕃が仲間と権限をあつめる
初,竇太后之立也,陳蕃有力焉。及臨朝,政無大小,皆委於蕃。蕃與竇武同心戮 力,以獎王室,征天下名賢李膺、杜密、尹勳、劉瑜等,皆列於朝廷,與共參政事。於 是天下之士,莫不延頸想望太平。
168年8月、司空の王暢をやめた。宗正の劉寵を、司空とした。
はじめ竇太后は、陳蕃に政事をまかせた。陳蕃と竇武は、後漢をたすけた。天下の名賢である、李膺、杜密、尹勳、劉瑜らを、朝廷にならべた。
ところで。霊帝の乳母・趙嬈は、竇太后のそばにいる。中常侍の曹節と王甫は、竇太后に誤報をふきこむ。
陳蕃と竇武は、乳母と中常侍がウザい。陳蕃は、竇武を誘った。「ともに宦官を除こう」と。竇武は陳蕃に賛成し、尚書令の尹勳を味方にした。
日食した。陳蕃は言った。「私は80歳だが、宦官を除くために尽力しよう」と。竇武は、太后に言った。「宦官の子弟は、貪暴してばかり。宦官を除け」と。竇太后は、竇武に反対した。「光武帝のときから、宦官をおくルールだ。罪がある人を罰すればいい。宦官をすべて廃する必要はない」と。
しばしば竇武は、竇太后に「曹節を除け」と言った。太后は、竇武をきかず。陳蕃は太后に言った。「侯覽、曹節と、王甫、鄭颯と、乳母の趙夫人は、天下を乱している。彼らを除け」と。竇太后は、陳蕃をきかず。
彗星がでた。天文官と仲のいい侍中の劉瑜が、竇太后に上書した。「奸人が、皇帝のそばにいる。除け」と。竇武と陳蕃は、朱寓を司隷校尉に、劉祐を河南尹、虞祁を洛陽令にした。
竇武は、親しい小黃門の山冰を、黄門令にした。山冰に、長樂尚書の鄭颯を捕えさせた。陳蕃は言った。「さっさと、鄭颯を殺せ」と。陳蕃は鄭颯を殺さない。「鄭颯は、曹節や王甫と同罪だ」と言った。尚書令の尹勳と、黄門令の山冰は、言った。「曹節を捕えよ」と。侍中の劉瑜は、これを竇太后に内奏した。
ぼくは補う。この事件の顛末は、翻訳作業をしてないな。あとで列伝を読むための、手引きを作っています。列伝がありそうな人物名ばかり、強調します。
168年9月、宦官が、陳蕃と竇武を殺す
166年9月辛亥、竇武は大将軍府に帰った。長楽五官史の硃瑀は、竇武の上奏を盗み見た。
『考異』はいう。范曄の桓帝紀は「丁亥」とする。袁宏は「辛亥」とする。長暦では、168年9月には、辛亥しかない。袁宏にしたがう。
宦官の硃瑀は、竇武を罵った。「宦官のうち、放縱な人は、誅されたらいい。だが、なぜ私まで、族滅されるのか」と。硃瑀は言いふらした。「陳蕃と竇武は、霊帝を廃する気だ。大逆だ」と。
硃瑀は、親しくて壯健な長樂の從官史を17人集めた。血盟して、竇武を殺そうと謀った。曹節は、霊帝に言った。「外は、緊迫する。德陽前殿にいろ」と。曹節は、霊帝に剣をぬかせ、踴躍させた。乳母の趙嬈は、霊帝を閉じこめた。曹節は、尚書の官属を白刃でおどし、詔を書かせた。「王甫を黃門令とする。王甫に、北寺獄を任せる。尹勳、山冰を捕えよ」と。山冰は王甫に逮捕されない。王甫は、山冰を殺した。鄭颯は、竇太后の印綬を奪った。中謁者に南宮を守らせ、門や道を遮断した。
鄭颯は持節し、竇武を捕えたい。竇武の兄の子で、歩兵校尉する竇紹が、鄭颯の使者を殺した。
陳蕃は、官属と諸生80余人をひきい、刀を抜いて承明門に入った。尚書門に到った。陳蕃は抗議した。「竇武は功績がある。叛逆したのは、黄門だ」と。王甫は、陳蕃に反論した。「竇武は、父子3人で侯になり、財産を築いた。叛逆したのは、竇武だ」と。王甫は剣士に、陳蕃を捕えさせた。陳蕃は剣を抜き、王甫を叱った。
『考異』はいう。陳蕃伝はいう。陳蕃が王甫を叱ると、兵は陳蕃に近づけない。数重にも陳蕃をかこんでから、陳蕃を捕えた。司馬光は、袁宏に従い、この話をはぶいた。
陳蕃は、即日に殺された。
ときに護匈奴中郎将の張奐が、京師にかえった。張奐は、事情を知らない。曹節は張奐を動かし、竇武と戦った。
宦官の曹節が強いのは、軍の命令系統を、手際よく抑えたから。曹節の勝因である。張奐の軍だって、ごく自然に利用したのだろう。張奐の個人的な感情を、いっさい挟ませる余地なく。朝廷の令状ひとつで、思いのまま。張奐を、説得する必要すらない。
宦官は、竇武の軍に言った。「竇武は謀反した。竇武の兵は、ほんらいは朝廷を守る兵だ。なぜ竇武に従うか。さきに降れば、賞をとらす」と。竇武の兵は、もとより宦官を畏れた。朝食のころ、竇武の兵はすべて、宦官に降った。
竇武は自殺した。竇武の宗親、賓客、姻屬は、すべて殺された。侍中の劉瑜と、屯騎校尉の馮述は、三族みなごろし。
宦官は、以下の人物を陥れた。虎賁中郎將する河間の劉淑と、もと尚書した會稽の魏朗だ。劉淑と魏朗は、自殺した。竇太后を南宮に遷し、竇武の家屬を日南に徙した。公卿より以下で、陳蕃と竇武の門生故吏は、みな免官して禁錮された。
議郎する勃海の巴肅は、竇武と同謀した。だが曹節はそれを知らず、巴肅を禁錮とした。のちに知り、巴肅を捕えた。県令は、巴肅を逃がしたい。だが巴肅は、断った。「人臣ならば、謀を隠さない。罪があれば、刑を受ける。すでに謀がバレたのだから、刑から逃げられない」と。巴肅は、殺された。
曹節は、長樂衛尉、育陽侯となる。王甫は中常侍となり、黃門令はつづける。硃瑀ら6人の宦官は、列侯になった。11人が、関内侯になった。群小(宦官)が志を得て、士大夫は喪氣した。
陳蕃の友人、陳留の硃震は、陳蕃の子をかくまい、逮捕された。拷問されても沈黙したから、硃震は出獄できた。
竇武の大将軍府掾する桂陽の胡騰は、竇武の死体を弔ったから、禁錮された。竇武の孫は、竇輔だ。竇輔は、2歳だ。胡騰は、令史する南陽の張敞に竇輔をゆだね、零陵にかくまった。張奐は大司農になり、侯に封じられた。張奐は、曹節に利用されたことを悔い、固辞した。
168年冬、烏桓の王が乱立する
冬,十月,甲辰晦,日有食之。 十一月,太尉劉矩免,以太僕沛國聞人襲為太尉。 十二月,鮮卑及濊貊寇幽、並二州。
司徒の胡廣を、太傅として、錄尚書事させた。司空の劉寵を司徒とした。大鴻臚の許栩を、司空とした。
168年冬10月甲辰みそか、日食した。11月、太尉の劉矩をやめた。太僕する沛國の聞人襲を、太尉とした。12月、鮮卑および濊貊が、幽州と并州を寇した。
烏桓大人上谷難樓有眾九千餘落,遼西丘力居有眾五千餘落,自稱王。遼東蘇僕延 有眾千餘落,自稱峭王。右北平烏延有眾八百餘落,自稱汗魯王。
この168年、疏勒王の季父・和得は、王を殺して自立した。
烏桓の大人・上谷難樓は、9千余戸をもつ。遼西の丘力居は、5千余戸をもつ。どちらも王を自称した。遼東の蘇僕延は、1千余戸をもち、峭王を称した。右北平の烏延は、8百余戸をもつ。汗魯王を称した。101210