151年、蕭何、霍光、鄧禹の待遇
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
151年春、梁不疑が、兄・梁冀を見棄てる
春,正月朔,群臣朝賀,大將軍冀帶劍入省。尚書蜀郡張陵呵叱令出,敕羽林、虎 賁奪劍。冀跪謝,陵不應,即劾奏冀,請廷尉論罪。有詔,以一歲俸贖;百僚肅然。河 南尹不疑嘗舉陵孝廉,乃謂陵曰:「昔舉君,適所以自罰也!」陵曰:「明府不以陵不 肖,誤見擢序,今申公憲以報私恩!」不疑有愧色。
癸酉,赦天下,改元。
151年春正月ついたち、群臣は朝賀した。梁冀は、剣を帯びて禁中に入った。尚書する蜀郡の張陵は、梁冀を叱った。「出ていけ」と。張陵は、羽林と虎賁に命じ、剣を奪った。梁冀はひざまずいて謝る。張陵はゆるさず、梁冀の罪を、廷尉に論じさせた。梁冀は1年分の収入を、罰金された。百僚は肅然とした。
張陵を孝廉にあげたのは、河
南尹する弟の梁不疑だ。梁不疑は、張陵に言った。「きみ(張陵)を挙げたばかりに、わが一族を罰することになった」と。張陵は言った。「梁不疑は、誤りだ。公職と私恩は別です」と。梁不疑は、愧じた。
梁不疑は、経書と人士を好む。梁冀は、不疑がウザい。梁不疑を光禄勲にした。梁冀は、子の梁胤を、不疑のつぎの河南尹とした。梁胤は16歳だ。梁胤の容貌はひなび、冠帶がだらーん。みな梁胤を笑った。梁不疑は、兄の父子を恥じた。梁不疑は、弟の梁蒙とともに、退職して自宅を閉門した。
梁冀は、梁不疑が賓客とまじわることが、許せない。梁不疑の門を出入りする人を、梁冀はこっそり記録した。南郡太守の馬融と、江夏
太守の田明が、赴任の挨拶にきた。梁冀は、馬融と田明を、髡笞の刑にして、朔方に徙した。馬融は自殺しきれず、田明は道中で死んだ。
151年夏秋、お忍び桓帝が、梁胤を訪れる
151年夏4月己丑、こっそり桓帝は、河南尹・梁胤の府舎にゆく。この日、大風が吹いた。木が抜けて、空が暗い。尚書の楊秉は、上疏した。「桓帝は、臣下の職場に、遊びにゆくな。暗殺されるかも知れない」と。桓帝はきかず。楊秉は、楊震の子だ。
ぼくは思う。もし梁不疑の家だったら、面白いのに。残念。ともかく桓帝は、梁冀と梁胤の父子に、ベッタリである。桓帝の立場を安定させるために、まだ梁冀は必要だ。
北匈奴呼銜王寇伊吾,敗伊吾司馬毛愷,攻伊吾屯城。詔敦煌太守馬達將兵救之; 至蒲類海,呼衍王引去。
秋,七月,武陵蠻反。
京師が日照した。任城と梁國が飢えて、民が食いあった。司徒の張歆をやめ、光祿勳の吳雄を司徒とした。
北匈奴の呼銜王が、伊吾を寇した。呼銜王は、伊吾の司馬・毛愷に敗れた。呼銜王は、伊吾の屯城を攻めた。敦煌太守の馬達に、伊吾を救わせた。馬達は蒲類海にゆき、呼衍王は撤退した。
150年秋7月、武陵蠻が反した。
151年冬、陳寔が『政論』を提出する
十一月,辛巳,京師地震。詔百官舉獨行之士。涿郡舉崔寔,詣公車,稱病,不對 策;退而論世事,名曰《政論》。其辭曰:(中略)寔,瑗之子也。山陽仲長統嘗見其書,歎曰:「凡為人主,宜寫一通,置之坐 側。」
151年冬10月、司空の胡広が着任。
11月辛巳、京師が地震した。百官に、獨行の士を挙げさせる。涿郡の崔寔は、推薦を辞退した代わりに、《政論》を提出した。崔寔は、崔瑗の子だ。山陽の仲長統は、《政論》を見て歎じた。「君主なら、つねに《政論》のコピーを1部、座席のそばに置くべきだ」と。
わたくし司馬光は考える。漢室の法規は、すでに厳しい。だが崔寔は、まだ寬いという。なぜか。王朝が衰退するとき、いつも法規がゆるいからだ。権力をもつ臣下が、罰せられない。王朝がガタガタになる。崔寔の議論は、梁冀の時代にだけ、適応される。つねには、正しくない。孔子は言った。「ゆるんだら、ひきしめよ。きつければ、ゆるめよ」と。これこそ、つねに正しい教えである。
151年冬、入朝不趨、劍履上殿、謁贊不名
151年閏月庚午、任城節王の劉崇が死んだ。子なし。國は絕ゆ。
『諡法』はいう。廉を好みて、自ら克つを、節という。
太常の黃瓊を、司空とした。
桓帝は、梁冀を褒崇したい。桓帝は、中朝にいる二千石以上に、梁冀をほめる礼を検討させた。
特進の胡廣、太常の羊浦、司隸校尉の祝恬、 太中大夫の邊韶らは、みな言った。「梁冀に、周公とおなじ礼を与えよ」と。
黄瓊だけが言う。「梁冀と、子の梁胤は、すでに充分に戸邑がある。諸侯の戸邑には、上限がある。梁冀を鄧禹とおなじとして、4県を増やせ」と。桓帝は、黄瓊に従った。
有司は上奏した。「梁冀に、以下の3つの特権を与えよ。入朝不趨、劍履上殿、謁贊不名だ。礼儀は、蕭何と同じにせよ。
定陶と陽成を与えて、食邑を4県とし、鄧禹と同じにせよ。
金銭や物品や奴婢は、霍光と同じにせよ。朝会での座席は、三公と別とする。10日に1回だけ出勤し、尚書事を平らげよ」と。
梁冀は、これでも待遇が悪いので、悦ばない。101202
宮城谷『三国志』は、正史の記述を鵜呑みにして、梁冀が悦ばなかったとした。10日に1回の出仕は、桓帝が梁冀を遠ざけたからとした。どうだろうなあ。分からない。ぼくは桓帝にとって、まだ梁冀の後ろ盾が必要に見えるが。