106年、鄧太后が、殤帝に安帝を代える
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
106年春、鄧太后は、劉祜を手元におく
春,正月,辛卯,以太尉張禹為太傅,司徒徐防為太尉,參錄尚書事。太后以帝在 襁褓,欲令重臣居禁內。乃詔禹捨宮中,五日一歸府;每朝見,特贊,與三公絕席。 封皇兄勝為平原王。 癸卯,以光祿勳梁鮪為司徒。
106年春正月辛卯、太尉の張禹を太傅とした。司徒の徐防を、太尉とした。張禹と徐防に錄尚書事を参じせる。鄧太后は、殤帝がおむつなので、重臣を禁内におきたい。張禹を宮中におき、5日に1回、自分の太尉の府に帰る。張禹は、三公とも座席がべつだ。
殤帝の兄・劉勝を、平原王とした。正月癸卯、光祿勳の梁鮪を、司徒とした。
106年3月甲申、和帝を慎陵に葬る。和帝の廟号を、穆宗とする。
3月丙戌、清河王の劉慶、濟北王の劉壽、河間王の劉開、常山王の劉章は、はじめて国にゆく。鄧太后は、とくに劉慶に殊禮をくわえる。劉慶の子は、劉祜だ。13歳。太后は殤帝が幼弱なので、劉祜と、嫡母(劉慶の正室)の耿姬を、清河邸におく。耿姬は、耿況の曾孫だ。劉祜の母は、犍為の左姬だ。
106年夏、鄧氏が出世し、鄧太后が倹約する
106年夏4月、鮮卑が漁陽を寇した。漁陽太守の張顯は、「偵察してから進め」と言う人を斬り、進んだ。伏兵にあい、死んだ。主簿の衛福や、功曹の徐鹹も、みな陣没した。
4月丙寅、虎賁中郎將の鄧騭は、車騎將軍、儀同三司となる。鄧隲の弟・黃門侍郎の鄧悝は、虎賁中郎將となる。鄧弘、鄧閶は、みな侍中となる。
司空の陳寵が薨じた。
六月,丁未,以太常尹勤為司空。 郡國三十七雨水。 己未,太后詔減太官、導官、尚方、內署諸服御、珍膳、靡麗難成之物,自非供陵 廟,稻梁米不得導擇,朝夕一肉飯而已。舊太官、湯官經用歲且二萬萬,自是裁數千萬。 及郡國所貢,皆減其過半;悉斥賣上林鷹犬;離宮、別館儲峙米□、薪炭,悉令省之。 丁卯,詔免遣掖庭宮人及宗室沒入者皆為庶民。
106年5月辛卯、天下を赦した。
5月壬辰、河東の垣山が崩れた。
6月丁未、太常の尹勤を司空とした。
郡國37で、雨水あり。6月
己未、鄧太后は、服御、珍膳、靡麗なゼイタク品を減らした。郡国からの貢物は、半分未満となる。6月丁卯、掖庭の宮人と、宗室の沒入した人を、みな庶民とした。
ぎゃくに、暴君を強調したければ、歴史家は「浪費した」と書く。ゼイタクぶりなんて、レトリックで、どのようにでもなる。袁術しかり。浪費や倹約の記述は、ステレオタイプだ。君主の能力を、判断する材料になりにくい。
話題は変わるが。
鄧太后が矯正したことから見て、後漢の和帝は、バブってたかも。最大領土、君主権力の確立といえば、前漢の武帝と同じ。もし和帝が長生きしたら、第二の武帝だっただろう。鄭衆の手を借りたことで、すでに斜陽の幼帝みたいなイメージがあるが。ウソである。
106年秋、鄧氏が劉祜をたて、安帝とする
106年秋7月庚寅、鄧太后は、司隸校尉と刺史に命じた。「天災があり、農業生産が減った。農業を妨げる太守や長吏を、取り締まれ」と。
詔告司隸校尉、河南尹、南陽太守曰:「每覽前代,外戚賓客濁亂奉公,為民患苦, 咎在執法怠懈,不輒行其罰故也。今車騎將軍騭等雖懷敬順之志,而宗門廣大,姻戚不 少,賓客奸猾,多干禁憲,其明加檢敕,勿相容護。」自是親屬犯罪,無所假貸。
106年8月辛卯、殤帝が崩じた(2歳)。8月癸丑、崇德前殿に殯した。鄧太后と、兄・車騎將軍の鄧隲と、虎賁中郎將の鄧悝らは、つぎの皇帝をさがす。同じ日の夜、鄧隲に持節させた。鄧隲は青蓋車で、劉祜を迎える。太尉が璽綬をたてまつり、劉祜が即位した(安帝)。鄧太后は、臨朝した。
鄧太后は、司隸校尉、河南尹、南陽太守に命じた。「前例を見ると。外戚は濁亂して、民を患苦させがちだ。いま車騎將軍の鄧隲らは、敬順の志をもつ。だが鄧氏の宗門は、廣大だ。姻戚は、少なくない。賓客が、ルールを破るかも知れない。きちんと取り締まれ」と。この命令により、鄧隲の親屬の犯罪は、なくなった。
詔以北地梁慬為西域副校尉。慬行至河西,會西域諸國反,攻都護任尚於疏勒;尚 上書求救,詔慬將河西四郡羌,胡五千騎馳赴之。慬未至而尚己得解,詔征尚還,以騎 都尉段禧為都護,西域長史趙博為騎都尉。禧、博守它乾城,城小,梁慬以為不可固, 乃譎說龜茲王白霸,欲入共保其城;白霸許之,吏民固諫,白霸不聽。慬既入,遣將急 迎段禧、趙博,合軍八九千人。龜茲吏民並叛其王,而與溫宿、姑墨數萬兵反,共圍城, 慬等出戰,大破之。連兵數月,胡眾敗走,乘勝追擊,凡斬首萬餘級,獲生口數千人, 龜茲乃定。
106年9月、6州で大水あり。
9月丙寅、殤帝を康陵に葬る。皇帝の葬儀がつづき、百姓は苦役した。埋葬品は、10分の1にカット。9月
乙亥、陳留に殞石あり。
鄧太后は詔し、北地の梁慬を、西域副校尉とした。西域都護の任尚が、羌族に攻められた。西域でゴタゴタしたが、龜茲を平定することができた。
106年冬、南陽の樊准が、儒者を募集させる
106年冬10月、4州で大水あり。雹がふる。
清河孝王の劉慶は、病が篤い。劉慶あ、樊濯にある宋貴人の塚旁(実母の墓)に入りたい。12月甲子、劉慶は薨じた。
12月乙酉、魚龍曼延の戲をやめた。
尚書郎する南陽の樊准は、儒風が衰えてきたので、上疏した。「君主は、学ばねばならない。光武帝も明帝も、儒学を学んだ。儒学ができる人材を集めよ」と。鄧太后は、深く受けとめた。鄧太后は命じた。「公、卿、中二千石は、隱士や大儒をあげろ。教育をさせよう」と。101227