214年春夏、劉備が成都を得る
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
214年春、夏侯淵が、馬超・韓遂をおいはらう
春,馬超從張魯求兵,北取涼州,魯遣超還圍祁山。姜敘等告急於夏侯淵,諸將議 欲須魏公操節度。淵曰:「公在鄴,反覆四千里,比報,敘等必敗,非救急也。」遂行, 使張郃督步騎五千為前軍。超敗走。
214年春、馬超は張魯から兵をかりて、涼州に北伐した。張魯は馬超に、祁山を囲ませた。
張魯のたくましさについては、こちらに書きました。
211年、漢寧王の張魯が独立し、曹操と劉備を振り回す
姜敘らは、夏侯淵にすくいを求めた。諸将は夏侯淵に、曹操から、出陣の許可をもらうべきだと云った。夏侯淵は云った。
「曹操さまは、鄴にいる。往復で400里ある。間に合わない」
夏侯淵は、ひとりで出陣を決定した。張郃に5千をつけ、先鋒とした。張郃は、馬超をやぶった。
韓遂在顯親,淵欲襲取之,遂走。淵追至略陽城, 去遂三十餘里,諸將欲攻之,或言當攻興國氐。淵以為:「遂兵精,興國城固,攻不可 卒拔,不如襲長離諸羌。長離諸羌多在遂軍,必歸救其家。若捨羌獨守則孤,救長離則 官兵得與野戰,必可虜也。」淵乃留督將守輜重,自將輕兵到長離,攻燒羌屯,遂果救 長離。諸將見遂兵眾,欲結營作塹乃與戰。淵曰:「我轉斗千里,今復作營塹,則士眾 罷敝,不可復用。賊雖眾,易與耳。」乃鼓之,大破遂軍。進圍興國。氐王千萬奔馬超, 餘眾悉降。轉擊高平、屠各,皆破之。
韓遂は、顯親にいた。夏侯淵は、韓遂を攻めた。韓遂は逃げた。略陽城まで追いかけ、韓遂を30里まで追い詰めた。夏侯淵は、異民族もろとも韓遂を攻めた。夏侯淵は、興國を囲んだ。氐王の千萬は、馬超をたよって逃げた。のこりの韓遂軍は、夏侯淵に降伏した。高平を撃ち、みな破った。
三月,詔魏公操位在諸侯王上,改授金璽、赤紱、遠遊冠。
214年3月、魏公の曹操を、諸侯王の上位においた。
214年4月、廬江太守の皖城を、呂蒙が陥とす
夏,四月,旱。
五月,雨水。初,魏公操遣廬江太守硃光屯皖,大開稻田。呂蒙言
於孫權曰:「皖田肥美,若一收孰,彼眾必增,宜早除之。」閏月,權親攻皖城。諸將
欲作土山,添攻具,呂蒙曰:「治攻具及土山,必歷日乃成;城備既修,外救必至,不
可圖也。且吾乘雨水以入,若留經日,水必向盡,還道艱難,蒙竊危之。今觀此城,不
能甚固,以三軍銳氣,四面並攻,不移時可拔;及水以歸,全勝之道也。」權從之。蒙
薦甘寧為升城督,寧手持練,身緣城,為士卒先;蒙以精銳繼之,手執枹鼓,士卒皆騰
踴。侵晨進攻,食時破之,獲硃光及男女數萬口。既而張遼至夾石,聞城已拔,乃退。
權拜呂蒙為廬江太守,還屯尋陽。
214年夏4月、ひでり。
214年5月、大雨。はじめ曹操は、廬江太守の朱光に、皖城で水田を開かせた。呂蒙は孫権に「この水田が発展すると、曹操の廬江郡で、かならず兵が増えます。水田をつぶすべきです」と述べた。
214年閏月、みずから孫権は、皖城を攻めた。呂蒙は孫権に、皖城を水攻めせよと教えた。孫権は、呂蒙に従った。呂蒙は、甘寧に突っこませた。呂蒙は後ろで、甘寧をサポートした。
早朝に攻め、食事のときには、朱光と男女を数万口を、とらえた。
張遼は夾石まで来ていたが、すでに皖城が抜かれたと聞き、ひき返した。孫権は、呂蒙を廬江太守として、もどって尋陽に屯させた。
214年夏、劉備が成都を陥落させる
諸葛亮留關羽守荊州,與張飛、趙雲將兵溯流克巴東。至江州,破巴郡太守嚴顏, 生獲之。飛呵顏曰:「大軍既至,何以不降,而敢拒戰!」顏曰:「卿等無狀,侵奪我 州,我州但有斷頭將軍,無降將軍也!」飛怒,令左右牽去斫頭。顏容止不變,曰: 「斫頭便斫頭,何為怒邪!」飛壯而釋之,引為賓客。分遣趙雲從外水定江陽、犍為, 飛定巴西、德陽。
諸葛亮は、関羽を荊州にとどめ、諸葛亮と趙雲とともに、長江を遡った。劉璋の巴東郡に勝った。江州にいたり、巴郡太守の厳顔を、生け捕りにした。張飛は、厳顔と問答して、首を斬らずに賓客とした。
諸葛亮は、趙雲を分けて川を外回りさせ、江陽、犍為を定めさせた。張飛には、巴西、徳陽を定めさせた。
劉備圍雒城且一年,龐統為流矢所中,卒。法正箋與劉璋,為陳形勢強弱,且曰: 「左將軍從舉兵以來,舊心依依,實無薄意。愚以為可圖變化,以保尊門。」璋不答。 雒城潰,備進圍成都。諸葛亮、張飛、趙雲引兵來會。馬超知張魯不足與計事,又魯將 楊昂等數害其能,超內懷於邑。備使建寧督郵李恢往說之,超遂從武都逃入氐中,密書 請降於備。使人止超,而潛以兵資之。超到,令引軍屯城北,城中震怖。備圍城數十日, 使從事中郎涿郡簡雍入說劉璋。時城中尚有精兵三萬人,谷帛支一年,吏民鹹欲死戰。 璋言:「父子在州二十餘年,無恩德以加百姓。百姓攻戰三年,肌膏草野者,以璋故也, 何心能安!」遂開城,與簡雍同輿出降,群下莫不流涕。備遷璋於公安,盡歸其財物, 佩振威將軍印綬。
劉備は、雒城を1年囲んだ。龐統が死んだ。法正は劉璋に、手紙で降伏をさそった。雒城がおち、劉備は成都に進んだ。諸葛亮と張飛と趙雲が、成都にきた。
馬超は、張魯がいまいちだと考えた。馬超は、張魯の部将・楊昂に殺されそうになった。劉備は、建寧の出身で、督郵をつとめる李恢を送り、馬超を説得させた。馬超は、武都の氐族のなかにいた。馬超は、劉備に帰順した。劉璋は、馬超を聞いて、怖れた。
従事中郎の簡雍が、劉璋を説得した。劉璋は、劉備に降伏した。劉璋は公安にうつった。劉備は、劉璋の財物と、振威將軍の印綬を、劉璋に返してやった。
備入成都,置酒,大饗士卒。取蜀城中金銀,分賜將士,還其谷帛。備領益州牧, 以軍師中郎將諸葛亮為軍師將軍,益州太守南郡董和為掌軍中郎將,並置左將軍府事, 偏將軍馬超為平西將軍,軍議校尉法正為蜀郡太守、揚武將軍,裨將軍南陽黃忠為討虜 將軍,從事中郎麋竺為安漢將軍,簡雍為昭德將軍,北海孫乾為秉忠將軍,廣漢長黃權 為偏將軍,汝南許靖為左將軍長史,龐羲為司馬,李嚴為犍為太守,費觀為巴郡太守, 山陽伊籍為從事中郎,零陵劉巴為西曹掾,廣漢彭羕為益州治中從事。
劉備は成都に入り、金銀や布帛を、バラまいた。劉備は、益州牧になった。軍師中郎将の諸葛亮は、軍師将軍になった。(以下略)
荊州や益州の人士、劉備をめぐる動き(1)
初,董和在郡,清儉公直,為民夷所愛信,蜀中推為循吏,故備舉而用之。備之自 新野奔江南也,荊楚群士從之如雲,而劉巴獨北詣魏公操。操闢為掾,遣招納長沙、零 陵,桂陽。會備略有三郡,巴事不成,欲由交州道還京師。時諸葛亮在臨蒸,以書招之, 巴不從,備深以為恨。巴遂自交趾入蜀依劉璋。及璋迎備,巴諫曰:「備,雄人也,入 必為害。」既入,巴復諫曰:「若使備討張魯,是放虎於山林也。」璋不聽,巴閉門稱 疾。備攻成都,令軍中曰:「有害巴者,誅及三族。」及得巴,甚喜。
董和は、荊州の南郡で、劉備に推挙された。劉備が新野から江南に逃げたとき、荊州の人は従った。劉巴だけが、曹操に詣でた。曹操は劉巴に、長沙、零陵、桂陽との調整を命じた。
劉備が長沙郡らを攻略した。劉巴は、曹操の指示に失敗して、交州から中原に逃げようとした。諸葛亮が招いたが、劉巴は断った。劉巴は、劉璋に仕えた。劉璋が劉備を迎えるとき、劉巴は反対した。劉備が益州を攻略したとき、「もし劉巴を殺したら、三族みな殺しだ」と命じた。劉巴が帰すと、劉備は喜んだ。
是時益州郡縣皆 望風景附,獨黃權閉城堅守,須璋稽服,乃降。於是董和、黃權、李嚴等,本璋之所授 用也;吳懿、費觀等,璋之婚親也;彭羕,璋之所擯棄也;劉巴,宿昔之所忌恨也;備 皆處之顯任,盡其器能,有志之士,無不競勸,益州之民,是以大和。初,劉璋以許靖 為蜀郡太守。成都將潰,靖謀逾城降備,備以此薄靖,不用也。法正曰:「天下有獲虛 譽而無其實者,許靖是也。然今主公始創大業,天下之人,不可戶說,宜加敬重,以慰 遠近之望。」備乃禮而用之。
このとき益州は、みな劉備になびいた。だが黄権だけは門を閉めて、劉備をこばんだ。劉璋が、劉備に降伏したあと、黄権は門を開いた。
董和、黄権、李厳らは、もとは劉璋の臣だった。呉懿、費観らは、劉璋と姻戚があった。彭羕は、劉璋から追放されていた。劉巴は、ながく劉備をウザがった。劉備は、これらを用いた。
はじめ劉璋は、許靖を蜀郡太守にした。許靖は、城壁をこえて、劉備に降伏した。劉備は許靖にガッカリした。だが法正は、許靖の名声を教えた。劉備は、許靖をもちいた。
成都之圍也,備與士眾約:「若事定,府庫百物,孤無預焉。」及拔成都,士眾皆 捨干戈赴諸藏,競取寶物。軍用不足,備甚憂之,劉巴曰:「此易耳。但當鑄直百錢, 平諸物價,令吏為官市。」備從之。數月之間,府庫充實。時議者欲以成都名田宅分賜 諸將。趙雲曰:「霍去病以匈奴未滅,無用家為。今國賊非但匈奴,未可求安也。須天 下都定,各反桑梓,歸耕本土,乃其宜耳。益州人民,初罹兵革,田宅皆可歸還,令安 居復業,然後可役調,得其歡心,不宜奪之以私所愛也。」備從之。
成都を囲んだとき、劉備は兵士たちと約束した。「成都を落したら、公庫にある物資は、自由にしてよい」と。兵士たちは武器を捨て、宝物を取りあった。劉備は財政に困って、劉巴に相談した。劉巴は、物価の統制を提案した。財政は、数ヶ月で好転した。
成都の名田を、諸将に配れという人がいた。趙雲が反対した。劉備は、趙雲の云うとおり、配らなかった。
司馬光は、成都の陥落によほど関心が強いらしく、次ページへ続きます。