表紙 > ~後漢 > 211年、漢寧王の張魯が独立し、曹操と劉備を振り回す

01) 曹操と劉璋を動かしたもの

『資治通鑑』を翻訳していて、思いついた。
張魯は、じつは漢寧王だと宣伝した上で、きちんと段取りを踏んで、独立勢力に成長していったのかも知れない。

会社の地下食堂で昼食をとっているとき、思いついたネタ。

曹操と劉璋の動きから、張魯の独立宣言を浮かび上がらせます。つぎに、孫権との共通点から、張魯の建国へのあゆみを指摘します。

まず、張魯伝を確認

陳寿『三国志』張魯伝では、五斗米道の説明をひとしきり終えたあと、張魯が曹操にやんわり従っていたことを伝える。

漢末,力不能征,遂就寵魯為鎮民中郎將,領漢甯太守,通貢獻而已。

張魯が遠隔地にいたので、鎮民中郎將、漢甯太守として、ミツギモノだけを送らせていた。地理的に遠いだけじゃなく、あいだに関中があるので、曹操は張魯を従わせることは、できなかった。

張魯伝はつぎに、時系列を明確に示さないが、この記事を載せる。

民有地中得玉印者,群下欲尊魯為漢甯王。

漢寧の住民が、地中から、玉印を掘りだした。張魯の部下たちは、張魯を「漢寧王」にしたいと、議論した。
正統性が、前王朝と接続しない人は、こうやって地中から、めでたいものを掘り出す。自立をめざす。公孫述なんか、このタイプだ。孫権もね。
張魯はどうしたか。

魯功曹巴西閻圃諫魯曰:「漢川之民,戶出十萬,財富土沃,四面險固;上匡天子,則為桓、文,次及竇融,不失富貴。今承制署置,勢足斬斷,不煩於王。原且不稱,勿為禍先。」魯從之。

張魯の功曹をつとめる、巴西の閻圃が、止めた。張魯は、漢寧王をやめた。
史料に「王にならなかった」と書いてあるのだから、そうなんだろう。まず現段階で、納得しておくしかない。本稿では、くつがえす予定ですが。

張魯伝の続きを見ておくと(あとで使います)、

韓遂、馬超之亂,關西民從子午穀奔之者數萬家。

韓遂と馬超が、曹操にそむいた。この戦いで、関中の民が数万家も、張魯のところに流れ込んだ。ふーん。

『資治通鑑』211年、曹操が征西したキッカケ

ぼくは今週、『資治通鑑』を抄訳しています。

211年分の抄訳は、こちらに掲載してます。

曹操は211年、張魯の討伐を唱えた。曹操は西に軍を出す。

ご存知のとおり、関中の諸将が怪しんで、曹操をふせぐ。潼関の戦いが、始まる。

もし、張魯がずっと同じ姿勢で、漢中に宗教立国していたら、曹操は動くまい。上の史料で見たように、張魯は鎮民中郎將、漢甯太守として、曹操に消極的にでも、従っているのだから。
211年は、曹操の心変わりでなく、張魯の変化のせいで、事態が動き出したと考えたほうが、自然だ。

ぼくの想像ですが、211年に張魯は、明確に後漢に叛いたのではないか。
208年、曹操が赤壁で破れた。209年、曹仁が江陵から撤退した。曹操は、劉備と孫権の独立を、一時的に、追認せざるを得なかった。歯向かった劉備と孫権に、官位を与えた。

後漢は賊の討伐に失敗すると、官位を与えて、体制内に取り込む。討伐の失敗を、ナカッタコトにする。後漢は、黒山賊・張燕が10万?を率いて強いから、平難中郎将とした。赤壁で破れ、江陵も失った曹操は、孫権や劉備に官位を配る。張燕のときと、おなじ対応かも?

これを見て張魯は「曹操も限界だな」と思った。だから、漢寧王の自称を検討した。玉印を、掘り出させた。
のちに張魯は、魏から封じられたから、歴史家たちは記録を遠慮したが、じつは張魯は、すでに王を自称していなかったか。王を自称するに相応しく、外征をする姿勢をアピールしていなかったか。

直接の裏づけとなる史料は、ありませんが。
張魯が、もっとも膨張する時期としては、211年が相応しい。これが今回、ぼくが指摘したいこと。張魯が漢寧王を名のれば(名のらないにしろ、王印の発掘を宣伝すれば)、曹操から討伐を受ける口実となる。まだ関中に韓遂や馬超がいるのに、関中を飛び越して、曹操が「張魯を討つ」と焦った不自然さは、説明がつきました。


劉璋が劉備を招くのは、曹操を防ぐためでない

同じ211年、劉璋は劉備を招いた。

曹操と劉備が、おなじ歳に、連動して動きを活発にするのは、おもしろい符合です。この符合のウラに、どんなつながりがあるのか。考えます。

『資治通鑑』にある因果関係の説明によれば、
「まず曹操が征西した。劉璋は、曹操が漢中を取るのを恐れた。曹操より先に漢中を取るため、劉備を招いた」となる。
これは、張松が劉璋に説明したロジックだ。『三国志』劉璋伝や先主伝で読める。でも、なんだか、分かるような、分からないような、気持ちのわるい話だ。説明の筋道が、成立しているような、飛躍があるような。劉璋が、この作戦で安定を得られるのかも、よく分からない。

張松の詭弁を、当然としてはいけない。
「張松は、劉璋ではなく、劉備の味方だ。張松の発言が、分かりにくくても、筋が通らなくても、それでいいのだ」では、話にならない。劉璋は、みずからの判断で、劉備を招いた。劉璋を、だまされただけの小人物だと決めつければ、思考が停止する。

確かに張松はこう云ったかも知れない。張松の発言の有無を、ぼくが検証することは、できない。張松がそう云ったものと、見なすしかない。

だが、益州で少数派に過ぎず、のちに謀反人となる張松のビジョンを、劉璋が完璧に共有しただろうか。益州の郡臣から見て、張松の言い分は、説得力があったのだろうか。これを疑うことは、できる。

張松は208年に、荊州で曹操と会った。遅く見積もっても張松は、209年中には、益州へ帰国しているはず。2年のあいだに何度も、曹操はダメだと、張松は劉璋に説明しただろう。だが劉璋は、曹操に敵対しない。211年に張松の発言が、いきなり説得力を持つ、なんてことはない。

張松の言い分を鵜呑みにせず、劉璋の考えを推測したい。

高島俊男『しくじった皇帝たち』ちくま文庫は、隋末の楊玄感の反乱に絡めていう。「なぜ朝廷の大官が、朝廷に弓を引いたか。よくは分からない。しかし、分からないでは済まないから、史書にはこう説明してある(以下略)」と。史実は一旦は享受するしかないが、史家による因果の推測は、ぼくらが再検討してもいい。
高島氏の本は、このあと『隋書』による因果の説明をつかまえて、「これはまあ、あまり説得的ではない」と、やっつける。
ぼくは、劉璋が劉備を招いた因果関係を、再考したい。張松を鵜呑みにしてしまった、司馬光から離れて、自分なりに考えてみる。


次回、劉璋が劉備を招いた理由は、
後漢の敵・張魯を討つためだと、指摘します。