表紙 > ~後漢 > 211年、漢寧王の張魯が独立し、曹操と劉備を振り回す

02) 張魯と孫権は共通点が多い

『資治通鑑』を翻訳していて、思いついた。
張魯は、じつは漢寧王だと宣伝した上で、きちんと段取りを踏んで、独立勢力に成長していったのかも知れない。

会社の地下食堂で昼食をとっているとき、思いついたネタ。

曹操と劉璋の動きから、張魯の独立宣言を浮かび上がらせます。つぎに、孫権との共通点から、張魯の建国へのあゆみを指摘します。

劉璋が劉備を招いた理由は、張魯

劉璋や、益州の郡臣は、何を考えていたか。
後漢に叛いた張魯を、後漢のために、やっつけるという正義である。

劉焉のように、独立心&エネルギーがあるなら、いざ知らず。劉璋は、おそらく巴西を張魯に切り取られ、成都周辺を維持することに、手一杯だ。だから、荊州の曹操に、せっせと使者を送った。河内の陰溥、蜀郡の張肅など。

このあたりの状況は、以前、書きました。
荊州の劉表と孫権をマネしつづけた、孤児の君主・劉璋伝

益州の世論は、張松の兄・張肅に同調していただろう。
つまり、曹操に官位を与えられて、成都の周辺の安定を望んでいた。曹操の征西は、むしろ歓迎である。
「お待ちしておりました。益州を温めて待っていました」と。

このタイミングで、劉璋が、劉備という爆弾を抱えこむには、特別な理由が必要だ。曹操の征西は、劉備を招く理由にならない。張松の話が、どうも胡散くさいのは、すでに見たとおり。
劉備を招く動機を、ぼくは張魯の変化に求める。
もともと劉璋が、父・劉焉をついだ時点から、張魯は漢中にいる。数十年のスパンで、膠着している。張魯になにも変化がないのに、突然、劉璋が「劉備を連れてきてでも、張魯を倒そう」というのは、不自然だ。

211年に、張魯が野心をむき出した。これを云うため、曹操の観点と、劉璋の観点から、状況証拠を集めて、ご紹介しております。

きっと劉璋は、張魯が漢寧王になろうと宣伝したことに「憤り」を抱いた。だから、劉備を招いたんだと思う。劉璋の思惑としては、
「後漢の忠臣・曹操さんのために、益州を保つのが私の使命だ。もし成都を張魯に与えたら、曹操さんの天下統一を遅らせる。背に腹は変えられない。傭兵・劉備を使うしかない」かな。

劉備をつかうことは、劉璋にとって、苦渋の決断です。

「劉備に益州を奪われるかも知れない」という心配ではない。この時点では、そんな後の展開まで、予想できない。予想できたとしても、検討の優先順位が低い。

後漢(献帝&曹操)の宿敵・劉備を、一時的にでも使うことに対する、抵抗感が劉璋にあった。毒をもって毒を制すという作戦のリスクを、どのように見積もるか、という問題だ。
劉璋の臣下の大半は、劉備を使って張魯を制することに、否定的だった。劉璋だって、もしも可能なら、後漢の忠臣に助けてもらいたい。だが、適切な人材が、益州近辺にいない。だから劉璋は「同族だし」とムリに自分を納得させ、劉備に助けを求めた。

張松の思惑とはちがう形で、劉備の招待が実現した。
益州の郡臣は、身体を張って、劉備の招待に反対する。あの姿は、劉璋に益州牧でいてほしいというだけでは、説明がつかない。派手すぎる。もともと州牧なんて、任期商売だ。そうではなく、後漢に対する忠義から、起こした行動ではないか。後漢の逆賊・劉備を使うことを、いさめたのでは?


張魯と孫権は、東西でおなじく独立を目指した

『資治通鑑』210年代前半を読むと、曹操が抱えている前線は、揚州と関中だ。つまり、孫権と馬超だ。揚州と関中は、うごきが線対称である。曹操は、この2地域のあいだを往復し、みずからの官爵をあげていく。

関中から帰って九錫、寿春から帰って魏公、、と。

曹操から見れば、揚州と関中は、同種の課題である。

関中で暴れているのは馬超だが、馬超のウラには、張魯がいる。韓遂と馬超が潼関で戦ったころ、張魯は将軍を送り、馬超を支援した。馬超が降ってきた後も、張魯は、馬超をつかって北伐した。
張魯が関中をねらった積極性は、強調されるべきだ。

馬超が張魯の部将となった後のこと。「馬超は、張魯が腰抜けだから、活躍の場がなくて、もどかしかった」という小説がある。馬超が祁山を包囲して「なんのための戦いですか」と部下に嘆かれる漫画がある。いずれも、事実を反映していないと思う。


孫権はのちに建国するから、独立にむかう動作が、史料によく残っている。張魯は、孫権のような史料はない。

張魯は魏に臣従し、封じられた。張魯の子は、曹宇に嫁いでる。張魯の家は、世渡りに成功して、生き残った。どこまで伝説の領域だか分からないが、道教の継承者として、血筋は絶えない。
張魯に都合の悪いことを、曹魏の史家は書かない。陳寿が利用できる史料も、少なかったはずだ。張魯の子孫の名誉を守るため、張魯の外征政策は、ナカッタコトにされた。だが張魯は、南は劉璋、北は関中、東は漢水をつたって荊州?に、外征する気だったのではないか。

史料はないが、曹操がフリコのように、対称して動いていることから見て、張魯は孫権なみに、独立勢力として成長していたはずだ
宗教にかこつけて、意義がアイマイになっているが、張魯は、オリジナルの官職体系を設定した。これこそ、独立の営み。王号の検討は、史料に残った。独自の年号を、211年ごろに設定したかも。

孫権と張魯の共通点は、意外とおおい

はじめに『三国志』張魯伝で、確認しました。
曹操の統治が気に食わない人たちが、漢中に避難しました。おなじことは、揚州でも起きています。

『資治通鑑』213年4月からの引用です。
初,曹操在譙,恐濱江郡縣為孫權所略,欲徙令近內(中略)既而民轉相驚,自廬江、九江、蘄春、廣陵,戶十餘萬皆東流江,江西遂虛,合淝以南,惟有皖城。
訳しておくと、
はじめ曹操は譙にいて、長江に接した郡県の住民が、孫権に奪われることを恐れた。住民は驚いて、長江の南に逃げた。廬江、九江、蘄春、広陵の民は、10余万戸が逃げた。合肥より南は、ただ皖城があるだけとなった。

この類似点からも、孫権の揚州と、張魯の漢中が、性質の似た地域だったことが分かります。曹操が抱えたフロンティアの戦線です。

もう1つ、共通点がある。
孫権は揚州にいて、前線の荊州に、周瑜・劉備をおき、曹子孝と対決。
張魯は漢中にいて、前線の漢中に、馬超・韓遂をおき、夏侯淵と対決。
あら、そっくり!

文のかたちは、対句にしてます。ワザと。でも、ぼくの作為を差し引いても、似ていると思います。周瑜と劉備は、ライバル関係にあった。馬超と韓遂も、ライバル関係にあった。周瑜と馬超は、比較的あやつりやすい、勇敢な若者。劉備と韓遂は、どう転がるか分からない、危険な老人。史実が、対句になってる。笑


張魯の王国が成立せず、孫権の王国が成功したのは、なぜか。時期、としか言えない。張魯でも、なお早すぎた。袁術よりは、だいぶ粘ったのだが。笑
曹操や曹丕ほどの最大勢力ですら、後漢からの禅譲は冒険だった。曹丕が後漢を滅ぼしてくれたおかげで、劉備と孫権は、独立しやすくなった。

おわりに

『三国志集解』で張魯伝を読もう。これ、読まずに書いちゃった。
かなり、雑な議論だと思っています。お見逃しください。とりあえず、ザックリと大きな話を作ってみた。ここから調整を加えて、史料の裏づけを取ってゆきたい。そういう文でした。101105