01) 孤児の劉璋は、荊州を模倣
「蜀志」巻1より、劉璋伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。
今回ぼくは、劉璋が荊州のマネをしたと指摘します。
劉璋は、劉焉の死後、劉表をお手本にした
劉璋は、劉焉の死後、劉表をお手本にしました。
劉璋の父・劉焉と、劉表は、類似点がおおい。ともに前漢の景帝の子孫だ。南蛮と接するフロンティアで、州牧となった。現地の豪族を乗りこなした。自分を天子に準えた。
似たもの同士だから、劉焉と劉表はライバルだった。衝突した。
つぎの代、
劉璋は、劉焉ほどの野心がない。劉璋は、兄が長安で敗死したから、消去法で益州牧となった人だ。自主性がない。だから劉璋は、父の劉焉をマネるしか、行動指針がない。
しかし後漢末の情勢は、変化が激しい。194年に死んだ劉焉の方針を堅持しては、時代に対応できない。だから劉璋は、となりの劉表をマネた。劉璋は思った。
「劉表は、第2の父だ。劉表をマネれば、大過はないはずだ」
劉表が豪族の利害を調整すると、劉璋も調整した。
劉表が外征すると、劉璋も外征した。
劉表が死に、荊州が曹操に降伏したら、劉璋は曹操になびいた。
劉璋は、劉表の死後、孫権をお手本にした
劉璋は、劉表の死後、孫権をお手本にしました。
曹操が赤壁で破れ、孫権を荊州を得たら、劉璋は統治をマネた。
すなわち、傭兵・劉備に、軍事を委ねようとした。
同じだ。おどろくほど、何のヒネリもない。
劉備に成都を包囲されて、君主としての劉璋は、終わりました。
以前に龐統伝を書いたとき、
「益州側の事情も考慮すべきだ」というご指摘を頂戴しました。
劉璋はなぜ、孫権の傭兵・劉備を、迎え入れたか。
劉璋を主語にした回答としましては、こうです。
「孫権の傭兵・劉備は、荊州の南部を、武力平定に成功した。劉璋は劉備に、益州でも、荊州と同じ成果を出してもらいたい。すなわち劉備に、張魯を倒してもらいたい。だから劉璋は、劉備を歓迎した」
これが、ぼくの考えです。
では、史料本文にうつります。
江夏郡の人脈、三公たる黄琬との血縁
璋,字季玉,既襲焉位。
劉璋は、あざなを季玉という。
劉璋の母は、費氏だ。費イ伝にみえる。
ぼくは思う。黄琬は、董卓のとき三公になった。黄琬は、董卓の遷都を諌めた。劉焉は、劉弁殺害&洛陽放棄をした董卓と献帝を、正統な皇帝だと認めなかった。黄琬と劉焉は、同じ立場だ。のちに黄琬は、李傕に殺された。息子に李傕を攻めさせた劉焉と、密接に繋がっていただろう。
しかも! なんと黄琬は、劉焉と同じ江夏郡の出身だ。黄琬の祖父である黄瓊は、『後漢書』に列伝をもつ。劉焉の人脈を知るために、黄瓊伝を読むべきだ。黄瓊から、世代が下の方向へ広がるはず。
劉焉は、父の位をついだ。
次回、益州をめぐる宿命の敵・張魯とぶつかります。