表紙 > 人物伝 > 荊州の劉表と孫権をマネしつづけた、孤児の君主・劉璋伝

03) 巴西を張魯に譲り、籠もる

「蜀志」巻1より、劉璋伝をやります。
前回で劉璋は、左腕の趙韙を殺してしまい、右腕の龐羲を殺しそうになった。有力者を使いこなすのは、難しいのだ。
となりの劉表は、蔡瑁や蒯越など、特定の勢力を味方に固定して、それ以外を徹底排除した。劉璋は、劉表ほど、徹底できない。

袁紹軍と劉璋軍に、共通する弱み

英雄記曰:先是,南陽、三輔人流入益州數萬家,收以為兵,名曰東州兵。璋性寬柔,無威略,東州人侵暴舊民,璋不能禁,政令多闕,益州頗怨。趙韙素得人心,璋委任之。韙因民怨謀叛,乃厚賂荊州請和,陰結州中大姓,與俱起兵,還擊璋。蜀郡、廣漢、犍為皆應韙。璋馳入成都城守,東州人畏(威),咸同心並力助璋,皆殊死戰,遂破反者,進攻韙於江州。韙將龐樂、李異反殺韙軍,斬韙。

『英雄記』はいう。

前ページにおいて、陳寿本文と『華陽国志』で見た、趙韙の死んだ戦いを、『英雄記』で読み直しています。

劉璋は性格がゆるく、南陽や三輔からきた東州兵を、取り締まれなかった。東州兵は、益州で略奪した。

『華陽国志』は、趙韙が劉璋をいさめたと云った。いさめのネタは、「東州兵は乱暴をやめろ」だったかも知れない。

趙韙は、益州の民がいだく東州兵への恨みを代弁し、劉璋を攻めた。趙韙は、荊州の豪族とむすんだ。
東州兵は死にものぐるいで戦った。趙韙は、部下に斬られた。

話はとびます。袁紹は、後漢の方針をふんで「寛治」した。劉璋も「寛治」タイプですね。部下の派閥争いは、袁紹と同じだろうか。
この『英雄記』で大きな意味を持ちますが、趙韙は巴西の人。地元の利害を代表した。 龐羲は移住者の代表。趙韙は現地人の代表。
袁紹のもとで、移住した豫州人と、現地の冀州人が対立した。劉璋軍でも、同じ構図が書けるだろうか。
「龐羲:趙韙=郭図:沮授」みたいな。


漢獻帝春秋曰:漢朝聞益州亂,遣五官中郎將牛亶為益州刺史;徵璋為卿,不至。

『漢獻帝春秋』はいう。漢王朝は、益州が乱れたと聞いた。五官中郎將の牛亶を、益州刺史とした。劉璋を中央に呼びもどし、九卿にしようとした。実現せず。

『献帝春秋』だからなあ。信憑性がねえ。たよりの『集解』は、牛亶なる人物に注釈がついていない。
「益州乱」だけを根拠に、裴松之が配置したか。時期は不明だよね。


空白の7年間、巴西の異民族を、張魯が統治した

休憩&考察します。劉璋の列伝で、年代が飛びすぎる件。
194年、益州牧の劉焉は、綿竹から成都へ転居し、東南に後退した。劉焉は、同じ歳に死んだ。
すぐに劉璋は、龐羲や趙韙に推され、益州刺史になった。北西にいる張魯との戦争に明け暮れた。河内の龐羲が、勝てなかったので、巴西は張魯が進駐したままだ。ここで6年とぶ。

『華陽国志』のおかげで、趙韙が造反した年代が分かるだけだ。陳寿は、不親切である。

200年から201年にかけて、巴西の趙韙が造反した。

ぼくの読み方を、再掲載。
趙韙は、劉璋を支える意図があった。だが張魯は、情報を操作して、劉璋に趙韙を攻撃させた。趙韙は死んだ。張魯の作戦は、成功。

劉璋と趙韙が「同士討ち」して、巴西は張魯が獲得した。と思う。

つぎに列伝の記述は、208年の曹操の荊州南下。なんの断りもなく、7年空いた。あいだに何があったのだろうか。
全国の情勢はどんなか。
この時期、曹操が北伐しているので、南方のプレッシャーは軽減された。揚州の孫権は、当主として地位を固めた。荊州の劉表は、学問に花を咲かせた。では、益州の劉璋は?

ここで参考にしたいのが、「魏志」張魯伝です。

不置長吏,皆以祭酒為治,民夷便樂之。雄據巴漢垂三十年。

張魯は役人をおかず、祭酒に政治を行わせた。漢民族も異民族も、張魯の治世を楽しんだ。張魯は、巴と漢に30年も君臨した。

注目したいのが「巴漢」です。漢は漢中です。巴とは、巴郡、巴西郡、巴東郡です。地図に見る位置関係や、前後の劉璋の動きからみて、少なくとも巴西郡は、張魯の領地だったようです。

のちに劉璋は、長江沿いに劉備を迎えた。長江がとおる巴東郡(永安)と巴郡(江州)は、劉璋の勢力範囲だと分かる。
しかし巴西には、劉備も立ち入ることができていない。巴西郡を迂回し、漢中を攻めている。巴西に、張魯がおよぶ証拠だ。
もっとも、水路を使いたかったから、劉備は山道の巴西郡を避けた、という理由もあるだろうが。

推測ですが、張魯は201年以降、巴西の山奥の異民族を、味方につけていた。これが、列伝で空白の7年間の状況。
劉備に敬遠されるほど、張魯の支配は安定していた。いくら最強の傭兵・劉備軍が突っこんでも、異民族は、点と線では撃破できない。

というわけで、曹操の重圧が去った7年間、劉璋は益州全土はあきらめ、巴西を張魯に差し出し、成都周辺だけで、人士のバランス取りに腐心していたと云える。

このころ劉表は、零陵で張羨の子を殺して、満足し、そとへの膨張を辞めた。これに同調=マネをして、劉璋も現状維持に転じたのかも。
ただし、完全に同じではない。劉表は異民族(張羨ら)に勝って、現状維持をはじめた。劉璋は異民族(張魯ら)に負けて、現状維持をはじめた。この、劉表と劉璋の違いは大きい。
もうひとつ。
「巴西の張魯がムリなら、劉璋は長江をくだり、荊州を攻めたらどうか」
という可能性も検討します。
結論は、これもムリ。208年に劉表が死ぬまでは、劉表の荊州経営&南征が、もっとも充実した時期だ。劉表は「勝って」現状維持に入ったことを、上に書きました。劉璋は、荊州に手を出すわけにもいかない。

異郷人が融和するには、時間がかかる。中原から避難した人と、益州人が、共存するための期間だったのかも。

後述する雍闓の叛乱から、劉璋が南方経営に成功していた形跡が、うかがえる。南方を安定させたとしたら、この時期か。

いっぽう劉璋の背後では、張松や法正のような、血の気の多い人たちは、不満をためた。

「蜀志」法正伝はいう。既不任用,又為其州邑俱僑客者所謗無行,志意不得。益州別駕張松與正相善,忖璋不足與有為,常竊歎息。

曹操が揺さぶりにくると、張松や法正は動き出すのです。

荊州の例にならって、曹操に降伏する

璋聞曹公征荊州,已定漢中,遣河內陰溥致敬於曹公。加璋振威將軍,兄瑁平寇將軍。瑁狂疾物故。

劉璋は、曹操が荊州を征ち、すでに漢中を平定したと聞いた。

曹操が漢中に行くのは、建安20年。ぼくでも気づく、ミス。
ただ「聞く」だけなら自由である。誤報が、益州に届いたのかも知れない。そう開き直られたら、文句はつけられないのだ。笑

劉璋は、河内の陰溥をつかわし、曹公にあいさつした。

あいさつに行ったのは、河内の人だから、龐羲と同じで中原出身者。
范曄『後漢書』では、建安13年。『華陽国志』では建安10年。
盧弼はいう。曹操は建安10年は、北伐している。『華陽国志』は誤り。
『華陽国志』でのみ、陰溥の官位が中郎将だと知れる。

曹操は劉璋を、振威將軍とした。曹操は、劉璋の兄・劉瑁を、平寇將軍とした。

潘眉はいう。劉焉には4人の男子がいた。劉瑁は、劉璋の弟である。劉璋の「兄」とした陳寿は、誤っている。
沈家本はいう。劉璋のあざなは「季玉」だから、末っ子だ。だから劉瑁は兄でよい。范曄も、劉瑁が兄だとする。劉瑁を「小子」と書くのは、私生児の意味だろうか。
・・・お取り込み中わるいが、すぐに劉瑁は死ぬので、どちらでもよい。笑

劉瑁は、狂疾して物故した。

ちくま訳が「精神病」と訳した箇所だ。
裴松之が、物故の意味を注釈している。魏台訪「物故」之義,高堂隆答曰:「聞之先師:物,無也;故,事也;言無複所能於事也。」とね。
盧弼も、注釈者の血が騒いだらしく、おおくを引用。平たく云えば「死んだ」ということなんだ。いいじゃん、それで。
劉璋は、ずぶとく生きている。しかし並の神経なら、周囲がするどく対立すると、狂うだろう。キレモノでは、益州に孤立&維持できない。この意味で、劉禅も同じ種類の「すぐれた」君主かも?


次回、蜀郡の張肅と張松が、曹操に会いにいきます。