表紙 > 人物伝 > 荊州の劉表と孫権をマネしつづけた、孤児の君主・劉璋伝

02) 張魯に、離間を仕掛けらる

「蜀志」巻1より、劉璋伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

北西の張魯と、異民族の支持をめぐり、益州を争う

而張魯稍驕恣,不承順璋,璋殺魯母及弟,遂為讎敵。璋累遣龐羲等攻魯,〔數為〕所破。魯部曲多在巴西,故以羲為巴西太守,領兵禦魯。

劉璋が劉焉をついだが、 張魯は、劉璋にしたがわない。
劉璋は、張魯の母と弟を殺した。張魯にとって劉璋は、讎敵となった。劉璋は、龐羲をおくって、張魯を攻めた。龐羲は、張魯に敗れた。

龐羲が負けた回数を「多数」とする版本もある。どちらにせよ、負けた。190年代、反対勢力と戦い、州の統一を目指す方針は、劉表と足並みが揃っていることに注意。
ちなみに龐羲は、劉璋の兄が李傕に負けたとき、劉氏の子供たちをつれて、益州に入った人。劉璋の子・劉循は、龐羲の娘をめとる。第一の臣だ。
龐羲は、河南郡の人だ。劉焉が中央にいたとき、つながった人士か。

張魯の部曲は、おおく巴西にいた。

巴東と巴西は、武帝紀の建安20年と、張郃伝に、盧弼が注釈した。
趙一清は『続郡国志』がひく譙周『巴記』をもとに、巴郡を3つに分けた年代を考察する。煩雑なので省きますが、趙韙と劉璋が、巴郡を分割した。
ぼくは思う。郡の分割には、理由がある。軍事的に重要だとか、人口が増えたとか。張魯と、益州の北西部を争うことが、劉璋のはじめの重点テーマだったのでしょう。張魯=漢中というイメージが強いが、張魯は巴西郡にも進出していた。下手したら、荊州への水路や成都を、張魯に取られる。

劉璋は、龐羲を巴西太守として、張魯を防がせた。

『華陽国志』はいう。劉璋がよわいから、張魯は漢中で独立した。異民族の巴夷である、杜カク、朴胡、袁約らは、劉璋にそむいて張魯についた。劉璋は怒って、張魯の母と弟を殺した。劉璋は、和徳中郎将の龐羲に、張魯を討たせたが、敗れた。巴人は、日に日に劉璋にそむき、張魯についた。劉璋は、龐羲を巴郡太守にした。龐羲は、ロウ中で張魯をふせいだ。龐羲は、漢昌のトウ族の民を、兵にした。
ぼくは思う。巴郡の異民族の帰趨をめぐり、劉璋と張魯は、対等に戦っている。いや、張魯が勝っている。


英雄記曰:龐羲與璋有舊,又免璋諸子於難,故璋厚德羲,以羲為巴西太守,遂專權勢。

『英雄記』はいう。龐羲と劉璋は、昔なじみだ。龐羲は、劉璋の子供たちを助けた。ゆえに劉璋は、龐羲をおもんじた。龐羲は巴西太守になり、権勢をもっぱらにした。

下で書きますが、ぼくは龐羲の傲慢を信じません。
傲慢以外で、とるべき情報はどれか。劉璋の兄が長安で敗れたとき、劉璋の子も、長安周辺にいたということ。龐羲のむこ、劉循かな。


功臣・趙韙の死は、張魯による離間の策!

後羲與璋情好攜隙。趙韙稱兵內向,眾散見殺,皆由璋明斷少而外言入故也。

のちに龐羲は、気持ちの面で、劉璋と仲たがいした。
趙韙の兵が、内に向かったとウワサされた。

趙韙って誰? 悲しいことに、きのう劉焉伝をアップした、ぼくですら自信がない。復習のため、注釈します。笑
巴西の趙韙は、はじめ太倉令だった。劉焉が益州に赴任したとき、官位を捨てて従った。劉璋の性格がおだやかだから、劉璋を益州刺史に推薦した。新任の劉璋が、劉表に攻められると、征東中郎將になって防いだ。
つまり、龐羲と同格で、劉璋の左腕である。継国をたすけた。

趙韙の兵は散り、趙韙は殺された。

趙韙の「稱兵内向」が不自然で訳しにくい。ちくま訳は「趙韙は、挙兵して内に攻めこんだ」である。意味が通じないと思ったのか、ちくまは「劉璋に迎撃された」と、勝手に補ってある。
ホントウか?
「兵は内に向ふと称し」だろう。じつは趙韙の兵は、動いていない。称しただけ。造反の疑いを、捏造されたのでは?
そもそも兵が向かったとされる「内」が抽象的だ。ますます、怪しい。

龐羲との対立や、趙韙の戦死は、劉璋のせいだ。劉璋が判断力に欠け、他人の言いなりになったためだ。

ぼくの考えだと劉璋は、張魯の作戦に引っかかって、自分の両腕を切り落としたのだと思います。以下、書きます。


功臣の龐羲&趙韙の死は、張魯による離間の策!

盧弼がひく『華陽国志』はいう。

考察する前に、関連する記事を、抄訳しておきます。
原文のテキストを持っていないので、原文なしです。。

龐羲と劉璋は、感情の面で、距離がうまれた。趙韙は、しばしば諫言をしたが、劉璋は聞かない。趙韙は、劉璋をうらんだ。

趙韙は、なにを諌めたか。文脈をムリにつなげて推測すれば、「劉璋さま。龐羲と仲良くしなさい」でしょうか。
もしくは「私の地元・巴西を、早く鎮めてください」かな。

建安五年(200年)趙韙は、数万の兵で、劉璋を攻めようとした。劉璋は、ぎゃくに趙韙を討った。翌年(201年)趙韙は敗れた。

上でぼくが、ちくま訳に疑問を投げた戦い。
開戦した経緯が、どうもボヤボヤしている。劉璋にも趙韙にも、積極的な開戦の意図がないのに、うっかり始まってしまった感じだ。趙韙は「起兵数万、将以攻璋」という状態だった。「まさに、攻めんとす」という、未遂の状態だ。ほんとに趙韙が、劉璋を攻めるつもりか、分からない。張魯をふせぐ目的で、兵を集めたかも知れない。
劉璋が、疑心暗鬼になり、先に手を出した。


『華陽国志』は、つづく。龐羲は、趙韙が死んだのを見て、懼れた。

劉邦の功臣が、順番に片付けられていく話を連想する。「趙韙が死んだら、つぎはオレだろうか」と、龐羲は懼れたか。

龐羲は、漢昌令の程畿に、トウ族の兵を集めさせた。程畿は龐羲の命令をことわり、劉璋にそむくことに反対した。程畿は「もし、わが子を食べることになっても、劉璋さんに仕えつづける」と云った。龐羲は程畿に説得されて、劉璋にあやまった。

龐羲は、劉璋をにくんでいない。むしろ龐羲は、劉璋の右腕である。龐羲は、疑心暗鬼の連鎖で、やむなく自衛の兵を集めようとしただけ。兵を集めなかったから、暴発しなかった。

劉璋は、程畿が龐羲の挙兵を止めてくれたので、江陽太守に任じた。

以上まとめると、『華陽国志』では、龐羲もまた、趙韙と同じように、劉璋と開戦しそうになった。劉璋の朝廷は、大損失の一歩手前だ。


さて。ここで考察。劉璋の朝廷になにが起きているのか。
ぼくは龐羲も趙韙も、劉璋にそむく意図はなかったと思う。少なくとも、陳寿は、そう伝えていると思う。

『華陽国志』も、そむく意図を記述していないと思う。

龐羲が偉そうに振舞ったと伝えるのは、陳寿でない。『英雄記』だけだ。『英雄記』の著者は、「功績が大きく、軍権を与えられた臣下は、おごり高ぶる」という一般論からの連想し、創作したのだろう。

劉璋と龐羲が「情好」で対立したのは、孫権と張昭に似るか。若い君主と、お目付け役の衝突だ。ケンカしつつも、仲がいい、というレベル。本当に深刻に対立したら、「情好」なんて書かないよ。

趙韙の謀反は、ちくま訳ほど、堂々と開戦しない。陳寿をぼくなりに読むなら、趙韙と劉璋は、誰かに炊きつけられて暴発したのだ。

なぜ暴発したか。劉璋の朝廷が不安定だから。

劉璋は、龐羲と趙韙に支えられている。右腕と左腕だ。2人の功臣は、大きな権限を与えられている。
劉璋の朝廷は、2つの爆弾を抱えている。主君より臣下が強い。実力の等しい臣下が並ぶ。 1つだけでもヤバいのに、2つです。龐羲や趙韙が野心をもたなくても、勘違いが連鎖して、悲劇を生むかもしれない。
爆弾が2つある理由は、劉璋の父と兄が、つづけて死んだから。孫呉に例えれば、孫堅と孫策が、同時に死んだに等しい。そりゃ、安定しない。

不安定ゆえ、ちょっと力を加えられると、大混乱する。劉璋の不安定に漬けこんだ、黒幕は誰か。
張魯である。
張魯は、漢中から巴西に進出し、成都をねらっている。
いま龐羲は巴西太守だ。趙韙は、巴西出身だ。おそらく趙韙も、巴西に私兵を持っている。劉表軍を、追いはらった実績がある。張魯にとってジャマだ。動機は充分、アリバイなし。

陳寿は、故郷が益州だ。趙韙の死因を、詳しく知っていたのではないか。だが、晋朝に仕える張魯の子孫にはばかり、隠したのではないか。
『華陽国志』にある、趙韙と劉璋の戦闘の詳細を、陳寿は、わざわざ?省いてある。陳寿の手元に、戦闘の記録がなかったとは思えない。はぶくことで、趙韙に戦意がないと、陳寿は暗に主張した?
陳寿のクセとして、不都合なことは完全には隠さず、わざと表現を不自然にして、タグを貼る。「称兵内向」の分かりにくさは、タグでは?


次回、曹操と劉備が登場します。