表紙 > 人物伝 > 荊州の劉表と孫権をマネしつづけた、孤児の君主・劉璋伝

04) 劉備を招待し、孫呉に奔る

「蜀志」巻1より、劉璋伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

張松を任じなかった曹操は、正しいと思う

璋複遣別駕從事蜀郡張肅送叟兵三百人並雜禦物於曹公,曹公拜肅為廣漢太守。

劉璋は、つぎに、別駕從事をつとめる蜀郡の張肅を、曹操に送った。張肅は、異民族の叟兵300人と、献上品を曹操に届けた。

なぜ、2回も使者を送ったか。1回目は中原出身の人。2回目は、益州出身の地元人。ただの重複ではなく、代表する利害が違うのだ。
地元人は、地元の異民族と特産物を添えた。「こんなに遠くから、曹操さまを慕って、朝貢してきました」という宣伝である。中原出身の人には、務まらない役目である。

曹操は、張肅を廣漢太守とした。

中原人の使者がいけば、使者本人(陰溥)は任じられず、劉璋の兄弟が任じられた。益州人の使者がいけば、使者本人(張肅)が任じられた。2回の使者の目的のちがいが、よく分かる。
1回目は、劉璋の代理。2回目は、在地勢力の代表だ。
(劉璋は荊州の江夏郡出身だが、中原の人脈に連なるという位置づけ)


璋複遣別駕張松詣曹公,曹公時已定荊州,走先主,不復存錄松,松以此怨。會曹公軍不利於赤壁,兼以疫死。松還,疵毀曹公,勸璋自絕。

劉璋は、さらに別駕の張松を、曹操に会いにいかせた。すでに曹操は、荊州を平定し、劉備を追いだした。曹操は、張松に官位を与えなかった。張松は、曹操を恨んだ。

『華陽国志』はいう。建安13年、張松は曹操から、ただの越スイ比蘇令に任じられた。官位がひくいので、張松は曹操をうらんだ。
ぼくは思う。曹操が張松に官位を与えなかったのは、政治的な配慮である。もし兄の張肅とおなじ地位にしたら、兄弟が対立する。曹操はすでに、劉璋の代理者1人、益州の利害代表者1人と、面会した。3人目には、官位を与える名目がない。ただでさえ、派閥抗争が起きやすい益州に、火種を増やしてはいけない。
『演義』では、『孟徳新書』を張松が暗誦したり、楽しい場面だ。

曹操は疫病により、赤壁で負けた。張松は曹操をけなした。劉璋に、曹操との絶交をすすめた。

漢書春秋曰:張松見曹公,曹公方自矜伐,不存錄松。松歸,乃勸璋自絕。習鑿齒曰:昔齊桓一矜其功而叛者九國,曹操暫自驕伐而天下三分,皆勤之於數十年之內而棄之於俯仰之頃,豈不惜乎!是以君子勞謙日昃,慮以下人,功高而居之以讓,勢尊而守之以卑。情近於物,故雖貴而人不厭其重;德洽群生,故業廣而天下愈欣其慶。夫然,故能有其富貴,保其功業,隆顯當時,傳福百世,何驕矜之有哉!君子是以知曹操之不能遂兼天下者也。

習鑿歯は『漢晋春秋』でいう。曹操はおごり、張松をムゲにしたから、天下をとり損ねたと。

ぼくにとって、どうでもいい議論だ。
習鑿歯は、魏の正統を否定したい人間だ。後漢から蜀漢、蜀漢から西晋に、正統が移ったと主張した。だから習鑿歯は、曹操をくさすのだ。


孫権の荊州経営をマネて、劉備に益州の軍事をまかす

因說璋曰:「劉豫州,使君之肺腑,可與交通。」璋皆然之,遣法正連好先主,尋又令正及孟達送兵數千助先主守禦,正遂還。後松複說璋曰:「今州中諸將龐羲、李異等皆恃功驕豪,欲有外意,不得豫州,則敵攻其外,民攻其內,必敗之道也。」璋又從之,遣法正請先主。

張松、法正、孟達は、劉備を頼ろうと云った。劉璋は、劉備を頼ろうと賛成した。さらに張松は云った。
「いま益州では、龐羲や李異がつよい。劉備を頼るしかありません」
劉璋は、また同意した。

龐羲は、益州をささえてくれた恩人である。なぜ劉璋は、龐羲の悪口をいう張松に賛成したか。
理由は、もう劉璋は、中原人と益州人を調停することに、やる気がでないから。モチベーションがあがらないから。
なぜ、やる気が出ないか。調停に成功したはずの劉表がほろび、子孫に国を残せなかったから。劉璋のロールモデルは、はじめ劉焉、途中から劉表だった。劉表の失敗を、なぞっても仕方ない。
いま荊州は、孫権のものだ。孫権は、劉備に荊州の軍事をゆだねた。劉備は、南部4郡の制圧に、功績があった。だったら益州も、荊州にならおう。益州を劉璋が治めつつ、軍事だけは劉備に任せようと。州内の敵対勢力(張魯)を、劉備が追いはらってくれるはずだ。


璋主簿黃權陳其利害,從事廣漢王累自倒縣於州門以諫,璋一無所納,敕在所供奉先主,先主入境如歸。先主至江州北,由墊江水墊音徒協反。詣涪,音浮。去成都三百六十裏,是歲建安十六年也。璋率步騎三萬餘人,車乘帳幔,精光曜日,往就與會;先主所將將士,更相之適,歡飲百餘日。璋資給先主, 使討張魯,然後分別。吳書曰:璋以米二十萬斛,騎千匹,車千乘,繒絮錦帛,以資送劉備。

主簿の黄権と、従事の王累は、劉備を招くことに反対した。

出身地によって、意見を分類したくなる。 益州人は劉備を拒んだ、とか。しかし、うまくいかない。各人の意見については、また後日考えたい。劉備に対する認識の違いとか、複雑な話になりそうだから。
ともかく劉璋その人に限っていえば、傭兵・劉備に軍事を委ねると決めた。臣下が逆さ吊りだろうが、歯を折って見せられようが、動じない。

劉璋は、長江沿いに劉備を入れた。建安十六年(211年)である。劉璋は劉備に、張魯を倒してくれと頼んだ。

211年の状況分析に、曹操の動きを、含めるべきだろう。しかし劉璋が、見たこともない曹操を、どこまでリアルに懼れたか、分からない。ずっと益州に籠もっている人だから。曹操については、たとえば司隷出身の法正のほうが、視野が広かっただろう。
もし、劉璋が警戒するとしたら、曹操に押し出されて、張魯が成都に南下することじゃないか。知らない曹操の猛攻より、じっさいに苦しめられた張魯のほうが、ずっと恐い。だから、劉備よろしく!


傭兵・劉備に騎馬を剥かれ、孫呉の厄介になる

明年,先主至葭萌,還兵南向,所在皆克。十九年,進圍成都數十日,城中尚有精兵三萬人,谷帛支一年,吏民鹹欲死戰。璋言:「父子在州二十餘年,無恩德以加百姓。百姓攻戰三年,肌膏草野者,以璋故也,何心能安!」遂開城出降,群下莫不流涕。先主遷璋于南郡公安,盡歸其財物及故佩振威將軍印綬。孫權殺關羽,取荊州,以璋為益州牧,駐秭歸。璋卒,南中豪率雍闓據益郡反,附於吳。

建安十九年(214年)成都は劉備に、陥された。
「父より20余年、益州を治めた。人民に恩徳を加えず、劉備と3年も戦ってしまった。死者のあぶらが、原野に流れでている。私のせいだ。心が安まらない」

劉備は、雇い主・劉璋の手をかんだ。劉璋は、これを予想できなかった。なぜか。荊州よりも益州のほうが、事態の展開が先だったから。荊州を模倣ばかりしてきた劉璋は、打ち手がない。「心が安められない」と嘆くしかない。セリフは、歴史家のレトリックだろうが。
やがて劉備は、もう1人の雇い主・孫権にも対決を挑む。夷陵の戦いとかね。しかし現時点では、劉璋の知らない話である。

関羽の死後、劉璋は、孫呉から益州牧に任じられた。

ぼくは思う。成都が陥ちる前、劉璋は孫呉と同盟したか。遅くとも劉璋が、劉備にとどめを刺される直前には。当時の孫呉の司令官は魯粛です。
魯粛の動きは、史料的な根拠は未発見です。しかし、のちに孫呉が劉璋を厚遇したことを見ると、妄想したくなる。魯粛が、劉璋という美味しいネタについて、ノーアイディアということは、あるまい。
そうでなく、関羽の死後、路頭にまよった劉璋が、たまたま孫呉に拾得&利用されただけ? 敵(劉備)の敵だから、保護してやろうかな、というノリで。それならば、魯粛の出る幕はありません。

劉璋が死ぬと、南中の雍闓が、益郡で劉禅に叛いた。雍闓は、孫呉についた。

「蜀志」後主伝はいう。建興元年(223年)雍闓がそむいた。
『通鑑』はいう。黄初4年(223年)益州郡の雍闓が、太守の正昴を殺した。雍闓は士燮をたより、孫呉についた。
陳寿は、雍闓がそむいた原因を、劉璋の死だと云いたいようだ。劉璋は、北西は張魯にブロックされたが、南部は手堅く治めたというのか?
また、雍闓の件でも、孫呉が劉璋を利用したと、指摘できそうだ。どれくらい前から練られたプランなのかにより、手柄の所在が変わる。孫呉の司令官は、交代が激しいから。笑


權複以璋子闡為益州刺史,處交、益界首。丞相諸葛亮平南土,闡還吳,為禦史中丞。吳書曰:闡一名緯,為人恭恪,輕財愛義,有仁讓之風,後疾終於家。
初,璋長子循妻,龐羲女也。先主定蜀,羲為左將軍司馬,璋時從羲啟留循,先主以為奉車中郎將。是以璋二子之後,分在吳、蜀。

劉璋の子である劉闡は、孫呉の益州刺史となった。劉璋の2人の子は、孫呉と蜀漢に分かれた。

おわりに

劉璋は、文字どおり「孤児」のような状態で、益州をついだ。 ビジョンがない。仕方ないから、隣の荊州をロールモデルに、益州を治めた。
190年代は、派閥調整と、拡大戦争。208年までは、領土維持と南方漸進。曹操がきたら、曹操に降伏。孫権が荊州を抑えたら、傭兵・劉備を活用。
劉備の入蜀につき、劉璋個人の思惑は、明らかにできたと思います。つぎは法正かな。蜀臣の思惑は、どこに。

曹操に、河内の陰溥と、蜀郡の張肅が、べつべつにご機嫌うかがいしている時点で、劉璋政権は、じつは崩壊しているような気がする。荊州と同時に崩壊したのだ。劉璋が調整し、益州を1つにまとめられていないから。蜀臣、後日検討します。 100710