214年秋冬、荀攸が死に、伏皇后を殺す
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
荊州や益州の人士、劉備をめぐる動き(2)
備之襲劉璋也,留中郎將南郡霍峻守葭萌城。張魯遣楊昂誘峻求共守城。峻曰:
「小人頭可得,城不可得!」昂乃退。
後璋將扶禁、向存等帥萬餘人由閬水上,攻圍峻,
且一年。峻城中兵才數百人,伺其怠隙,選精銳出擊,大破之,斬存。備既定蜀,乃分
廣漢為梓潼郡,以峻為梓潼太守。
劉備が劉璋を襲ったとき、中郎将をつとめる南郡の霍峻を、葭萌城に留めた。張魯は楊昂に「霍峻よ、ともに葭萌城を守ろう」と誘わせた。霍峻は、
「バカ(楊昂)の首級を手に入るだろうが、城は得られないぞ」
と楊昂に云った。楊昂は退いた。
のちに劉璋の部将・扶禁や向存らが、閬水をさかのぼった。1万余人で、霍峻を1年囲んだ。霍峻は数百人しかいないが、出撃して包囲軍をやぶった。霍峻は、向存を斬った。
法正外統都畿,內為謀主,一飧之德、睚眥之怨,無不報復,擅殺毀傷己者數人。
或謂諸葛亮曰:「法正太縱橫,將軍宜啟主公,抑其威福。」亮曰:「主公之在公安也,
北畏曹操之強,東憚孫權之逼,近則懼孫夫人生變於肘腋。法孝直為之輔翼,令翻然翱
翔,不可複製。如何禁止孝直,使不得少行其意邪!」
諸葛亮佐備治蜀,頗尚嚴峻,人多怨歎者。
法正謂亮曰:「昔高祖入關,約法三章,秦民知德。今君假借威力,跨據一
州,初有其國,未垂惠撫;且客主之義,宜相降下,願緩刑弛禁以慰其望。」亮曰:
「君知其一,未知其二。秦以無道,政苛民怨,匹夫大呼,天下土崩;高祖因之,可以
弘濟。劉璋闇弱,自焉已來,有累世之累,文法羈縻,互相承奉,德政不舉,威刑不肅。
蜀土人土,專權自恣,君臣之道,漸以陵替。寵之以位,位極則賤;順之以恩,恩竭則
慢。所以致敝,實由於此。吾今威之以法,法行則知恩;限之以爵,爵加則知榮。榮恩
並濟,上下有節,為治之要,於斯而著矣。」
法正は、劉備に信頼され、内外の政治を仕切った。わずかな怨みでも、かならず報復した。勝手に、殺人した。ある人が、諸葛亮に、法正をチクッた。諸葛亮は、答えた。
「劉備さまは公安にいる。曹操と孫権と、孫夫人の脅威は大きい。法正は、代替がきかない人材だ。少しくらい、目をつむるしかないのだ」
諸葛亮が蜀で、劉備を補佐するようになった。諸葛亮は、法律をきびしくした。法正は、諸葛亮にケチをつけた。「劉邦は、こんなに厳しくなかった」と。諸葛亮は法正に反論し、いまは厳罰でいいと説明した。
劉備以零陵蔣琬為廣都長。備嘗因游觀, 奄至廣都,見琬眾事不治,時又沉醉。備大怒,將加罪戮。諸葛亮請曰:「蔣琬社稷之 器,非百裡之才也。其為政以安民為本,不以修飾為先,願主公重加察之。」備雅敬亮, 乃不加罪,倉卒但免官而已。
零陵の蒋琬は、広都の県長になった。劉備がおとずれると、蒋琬は泥酔していた。劉備は怒り、蒋琬を殺そうとした。諸葛亮が、とりなした。「蒋琬は、たかが県を治める才能ではありません」
214年秋、曹操が孫権を撃ち、荀攸が死ぬ
秋,七月,魏公操擊孫權,留少子臨菑侯植守鄴。操為諸子高選官屬,以刑顒為植 家丞。顒防閒以禮,無所屈撓,由是不合。庶子劉楨美文辭,植親愛之。楨以書諫植曰: 「君侯采庶子之春華,忘家丞之秋實,為上招謗,其罪不小,愚實懼焉。」
214年秋、魏公の曹操は、孫権を撃った。曹植に、鄴を守らせた。曹操は曹植に、刑顒を家丞としてつけた。刑顒は、曹植と折り合わない。
庶子の劉楨は、文章が美しい。曹植は、劉楨を愛した。劉楨は、曹植を諌めた。「刑顒と仲よくしなければ、いけないよ」と。
魏尚書令荀攸卒。攸深密有智防,自從魏公操攻討,常謀謨帷幄,時人及子弟莫知 其所言。操嘗稱:「荀文若之進善,不進不休;荀公達之去惡,不去不止。」又稱: 「二荀令之論人,久而益信,吾沒世不忘。」
魏公の尚書令・荀攸が死んだ。荀攸の作戦は、子弟ですら、知らなかった。曹操はかつて、荀攸をほめた。
「荀彧は善をとことん進め、荀攸は悪をとことん去らせる」
goushuoujiさんにツイッターで教わりました。(引用はじめ)
「荀文若の善を進むる、進めずんば休(や)まず。荀公達の惡を去る、去らずんば止まず。」善を進めたり、悪をさったりするに当たって、妥協せずにとことんやり尽くすということじゃないかなと思います。(引用おわり)
また曹操は、荀攸をほめた。
「荀彧と荀攸の人物評は、時間がたつと、ますます信頼できるようになった。もし私が死んでも、忘れない」
214年冬、夏侯淵が宋建を、曹操が伏皇后を殺す
初,枹罕宋建因涼州亂,自號河首平漢王,改元,置百官,三十餘年。冬,十月, 魏公操使夏侯淵自興國討建,圍枹罕,拔之,斬建。淵別遣張郃等渡河,入小湟中,河 西諸羌皆降,隴右平。
はじめ枹罕の宋建は、涼州を乱して、みずから河首平漢王を名のった。改元し、百官を置いた。30余年、たもった。
214年冬10月、曹操は夏侯淵に命じ、興国から発し、宋建を斬らせた。夏侯淵は、張郃らに黄河を渡らせた。
小湟中に入った。西の諸羌は、みな張郃に降った。隴右は、平定された。
帝自都許以來,守位而已,左右侍衛莫非曹氏之人者。議郎趙彥嘗為帝陳言時策,
魏公操惡而殺之。操後以事入見殿中,帝不任其懼,因曰:「君若能相輔,則厚;不爾,
幸垂恩相捨。」操失色,俛仰求出。舊儀:三公領兵,朝見,令虎賁執刃挾之。操出,
顧左右,汗流浹背;自後不復朝請。
董承女為貴人,操誅承,求貴人殺之。帝以貴人有
妊,累為請,不能得。伏皇後由是懷懼,乃與父完書,言曹操殘逼之狀,令密圖之,完
不敢發。至是,事乃洩,操大怒,十一月,使御史大夫郗慮持節策收皇後璽綬,以尚書
令華歆為副,勒兵入宮,收後。後閉戶,藏壁中。歆壞戶發壁,就牽後出。時帝在外殿,
引慮於坐,後被發,徒跣,行泣,過訣曰:「不能復相活邪?」帝曰:「我亦不知命在
何時!」顧謂慮曰:「郗公,天下寧有是邪!」遂將後下暴室,以幽死;所生二皇子,
皆鴆殺之,兄弟及宗族死者百餘人。
献帝は許都に来てから、帝位にあるだけで、曹操の飾りだった。議郎の趙彥は、かつて曹操を殺す作戦をたてた。曹操は、朝臣の刀にさらされ、汗を流した。朝廷に出なくなった。
董承の娘は、献帝との子供がいたのに、曹操に殺された。伏完の娘は、曹操を殺そうとした。曹操に、漏れてしまった。
11月に曹操は、御史大夫の郗慮に、皇后の璽綬を回収させた。尚書令の華歆が、副官として回収にきた。郗慮と華歆は、伏皇后と2人の皇子を殺してしまった。伏氏は、百余人が殺された。
十二月,魏公操至孟津。
操以尚書郎高柔為理曹掾。舊法:軍征士亡,考竟其妻子。而亡者猶不息。操欲更
重其刑,並及父母、兄弟,柔啟曰:「士卒亡軍,誠在可疾,然竊聞基中時有悔者。愚
謂乃宜貸其妻子,一可使誘其還心。正如前科,固已絕其意望;而猥復重之,柔恐自今
在軍之士,見一人亡逃,誅將及己,亦且相隨而走,不可復得殺也。此重刑非所以止亡,
乃所以益走耳!」操曰:「善!」即止不殺。
214年12月、曹操は孟津にきた。
曹操は、尚書令の高柔を、理曹掾にした。曹操は、逃亡した兵士の家族を、罰そうとした。高柔は、これに反対した。曹操は、高柔を容れた。101109