164年2月、郭泰が後漢を見棄てた人脈を築く
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
164年2月、黄瓊の弔問客・徐稚
春,二月,丙戌,邟鄉忠侯黃瓊薨。將葬,四方遠近名士會者六七千人。
162年春2月丙戌、邟郷忠侯の黃瓊が薨じた。
ぼくは思う。黄瓊の死は、『資治通鑑』が、郭泰の話を始めるための、呼び水である。黄瓊は、梁冀の死後、政治改革を期待された、清い人のトップだ。この黄瓊が封じられたのが、潁川県。のちに潁川の人材が、曹操をたすけるが、その源流かも。
梁冀-黄瓊-桓帝(宦官)の変遷が、袁術や袁紹や曹操の対立構図に、持ち越される気がする。会社の食堂でそんなことを考えたが、まだ詰めてない。
黄瓊を葬るとき、四方遠近から、名士が6、7千人きた。
ぼくは補う。范曄と袁紀では、楊秉が太尉となるタイミングがちがう。范曄のいう太尉は、延熹4年まで黄瓊、延熹5年まで劉矩、延熹7年に楊秉。袁宏のいう太尉は、延熹7年まで黄瓊、延熹7から黄瓊。ぼくは思う。より細かいほうを正解とするなら、范曄で正解。范曄にしたがった、司馬光も正解。
はじめ黄瓊は家で、徐稚に大義を教えた。黄瓊がえらくなると、徐稚は黄瓊と交わらず。黄瓊が死ぬと、徐稚が泣きにきた。黄瓊の喪主は、徐稚を知らず。喪主は言った。「服のボロい書生が、泣きにきた。姓名を記さず、帰ってしまった」と。みな言った。「徐稚にちがいない」と。
喪主は、能言な人を選び、徐稚を追わせた。選ばれたのは、陳留の茅容だ。茅容は、輕騎で徐稚を追った。茅容は、みちで徐稚に追いついた。茅容は、酒肉を徐稚におごる。茅容は、国家と稼穡について、徐稚に問うた。徐稚は、こたえず。
茅容はもどり、喪客たちに言った。「孔子は言った。言えるのに、言わない人を、失人という。徐稚は、失人か」と。太原の郭泰は、反論した。「徐稚は、失人でない。徐稚の人となりは、清潔高廉だ。飢えても食わないし、寒くても着ない。だが、茅容がおごった酒肉に、徐稚はつきあった。茅容が賢いと、徐稚が見ぬいたからだ」
李膺から郭泰をへて、人脈が爆発
郭泰は博學で、談論がうまい。はじめ雒陽に遊学した。陳留の符融だけが、人目で郭泰を評価し、河南尹の李膺に紹介した。李膺は言った。「郭泰のような人は、初めてだ。郭泰は、聰識通朗で、高雅密博である。いまの後漢に、ない人材だ」と。李膺は、郭泰を友とした。郭泰は京師で、無名から、いっきに有名になった。
梁冀とも桓帝ともちがう、第三勢力だ。梁冀も桓帝も、後漢の体制内から、政治を動かそうとした。いま生まれた第三勢力は、後漢の体制外から、政治を動かそうとする。ここが、既存の2つとちがう。李膺が郭泰をコメントして、「今之華夏, 鮮見其儔」と言うくらいだから、まったく新規の勢力としていい。
のちに郭泰は、帰郷する。郭泰を見送る儒者は、車両が1000だ。李膺と郭泰は、おなじ舟に乗った。神仙のように見えた。
胡三省はいう。洛陽から太原にいくためには、黄河を渡って、西北にゆく。ぼくは思う。こういう冷静な解説が、とても重宝する。笑
郭泰は、人士を評価するのを好んだ。郡国をめぐった。郭泰は、茅容をほめた。
陳留申屠蟠,家貧,傭為漆工;鄢陵庾乘,少給事縣廷為門士;泰見而奇 之,其後皆為名士。自餘或出於屠沽、卒伍,因泰獎進成名者甚眾。
陳國童子魏昭請於泰曰:「經師易遇,人師難遭,願在左右,供給灑掃。」泰許之。 泰嘗不佳,命昭作粥,粥成,進泰,泰呵之曰:「為長者作粥,不加意敬,使不可食!」 以杯擲地。昭更為粥重進,泰復呵之。如此者三,昭姿容無變。泰乃曰:「吾始見子之 面,而今而後,知卿心耳!」遂友而善之。
巨鹿の孟敏、陳留の申屠蟠、陳國の童子・魏昭を、郭泰はほめた。
陳留の左原は、郭泰に諭された。
後漢の滅亡を見越し、就職しない郭泰
ある人が、范滂に聞いた。「郭泰は、どんな人か」と。范滂は答えた。「介推のように、隱不違親だ。柳下恵のように、貞不絕俗だ。天子は、郭泰を臣従させられない。諸侯は、郭泰と友人になれない。私は、これしか知らない」と。
范滂について、後日やりたいなあ。
徐稚以書戒之曰:「夫大木將顛,非一繩所維,何為 棲棲不遑寧處!」泰感寤曰:「謹拜斯言,以為師表。」
かつて郭泰は、有道だから推挙された。郭泰は就職せず。
ぼくは思う。鄧太后の存在感は、自分なりに史料を読んで、イメージしておきたい。鄧太后は、梁冀の姉・梁太后が、政治のモデルにしたっぽい。また、鄧太后が死んだから郭泰は、後漢の滅亡を予感した。
郭泰が121年に20歳だとすると、164年には63歳だ。かなり年上。
郭泰とおなじ太原の宋沖は、郭泰の德に服す。宋沖は、「郭泰は、漢代のはじめから、類例のない人材だ」とほめた。郭泰は言った。「星空を見ると、後漢はほろぶ。天がほろぼす王朝を、私は支えられない。私は後漢に就職しない。郡国をまわって死ぬんだ」と。そのくせ郭泰は、京師に出かけた。
徐稚は、郭泰を戒めた。「倒れる大木は、1本の縄だけで、支えるのでない。郭泰は遊んでないで、後漢を支えろ」と。郭泰は、徐稚の言葉に感寤した。「ははあ、おっしゃるとおりだ」と。
袁隗の婿になりたくて、名声を失った黄允
濟陰の黄允は、俊才で名を知られる。郭泰は、黄允に言った。「黄允は40歳で、名声を獲得した。だが自匡しないと、いまに名声を失うぞ」と。
のちに、司徒の袁隗は、從女を黄允に嫁がせた。袁隗は黄允に言った。「黄允のような婿がきたら、最高だ」と。黄允は、離婚した。黄允の妻は、大げさに離婚式をひらいた。黄允は、名声を失った。
ぼくは補う。袁隗が司徒をやるのは、172年12月から、176年10月。182年から、185年2月。どちらにせよ、郭泰のエピソードを集めたせいで、時系列がゴチャゴチャである。まだ『資治通鑑』は164年の記事である。
ぼくは思う。べつに黄允は、袁隗とつながろうとして、名声を失ったのではない。夏侯氏の妻に、怨まれたから、名声を失った。袁隗は、それほど悪くない。
はじめ黄允と、漢中の晉文經は、名声があった。洛陽にいるが、病気を理由に、面会しない。門番が、三公の使者から、ワイロを受けた。符融は李膺に言った。「黄允と晉文經の名声は、内容がないようだ」と。李膺は、そうだと言った。黄允と晉文經は、名声が衰えた。洛陽から逃げ出した。
仇香は、郭泰の友でなく、郭泰の師だ
陳留の仇香は、郷党に知られない。仇香は40歳で、蒲亭長をする。陳元という民の母が、仇香に訴えた。「うちの息子は、不孝だ」と。陳元は母に諭した。「陳元の家を見たが、家屋も耕地も、よく整っている。一時の不満だけで、息子を不孝と決めつけるな」と。仇香は陳元の家にゆき、仲直りさせた。陳元は、孝行した。
考城令する河內の王奐は、仇香を主簿にした。
王奐は、仇香のさばき(前述の孝行の話)を評価した。仇香は、王奐に援助され、太学に入った。郭泰と符融は、仇香に名刺をだし、仇香に泊めてもらった。郭泰はベッドの下で、仇香に言った。「仇香は、郭泰の師です。友ではない」と。
仇香は故郷に帰っても、地味に暮らして死んだ。
ぼくは思う。郭泰は、太学で活動してる。太学は、梁太后がつくった施設である。郭泰は、スネているくせに、ちゃんと後漢を利用している。笑
郭泰が、太学を基盤に、人脈を築いたならば。梁冀&梁太后を、完全には敵視しないはずだ。太学は、もともと鄧太后の政策だ。梁太后が、鄧太后を目指す範囲において、郭泰は後漢を支持したかもしれない。梁冀は、きらっただろうが。
164年の記事だか、郭泰の祭なのか、よく分からない状態でしたが。つぎ、164年の後半から、いつものペースにもどります。