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164年夏~、度尚が荊州を平らげ、桓帝がゆく

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

164年夏、度尚が蛮夷の珍宝を焼き、荊州平定

三月,癸亥,隕石於鄠。
夏,五月,己丑,京師雨雹。
荊州刺史度尚募諸蠻夷擊艾縣城,大破之,降者數萬人。桂陽宿賊卜陽、潘鴻等逃 入深山。尚窮追數百裡,破其三屯,多獲珍寶。陽、鴻黨眾猶盛,尚欲擊之,而士卒驕 富,莫有鬥志。尚計緩之則不戰,逼之必逃亡,乃宣言:「卜陽、潘鴻作賊十年,習於 攻守,今兵寡少,未易可進,當須諸郡所發悉至,乃並力攻之。」申令軍中恣聽射獵, 兵士喜悅,大小皆出。尚乃密使所親客潛焚其營,珍積皆盡。獵者來還,莫不潤涕。尚 人人慰勞,深自咎責,因曰:「卜陽等財寶足富數世,諸卿但不並力耳,所亡少少,何 足介意!」眾鹹憤踴。尚敕令秣馬蓐食,明旦,逕赴賊屯,陽、鴻等自以深固,不復設 備,吏士乘銳,遂破平之。尚出兵三年,群寇悉定,封右鄉侯。

164年3月癸亥、鄠に隕石した。

胡三省はいう。鄠は扶風郡である。

164年夏5月己丑、京師に雹がふる。
荊州刺史の度尚は、蠻夷をつかって、艾縣の城を破った。数万がくだった。桂陽の宿賊・卜陽と潘鴻らは、深い山に逃げこむ。度尚は数百里をおい、三屯を破った。珍宝を、おおく得た。宿賊はまだ盛んだが、士卒は珍宝に満足して、闘志がない。度尚は、士卒に言った。「宿賊は、10年も後漢に叛いている。いまは兵が少ない。宿賊には、勝てない。兵を集めてきてくれ」と。

胡三省はいう。宿賊とは、長らく賊をしていることを言う。
ぼくは補う。後漢は10年も、桂陽の賊を斬れずにいる。そして、いま度尚が連れているのは、蛮夷である。宿賊と蛮夷の区別なんて、つかない。遺伝子に、タグがついているわけじゃない。荊州南部の住人同士をたきつけ、殺し合わせるのが精一杯だ。

蛮夷たちは喜悦し、度尚のもとを出てゆく。度尚は、蛮夷が得た珍宝を燃やした。度尚は言った。「火の不始末は、謝ろう。だがもし宿賊を殺せば、もっと財宝が手に入る」と。翌日の朝、蛮夷は宿賊を平らげた。度尚は3年で、荊州をすべて平定した。度尚は、右郷里侯に封じられた。

蛮夷をつかって、宿賊を討つ。なんだかなあ。しかも、「明旦」に戦闘が終わってしまうという、蛮夷の浅はかさ。どうせ史家が、単純化したのだと思うが。
度尚が戦ったのは、「後漢の聖なる軍が、辺境の賊を討伐した」という構図でない。現地勢力の利害関係を、ちょっといじくっただけ。戦う動機も、兵力も、後漢のものでない。


164年10月、桓帝が荊州をめぐり、荒らす

冬,十月,壬寅,帝南巡;庚申,幸章陵;戊辰,幸雲夢,臨漢水,還,幸新野。 時公卿、貴戚車騎萬計,徵求費役,不可勝極。護駕從事桂陽胡騰上言:「天子無外, 乘輿所幸,即為京師。臣請以荊州刺史比司隸校尉,臣自同都官從事。」帝從之。自是 肅然,莫敢妄干擾郡縣。

164年冬10月壬寅、桓帝は南へゆく。10月庚申、章陵にきた。10月戊辰、雲夢で、漢水にのぞむ。もどり、新野にゆく。

ぼくは思う。とくに桓帝が南にゆく意図が、書かれていないが。度尚が荊州を平定したことを、桓帝は喜んだのだろう。ただ、長江のあたりに、いくはずもない。荊州の北辺を、ちょっと回るだけである。後漢にとって、「国内」たる荊州は、北辺だけである。

ときに公卿や貴戚がのる車騎は、1万をかぞえる。おおくの費用を、徴発した。護駕從事する桂陽の胡騰は、桓帝に願った。

胡三省はいう。護駕從事とは、おそらく荊州刺史の車駕をまもる役職だ。

「天子には、外がない。天子がいる場所が、京師となる。荊州刺史の職務を、司隷校尉と同じにしてください。私は、都官從事と同じ職務をします」と。桓帝は、認めた。肅然となり、郡県で、ムチャな徴発はやんだ。

胡三省はいう。『公羊伝』はいう。王者に外なしと。
胡三省はいう。荊州刺史は、司隷校尉と同じ権限を、手に入れた。扈従の臣(桓帝にへばりついて、荊州に負担を強いる奴ら)を、取り締まれた。だから、粛然とした。


帝在南陽,左右並通姦利,詔書多除人為郎,太尉楊秉上疏曰: 「太微積星,名為郎位,入奉宿衛,出牧百姓,宜割不忍之恩,以斷求欲之路。」於是 詔除乃止。
護羌校尉段熲擊當煎羌,破之。

桓帝は、南陽にきた。宦官は利益をむさぼる。おおくの人を、郎に任命した。太尉の楊秉が、上疏した。「でたらめな任命は、やめなさい」と。桓帝は、任命をやめた。
護羌校尉の段熲は、當煎羌を破った。

164年12月、宦官が、建国の臣・寇氏を陥とす

十二月,辛丑,車駕還宮。
中常侍汝陽侯唐衡、武原侯徐璜皆卒。
初,侍中寇榮,恂之曾孫也,性矜潔,少所與,以此為權寵所疾。榮從兄子尚帝妹 益陽長公主,帝又納其從孫女於後宮。左右益忌之,遂共陷以罪,與宗族免歸故郡,吏 承望風旨,持之浸急。榮恐不免,詣闕自論。未至,刺史張敬追劾榮以擅去邊,有詔捕 之。

164年12月辛丑、桓帝は荊州から洛陽にもどる。
中常侍する汝陽侯の唐衡と、武原侯の徐璜が死んだ。

胡三省はいう。汝陽県は、汝南郡だ。武原県は、彭城国だ。ぼくは思う。宦官の封地は、故郷のそばだろうか。どういう基準で、土地が割りふられるのだろう。
以下、宦官にまつわるエピソードが始まります。

侍中の寇栄は、寇恂の曾孫である。

ぼくは補う。寇恂は、光武帝の重臣。王郎の討伐に、功績あり。

寇栄は、性質が矜潔だから、宦官から、にくまれた。寇栄の從兄子は、桓帝の妹・益陽長公主をめとる。また桓帝は、寇栄の從孫女を、後宮にいれた。
宦官は、寇栄を罪に陥れた。寇栄は宗族とともに、故郷に帰った。地元の役人は、寇栄を捕えたい。寇栄が申し開きをする前に、幽州刺史の張敬は、寇栄を捕まえた。「寇栄は、勝手に辺境に逃げようとした」という罪だ。

寇栄は、幽州の上谷郡、昌平県の人だ。
ぼくは補う。光武帝は、河北に乗りこんで、更始帝から独立した。寇栄の祖先は、その光武帝に兵力を与えた人である。故郷が、幽州なのは、そのつながりだ。


榮逃竄數年,會赦,不得除,積窮困,乃自亡命中上書曰:「陛下統天理物,作民 父母,自生齒以上,鹹蒙德澤;而臣兄弟獨以無辜,為專權之臣所見批抵,青蠅之人所 共構會,令陛下忽慈母之仁,發投杼之怒。殘諂之吏,張設機網,並驅爭先,若赴仇敵, 罰及死沒,髡剔墳墓,欲使嚴朝必加濫罰;是以不敢觸突天威而自竄山林,以俟陛下發 神聖之聽,啟獨睹之明,救可濟之人,援沒溺之命。不意滯怒不為春夏息,淹恚不為歲 時怠,遂馳使郵驛,佈告遠近,嚴文克剝,痛於霜雪,遂臣者窮人途,追臣者極車軌。 雖楚購伍員,漢求季布,無以過也。臣遇罰以來,三赦再贖,無驗之罪,足以蠲除;而 陛下疾臣愈深,有司咎臣甫力,止則見掃滅,行則為亡虜,苟生則為窮人,極死則為冤 鬼,天廣而無以自覆,地厚而無以自載,蹈陸土而有沉淪之憂,遠巖牆而有鎮壓之患。 如臣犯元惡大憝,足以陳原野,備刀鋸,陛下當班布臣之所坐,以解眾論之疑。臣思入 國門,坐於肺石之上,使三槐九棘平臣之罪,而閶闔九重,陷阱步設,舉趾觸罘罝,動 行絓羅網,無緣至萬乘之前,永無見信之期。悲夫,久生亦復何聊!蓋忠臣殺身以解君 怒,孝子殞命以寧親怨,故大舜不避塗廩、浚井之難,申生不辭姬氏讒邪之謗;臣敢忘 斯義,不自斃以解明朝之忿哉!乞以身塞責,願陛下□亡兄弟死命,使臣一門頗有遺類, 以崇陛下寬饒之惠。先死陳情,臨章泣血!」 帝省章愈怒,遂誅榮,寇氏由是衰廢。

寇栄は数年にげた。逃げ切れないと思い、亡命したまま、上書した。「私は罪がないのに、宦官が私を陥れました。証拠もない。桓帝は、適正な裁判をしてください」と。桓帝は、いよいよ怒った。寇氏は、こうして衰えた。101207

ぼくは思う。分かりにくい事件ですが。はじめ宦官は、寇栄をおもんじた。途中から、寇栄をにくんでいる。宦官が、桓帝と寇栄を、わざと対立させたか。後漢の建国をささえた家が、衰える。後漢にとって、有利なことだとは思えませんが。
後漢ありきの宦官が、後漢を滅ぼすようなこと、するのか。近視的に動いているのか。あとで出てくるが、桓帝は老荘にハマる。後漢の永続を、それほど願っていないようにも、見える。その桓帝の意思を、宦官が先回りして、実現したのか。
まだ、わかりません。『資治通鑑』の先を、読んでみる必要がある。