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145年、質帝が即位、滕撫が徐揚平定

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

145年正月、一瞬で沖帝が崩御した

孝順皇帝下永嘉元年(乙酉,公元一四五年) 春,正月,戊戌,帝崩於玉堂前殿。

145年春正月戊戌、沖帝・劉炳は、玉堂前殿で死んだ。

胡三省はいう。3歳だった。沖帝という。『諡法』では、幼少で在位することを、沖という。司馬彪はいう。沖幼で早く夭したら、沖とおくり名する。


145年正月、梁冀が8歳の質帝をえらぶ

梁太后以揚、徐盜賊方盛,欲須所征諸王侯到 乃發喪。太尉李固曰:「帝雖幼少,猶天下之父。今日崩亡,人神感動,豈有人子反共 掩匿乎!昔秦皇沙丘之謀及近日北鄉之事,皆秘不發喪,此天下大忌,不可之甚者也!」太后從之,即暮發喪。

梁太后は、揚州と徐州で盜賊が盛んだから、諸王侯が来てから、劉炳の喪を発しようと考えた。太尉の李固が、反対した。「始皇帝と安帝のとき、皇帝の死をかくし、ろくでもなかった」と。太后は李固をみとめ、その日の夕方に喪を発した。

胡三省はいう。始皇帝は『資治通鑑』7巻だ。安帝のことは、延光四年だ。
ぼくは思う。後漢の安帝が死んだとき、これを隠したことは、始皇帝とならべて、認識されていたんだ。李固の発言でわかる。


征清河王蒜及渤海孝王鴻之子纘皆至京師。蒜父曰清河恭王延平; 延平及鴻皆樂安夷王寵之子,千乘貞王伉之孫也。清河王為人嚴重,動止有法度,公卿 皆歸心焉。

2人の皇族が、京師にきた。清河王の劉蒜と、渤海孝王だった劉鴻の子・劉纘だ。劉蒜の父は、清河恭王の劉延平だ。劉延平と、劉鴻は、どちらも樂安夷王だった劉寵の子だ。千乘貞王だった劉伉の孫である。

以前に、列伝をひきました。胡三省を引用するのがしんどい。こちらを、ご参照ください。ちょっと、長いですが。後漢の「御三家」、章帝八王

清河王の人となりは、嚴重だ。清河王の動止には、法度がある。みな公卿は、清河王に心をよせた。

李固謂大將軍冀曰:「今當立帝,宜擇長年,高明有德,任親政事者,願將 軍審詳大計,察周、霍之立文、宣,戒鄧、閻之利幼弱!」冀不從,與太后定策禁中。 丙辰,冀持節以王青蓋車迎纘入南宮。丁巳,封為建平侯。其日,即皇帝位,年八歲。 蒜罷歸國。

李固は、大将軍の梁冀に言った。「皇帝には、年長者がいい。前漢で、周勃が文帝を、霍光が宣帝を立てた故事に、ならうべきだ。後漢で、鄧氏や閻氏が幼い皇帝を立てた前例はいけない」と。梁冀は、李固をきかず。梁冀は禁中で、梁太后と相談した。
正月丙辰、梁冀は持節して、青蓋車で劉纘を南宮にむかえた。正月丁巳、劉纘を建平侯とした。その日のうちに、劉纘は即位した。皇帝の劉纘は、8歳だ。劉蒜は用なしだ。清河国にかえった。

145年正月、李固の執政を梁太后が後援

將卜山陵,李固曰:「今處處寇賊,軍興費廣,新創憲陵,賦發非一。帝尚幼小, 可起陵於憲陵塋內,依康陵制度。」太后從之。己未,葬孝沖皇帝於懷陵。

李固は言った。「盗賊のため、軍費がかさんでいます。沖帝のため、陵墓を新設するお金がありません。殤帝の陵墓に、セットで葬りたい」と。梁太后はみとめた。正月己未、沖帝を懐陵に葬った。

もし沖帝が梁太后の実子だったら、セット葬を認めたかなあ。


太后委政宰輔,李固所言,太后多從之,黃門宦官為惡者一皆斥遣,天下鹹望治平。 而梁冀深忌疾之。
初,順帝時所除官多不以次;及固在事,奏免百餘人。此等既怨,又 希望冀旨,遂共作飛章誣奏固曰:「太尉李固,因公假私,依正行邪,離間近戚,自隆 支黨。大行在殯,路人掩涕,固獨胡粉飾貌,搔頭弄姿,槃旋偃仰,從容治步,曾無慘 怛傷悴之心。山陵未成,違矯舊政,善則稱己,過則歸君;斥逐近臣,不得侍送。作威 作福,莫固之甚矣!夫子罪莫大於累父,臣惡莫深於毀君,固之過釁,事合誅辟。」書 奏,冀以白太后,使下其書;太后不聽。

太后は、ほぼ李固に従った。李固は、黄門宦官の悪者をのぞいた。天下は、治平した。梁冀は、李固を忌んだ。はじめ順帝のとき、李固は100余人を人員整理した。クビになった人が梁冀とむすび、ウソで李固を告発した。「李固は、おしろいと髪飾をつけ、わるい男です」と。

李固のメイクについて、胡三省が注釈してますね。

梁冀は、梁太后に告発を見せた。梁太后は、きかず。

廣陵賊張嬰復聚眾數千人反,據廣陵。

広陵の賊・張嬰が、ふたたび数千で反した。広陵による。

ぼくは補う。張嬰とは、142年9月、張綱に説得された人だ。
後漢の張綱と、孫呉の張紘は、たまたま日本語で同音だ。まったくコジツケだが。徐州や揚州の盗賊が、中央の官吏1人の説得で、コロッと臣従することがある。張紘が目指したのは、こういう役目じゃないか。


145年2月、隴右の平定、滕撫の登場

二月,乙酉,赦天下。
西羌叛亂積年,費用八十餘億。諸將多斷盜牢稟,私自潤入,皆以珍寶貨賂左右。 上下放縱,不恤軍事,士卒不得其死者,白骨相望於野。左馮翊梁並以恩信招誘叛羌; 離湳、狐奴等五萬餘戶皆詣並降,隴右復平。

145年2月乙酉、天下を赦した。
西羌が反して数年。費用は80余億だ。諸将は公庫から、食糧を盗む。珍宝を取引する。軍事に熱心でない。兵士の白骨が、原野をおおう。
左馮翊の梁並は、羌族をさそう。離湳や狐奴ら5万余戸が、梁並に降る。隴右は、ふたたび平らか。

太后以徐、揚盜賊益熾,博求將帥。三公舉涿令北海滕撫有文武才;詔拜撫九江都 尉,與中郎將趙序助馮緄,合州郡兵數萬人共討之。又廣開賞募,錢、邑各有差。又議 遣太尉李固,未及行。

太后は、徐州と揚州の盗賊がさかんだから、将帥をもとめた。三公は、涿令する北海の滕撫をあげた。滕撫を、九江都尉にした。中郎將の趙序とともに、馮緄を助けた。数万の兵を、懸賞でつって、徐州と揚州にゆかせた。太尉の李固を、出陣させるのは、やめた。

どうせ梁冀が、李固に恥をかかせるため、仕組んだのだ。笑


145年夏、徐州と揚州の平定

三月,撫等進擊眾賊,大破之,斬馬勉、范容、周生等千五百級。 徐鳳以餘眾燒東城縣。
夏,五月,下邳人謝安應募,率其宗親設伏擊鳳,斬之。封安為 平鄉侯。拜滕撫中郎將,督揚、徐二州事。

145年3月、滕撫はすすみ、馬勉、范容、周生ら1千5百級を斬った。徐鳳は、東城県を焼いた。

胡三省はいう。東城県は、九江郡に属す。ぼくは補う。魯粛の故郷? 魯粛の故郷は徐州だが、九江郡に属した時期もある、境界の土地とか。ちがうか。同名なだけで。

夏5月、下邳の謝安が応募し、宗親をひきいて、徐鳳を斬った。謝安を平鄉侯に封じた。滕撫は中郎將となり、揚徐2州の事を督した。

まさか都督制とは、呼べなかろうが。滕撫、すごいなあ。


丙辰,詔曰:「孝殤皇帝即位逾年,君臣禮成。孝安皇帝承襲統業,而前世遂令恭 陵在康陵之上,先後相逾,失其次序。今其正之!」 六月,鮮卑寇代郡。

5月丙辰、詔した。「安帝は殤帝から嗣いだくせに、安帝の陵墓が上にある。順序を直せ」と。

殤帝と沖帝がセットで葬られたことに、関係するか?

6月、鮮卑が代郡を寇した。

145年秋冬、廬江と歴陽の反乱、滕撫が鎮定

秋,廬江盜賊攻尋陽,又攻盱台。滕撫遣司馬王章擊破之。

145年秋、廬江の盗賊が、尋陽と盱台を攻めた。

胡三省はいう。尋陽県は、廬江郡に属す。班固『漢書』注の『禹貢』はいう。九江は南にあり、東は長江に合わさると。いま尋陽県を見ると、長江の北だ。尋水の陽(北)だ。孫呉は蘄春郡をたてた。尋陽県を、蘄春郡に属させた。
蘄春県は、後漢の江夏郡に属す。唐代の蘄州に属す。『元豊九域志』はいう。蘄州の東南は、江州まで240里。江州に、尋陽の名がついた。芝氏が、尋陽太守を柴桑に置いたから。ここにおいて江南の尋陽は使われ、江北の尋陽は消えた。
胡三省はいう。盱台県は、下邳国に属す。音はクイだ。
ぼくは補う。孫権の活動エリアと重なるから、長々と引用してしまった。

滕撫は、司馬の王章に命じ、廬江の賊を破らせた。

九月,庚戌,太傅趙峻薨。
滕撫進擊張嬰;冬,十一月,丙午,破嬰,斬獲千餘人。丁未,中郎將趙序坐畏懦、 詐增首級,棄市。

9月庚戌、太傅の趙峻が薨じた。
滕撫はすすみ、張嬰を撃った。冬11月丙午、滕撫は、張嬰を破った。1千余人を斬獲した。11月丁未、中郎將の趙序は、臆病を咎められるので、首級を水増した。趙序は、棄市された。

「坐畏懦」なんて刑罰の科目が、あったんだなあ。
【追記】T_S氏はいう。(引用はじめ)「中郎將趙序坐畏懦、詐增首級」で一まとまりで、これを理由に「棄市」されたんだと思います。「「敵を前にして臆病で、首級を水増しした」という罪状で処刑された」ということかと。(引用おわり)


歷陽賊華孟自稱黑帝,攻殺九江太守楊岑。滕撫進擊,破之,斬孟等三千八百級, 虜獲七百餘人。於是東南悉平,振旅而還。以撫為左馮翊。

歷陽の賊・華孟は、みずから黑帝を称した。九江太守の楊岑を殺した。滕撫はすすみ、華孟ら3800級を斬った。七百余人を捕えた。ここにおいて、東南はすべて平定された。滕撫はもどり、左馮翊となった。

145年、巴郡の天王、梁冀と李固の対立

永昌太守劉君世,鑄黃金為文蛇,以獻大將軍冀;益州刺史種暠糾發逮捕,馳傳上 言。冀由是恨暠。會巴郡人服直聚黨數百人,自稱天王,暠與太守應承討捕,不克,吏 民多被傷害;冀因此陷之,傳逮暠、承。

永昌太守の劉君世は、黄金のヘビを梁冀に献じた。益州刺史の種暠は、このワイロを糾弾した。梁冀は、種暠をうらんだ。
たまたま巴郡の服直が、数百人をあつめ、天王を名のった。

胡三省はいう。漢の江夏太守に、服徹という人がいる。
ぼくは思う。巴郡あたりで、天王を自称するのは、劉焉の独創ではない。長江流域の盗賊が出るように。順帝や質帝のころから、三国に分裂する土壌は、あった。

種暠は、巴郡太守の應承ともに、服直に敗れた。戦死者を出した。梁冀は、種暠と應承を逮捕した。

李固上疏曰:「臣伏聞討捕所傷,本非暠、承 之意,實由縣吏懼法畏罪,迫逐深苦,致此不詳。比盜賊群起,處處未絕。暠、承以首 舉大奸而相隨受罪,臣恐沮傷州縣糾發之意,更共飾匿,莫復盡心!」太后省奏,乃赦 暠、承罪,免官而已。

李固は上疏した。「敗戦の原因は、県吏が法を懼れ、ムリな用兵をしたからだ。種暠と應承の責任は、詳らかでない。種暠と應承を陥れたら、かえって益州の士気が落ちないか」と。
梁太后は、種暠と應承とゆるしたが、免官した。

金蛇輸司農,冀從大司農杜喬借觀之,喬不肯與;冀小女死,令 公卿會喪,喬獨不往,冀由是銜之。

黄金のヘビは、司農に運ばれた。

胡三省はいう。大司農は、銭や穀物、金帛をつかさどる。だから大司農に、黄金のヘビが運ばれた。『考異』は種暠伝をひく。二府はおびえ、あえてヘビに手を出さなかったと。いま『資治通鑑』は、杜喬伝にあわせた。

梁冀は、大司農の杜喬から、ヘビを借りて見た。杜喬は梁冀に、ヘビを与えず。
梁冀の幼い娘が死んだ。杜喬だけ、参列せず。梁冀は、杜喬をうらんだ。101128

胡三省はいう。梁冀が杜喬をころす、原因である。