116-119年、羌族の叛乱が鎮まる
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
116年、蒼梧、郁林、合浦の蠻夷がそむく
春,正月,蒼梧、郁林、合浦蠻夷反;二月,遣侍御史任逴督州郡兵討之。 郡國十地震。 三月,辛亥,日有食之。 夏,四月,京師旱。 五月,武陵蠻反,州郡討破之。 癸酉,度遼將軍鄧遵率南單于擊零昌於靈州,斬首八百餘級。 越巂徼外夷舉種內屬。 六月,中郎將任尚遣兵擊破先零羌於丁奚城。
116年春正月、蒼梧、郁林、合浦の蠻夷が反した。2月、侍御史の任逴は、州郡の兵で蛮夷を討つ。 郡國10で地震あり。
3月辛亥、日食した。
116年夏4月、京師で日照。
5月、武陵蠻が反し、破った。5月癸酉、度遼將軍の鄧遵は、南單于をひきい、零昌羌を靈州で破る。斬首800余級。
越巂の徼外にいる夷が、種族をあげて內屬した。
6月、中郎將の任尚は、先零羌を丁奚城で破る。
116年秋7月、ふたたび武陵蠻が反す。州郡は平定した。9月、馮翊の北界に、候塢500をつくり、羌族に備えた。
116年冬11月、蒼梧、郁林、合浦の蠻夷が、降った。司徒の劉愷は、「公卿、二千石、刺史に、三年喪を行わせよ。風俗を宣美せよ」と言う。11月丙戌、はじめて大臣に、三年喪を許した。
11月癸卯、郡國9で地震あり。
12月丁巳、任尚は羌の零昌を、北地で破る。零昌の妻子を殺し、廬落を焼き、斬首7百餘級。
117年、天子の子・零昌を刺殺、羌族を鎮定
春,二月,乙巳朔,日有食之。 乙卯,赦天下。 壬戌,武庫災。 任尚遣當闐種羌榆鬼等刺殺杜季貢,封榆鬼為破羌侯。 司空袁敞,廉勁不阿權貴,失鄧氏旨。尚書郎張俊有私書與敞子俊,怨家封上之。 夏,四月,戊申,敞坐策免,自殺;俊等下獄當死。俊上書自訟;臨刑,太后詔以減死 論。 己巳,遼西鮮卑連休等入寇,郡兵與烏桓大人於秩居等共擊,大破之,斬首千三百 級。 六月,戊辰,三郡雨雹。 尹就坐不能定益州,征抵罪;以益州刺史張喬領其軍屯,招誘叛羌,稍稍降散。
117年春2月乙巳ついたち、日食あり。
2月乙卯、天下を赦した。
2月壬戌、武庫が災えた。任尚は、當闐種羌の榆鬼らに、杜季貢を刺殺させた。榆鬼を破羌侯に封じた。
司空の袁敞は廉勁で、權貴におもねらない。鄧氏の意思をそこねた。尚書郎の張俊は、袁敞の子・袁俊に、プライベートな手紙を送った。袁敞は怨まれ、この手紙をチクられた。117年夏4月戊申、袁敞は罪をうけ、自殺した。袁俊らは下獄され、死刑にあう。袁俊は上書して、釈明した。太后は、袁俊の死刑をやめた。
列伝35「袁安伝」を読む 3)実はダークだった名家
列伝で、袁敞の子は、袁俊でなく袁盱だ。張俊と混同した?(ぼくが)
この袁盱は、のちに梁冀とも対立する。袁盱の兄は袁京で、袁京の子が袁湯(袁術の祖父)だ。こちらは、梁冀に近づいた。袁安の子の代で、すでに袁氏が巨大となり、分裂する。兄弟の対立は、お家芸である。
117年4月己巳、遼西の鮮卑が入寇した。郡兵と烏桓が破り、斬首1千3百級。
6月戊辰、3郡で雹がふる。尹就は、益州を定められないから、罪をうけた。益州刺史の張喬は、軍屯をつぎ、叛羌を誘った。羌族は降散した。
117年秋7月、京師および郡國10で雨水あり。
9月、護羌校尉の任尚は、ふたたび效功種の羌族をつのり、零昌を刺殺した。效功種を、羌王とした。
117年冬11月己卯、彭城靖王の劉恭が薨じた。
越巂の夷は、郡県の課税がおおいから、12月に大牛種らが反した。遂久(越巂)の県令を殺した。
12月甲子、任尚と、騎都尉の馬賢は、ともに先零羌を、北地に追う。60余日も対峙して、斬首すること、5千級。西河の虔人種の羌族が、1万人で鄧遵に降る。隴右は平らいだ。
ぼくは思う。べつに羌族は、怨恨があって、後漢と戦うのでない。その場での利益を最大化するように、動くだけ。生活のためにね。あんまり「異民族」と、連呼するのも、よくないなあ。「益州の人と、冀州の人」というくらいの感覚で、「漢族と、虔人種の羌」と捕えないと、現実を見誤る。国民国家のワナだ。
この117年、郡國13で地震あり。
118年、羌族が瓦解し、鄧遵が任尚を陥れる
春,三月,京師及郡國五旱。 夏,六月,高句驪與濊貊寇玄菟。 永昌、益州、蜀郡夷皆叛應封離,眾至十餘萬,破壞二十餘縣,殺長吏,焚掠百姓, 骸骨委積,千里無人。
118年春3月、京師および郡國5で日照。
夏6月、高句驪と濊貊は、玄菟を寇した。
永昌、益州、蜀郡の夷は、みな封離に応じた。夷族は、10余万。20余県を破壞し、長吏を殺し、百姓を焚掠した。骸骨は委積し、千里に人なし。
118年秋8月丙申ついたち、日食した。
代郡の鮮卑が、長史を殺した。後漢は、黎陽の營兵を、上谷にうつして備える。118年冬10月、鮮卑は上谷を寇し、居庸關を攻めた。ふたたび後漢は,射士や步騎2萬人で備える。
鄧遵は、上郡の全無種に羌族をつかい、反した羌族を刺殺した。羌族は10余年も反しつづけ、軍旅の費用は、240余億だ。并州と涼州は、人口が虛耗した。羌族のリーダー(零昌と狼莫)が、いま死んで、羌族は瓦解した。三輔や益州は、寇されず。鄧遵を武陽侯とし、邑3戶。鄧遵は、鄧太后の從弟だから、爵封は優大だ。
任尚と鄧遵は、軍功を競った。任尚は、斬った首級をみず増し、ワイロを受けたんで、12月に棄市され、財物を没収された。鄧騭の子・侍中の鄧鳳は、かつて任尚から馬をもらった。鄧隲の妻と鄧鳳の髪をそり、謝罪した。
この118年、郡國14で地震あり。
鄧太后の弟・鄧悝と鄧閶が、死んだ。子を、葉(城陽)侯と西華(汝南)侯に封じた。
119年、鄧太后が、劉氏と鄧氏に教育する
春,二月,乙巳,京師及郡國四十二地震。 夏,四月,沛國、勃海大風,雨雹。 五月,京師旱。 六月,丙戌,平原哀王得薨,無子。
秋,七月,鮮卑寇馬城塞,殺長吏,度遼將軍鄧遵及中郎將馬續率南單于追擊,大 破之。 九月,癸巳,陳懷王竦薨,無子,國除。 冬,十二月,戊午朔,日有食之,既。 郡國八地震。
119年春2月乙巳、京師および郡國42で地震あり。
夏4月、沛國と勃海で、大風、雨雹あり。
5月、京師は日照。
6月丙戌、平原哀王の劉得が薨じた。子なし。
119年秋7月、鮮卑が馬城(代郡)塞を寇し、長吏を殺した。度遼將軍の鄧遵および、中郎將の馬續は、南単于をひきいて追撃し、鮮卑を大破した。
9月癸巳、陳懷王の劉竦が薨じた。子なく、国を除く。
119年冬12月戊午ついたち、日食し、既。郡國8で地震あり。
この119年、太后は、和帝の弟・濟北王の劉壽、河間王・劉開の男女のうち、5歳以上の40余人をあつめた。鄧氏の近親の 子孫、30余人をあつめた。邸第をつくり、經書を教學した。みずから鄧太后が、監試した。
鄧太后は、從兄の河南尹・鄧豹と、越騎校尉の鄧康らに言った。「末世になると、貴戚・食祿の家では、衣服も食事も馬車も、良いものを使う。学習せず、ものの善悪が分からなくなる。これは、禍敗が起こる原因だ」
四方の異民族の動きを見れば、この認識に賛同できるなあ。
益州刺史張喬遣從事楊竦將兵至楪榆,擊封離等,大破之,斬首三萬餘級,獲生口 千五百人。封離等惶怖,斬其同謀渠帥,詣竦乞降。竦厚加慰納,其餘三十六種皆來降 附。竦因奏長吏奸猾,侵犯蠻夷者九十人,皆減死論。
豫章に芝草が生えた。豫章太守の劉祗は、芝草を、鄧太后に提出したい。郡人の唐檀が、「外戚が豪盛で、君道が微弱な証だ。どうして芝草が、嘉瑞か」と言った。劉祗は、提出をやめた。
益州刺史の張喬が命じ、從事の楊竦は楪榆(益州郡)で、封離を降した。楊竦は、蛮夷を侵犯した長吏90人をとらえ、死刑を減じた。
はじめ(107年)、西域と後漢が、途絶えた。いま北匈奴が、盛り返してきた。敦煌太守の曹宗は、これを患う。曹宗は、行長史の索班に1千余人をつけ、伊吾に西域を招撫させた。車師前王と、鄯善王が、ふたたび後漢に降った。
ぼくは思う。西域へ、10年ぶりに手を出した。羌族の叛乱が、いかに後漢を忙殺したかが分かる。ふたたび後漢は、国力を回復しつつある。
はじめ疏勒王が死んだ。子がないので、月氏と縁のある王が立つ。疏勒は強まり、龜茲や於窴と、対等な国になった。101229