表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

210年、曹操が江湖の自立を追認

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

210年春、唯才のみ、これを挙げよ!

春,下令曰:「孟公綽為趙、魏老則優,不可以為滕、薛大夫。若必廉士而後可用, 則齊桓其何以霸世!二三子其佐我明揚仄陋,唯才是舉,吾得而用之!
二月,乙巳朔,日有食之。

210年春、曹操は命令した。
「ただ才能のみで、人材をもちいる」
210年2月、乙巳ついたち、日食した。

210年冬、曹操が銅爵台で、素志を告白

冬,曹操作銅爵台於鄴。
十二月,己亥,操下令曰:「孤始舉孝廉,自以本非巖穴知名之士,恐為世人之所 凡愚,欲好作政教以立名譽,故在濟南,除殘去穢,平心選舉。以是為強豪所忿,恐致 家禍,故以病還鄉里。時年紀尚少,乃於譙東五十裡築精舍,欲秋夏讀書,冬春射獵, 為二十年規,待天下清乃出仕耳。然不能得如意,征為典軍校尉,意遂更欲為國家討賊 立功,使題墓道言『漢故征西將軍曹侯之墓』,此其志也。

210年冬、曹操は鄴に、銅爵台をつくった。
12月己亥、曹操は令をくだした。
「私が孝廉にあがったとき、名を知られていなかった。だから済南相となり、邪教をつぶし、公正な人事をこころがけた。宋皇后に連座して、故郷にこもった。秋夏は読書し、冬春は狩猟した。世が清まり、ふたたび出仕する機会を待った。典軍校尉になった。私は後漢の敵を攻めて、功績をあげ、『漢のもと征西將軍、曹侯の墓』と墓に書いてもらうのが、当初の志だった。

『魏武故事』の要約版です。司馬光が、どこを採用し、どこを省略しているか、付き合わせるだけでも、楽しそうだ。
ここまでは、後漢が安定する前提。以後、現実に沿って、曹操は志を軌道修正した。軌道修正の直接の原因が、董卓である。曹操の認識では、董卓のせいで後漢は傾きはじめた。
後年の話まで、先取りすれば。曹氏は、董卓のせいで、後漢から禅譲を受けるハメになった。悪いのは、董卓ですよ、と云い続けている気がする。


而遭值董卓之難,興舉義兵。 後領兗州,破降黃巾三十萬眾;又討擊袁術,使窮沮而死;摧破袁紹,梟其二子;復定 劉表,遂平天下。身為宰相,人臣之貴已極,意望已過矣。設使國家無有孤,不知當幾 人稱帝,幾人稱王!或者人見孤強盛,又性不信天命,恐妄相忖度,言有不遜之志,每 用耿耿,故為諸君陳道此言,皆肝鬲之要也。然欲孤便爾委捐所典兵眾以還執事,歸就 武平侯國,實不可也。何者?誠恐己離兵為人所禍,既為子孫計,又己敗則國家傾危, 是以不得慕虛名而處實禍也!然兼封四縣,食戶三萬,何德堪之!江湖未靜,不可讓位; 至於邑土,可得而辭。今上還陽夏、柘、苦三縣,戶二萬,但食武平萬戶,且以分損謗 議,少減孤之責也!」

しかし。董卓が世を乱したので、私は挙兵した。兗州で、黄巾30万を降した。袁術を追いつめて死なせた。袁紹をやぶり、袁紹の2子を殺した。劉表を平定し、ついに天下を平らげた。

裴注曹操の「公式見解」では、天下の平定は終わっている。208年の赤壁撤退、209年の江陵陥落、劉備と孫権への官位授与。この流れを、曹操の朝廷がどう見ていたか、しっかり考えるべきだ。
名目はもちろん、実態もまた、孫権と劉備は、曹操から任命されたという正統性においてのみ、長江流域を占領していたような気がしてきた。後日考察。

私は宰相となり、最高位だ。すでに当初の志を越え、満足した。しかし長江や洞庭湖のあたりが、いまだ鎮まっていない。だから私は、引退ができない。ただし食邑の返上ならば、できる。私へのとがめを、軽減しよう」

後半を読むと、さっきの「天下を平らげた」は、「公式見解」ではないことが分かる。曹操は、孫権や劉備が、いまいち「静」でないと、認めている。曹操の認識、朝廷の見解、考えてみる余地がある。のちに三国が割拠する、膠着の始まりだから。
途中から、矛盾はしないものの、煮え切らなくなる。のちに曹操や曹丕は、禅譲について悩む。曹魏がかかえる正統の問題も、すでにこの文に凝縮されている。


210年、劉備が孫権と面会し、荊州を督す

劉表故吏士多歸劉備,備以周瑜所給地少,不足以容其眾,乃自詣京見孫權,求都 督荊州。瑜上疏於權曰:「劉備以梟雄之姿,而有關羽、張飛熊虎之將,必非久屈為人 用者。愚謂大計宜徙備置吳,盛為築宮室,多其美女玩好,以娛其耳目;分此二人各置 一方,使如瑜者得挾與攻戰,大事可定也。今猥割土地以資業之,聚此三人俱在疆場, 恐蛟龍得雲雨,終非池中物也。」呂范亦勸留之。權以曹操在北,方當廣攬英雄,不從。 備還公安,久乃聞之,歎曰:「天下智謀之士,所見略同。時孔明諫孤莫行,其意亦慮 此也。孤方危急,不得不往,此誠險塗,殆不免周瑜之手!」

劉表の故吏は、おおく劉備に帰した。劉備は、周瑜にもらった土地が小さいから、人数を養えない。劉備は京にゆき、孫権へ「私に、荊州を督させてくれ」と頼みにいった。
周瑜は、孫権に上疏した。
「劉備は梟雄です。関羽と張飛は、強い。ながくは、孫権さんに屈さない奴らです。劉備を呉郡におき、宮室と美女を与えましょう。私が関羽と張飛をひきいれば、大事は定まります。劉備たちに土地を与えて、孫権さんの脅威をつくってはダメです」

周瑜の認識では、いま劉備は、孫権に「屈」している。劉備たちは、自立していない。関羽も張飛も、柔軟に周瑜が編入できる状況だ。

呂範もまた、劉備を呉郡に留めろと云った。
だが孫権は、北に曹操がいるから、劉備に荊州を与えた。劉備は公安にもどった。のちに劉備は、京での話を聞いて嘆じた。
「智謀の士が考えることは、同じだ。孔明は私に、京に行くなと云った。孔明は、周瑜の思惑を知っていた。私は周瑜に殺される寸前だったんだなあ」

周瑜詣京見權曰:「今曹操新政,憂在腹心,未能與將軍連兵相事也。乞與奮威俱 進,取蜀而並張魯,因留奮威固守其地,與馬超結援,瑜還與將軍據襄陽以蹙操,北方 可圖也。」權許之。奮威者,孫堅弟子奮威將軍、丹楊太守瑜也。周瑜還江陵為行裝, 於道病困,與權箋曰:「修短命矣,誠不足惜;但恨微志未展,不復奉教命耳。方今曹 操在北,疆場未靜;劉備寄寓,有似養虎。天下之事,未知終始,此朝士旰食之秋,至 尊垂慮之日也。魯肅忠烈,臨事不苟,可以代瑜。儻所言可采,瑜死不朽矣!」

周瑜は、京で孫権に会った。
「曹操は内部に不安があり、軍令が行きわたりません。そこで私は、奮威将軍・孫瑜さんとともに、蜀をとり、張魯を合わせたいと思います。孫瑜さんは蜀を守り、馬超と結んでもらいます。私は、孫権さんとともに襄陽で、曹操を圧迫します。北方をねらうことができます」
孫権は許した。
奮威将軍・孫瑜は、孫堅の弟の子である。丹楊太守である。
周瑜は江陵にもどり、遠征を準備した。周瑜は孫権に手紙を書いた。
魯粛は、忠烈な人です。わたくし周瑜の代わりは、魯粛に」

210年冬、周瑜が死んだ

卒於巴 丘。權聞之哀慟,曰:「公瑾有王佐之資,今忽短命,孤何賴哉!」自迎其喪於蕪湖。 瑜有一女、二男,權為長子登娶其女;以其男循為騎都尉,妻以女;胤為興業都尉,妻 以宗女。

周瑜は、巴丘で病没した。孫権は、哀慟した。
「周瑜は、王佐之資があった。周瑜が死んだ今、だれを頼ればいいのか」
孫権は周瑜の死体を、蕪湖で迎えた。周瑜には、娘が1人、息子が2人いた。孫権の長子・孫登は、周瑜の娘をめとった。息子の周循は、騎都尉になり、孫権の娘をめとった。もう1人の子・周胤は、興業都尉とはり、孫氏の娘をめとった。

初,瑜見友於孫策,太夫人又使權以兄奉之。是時權位為將軍,諸將、賓客為 禮尚簡,而瑜獨先盡敬,便執臣節。程普頗以年長,數陵侮瑜,瑜折節下之,終不與校。 普後自敬服而親重之,乃告人曰:「與周公瑾交,若飲醇醪,不覺自醉。」

はじめ周瑜は、孫策と友人だった。母は孫権に、周瑜へ兄のように仕えさせた。このとき孫権は、将軍号しかなかった。賓客たちは、孫権を重んじない。周瑜だけが孫権を、君主として敬った。
程普は、周瑜が若いから、あなどった。のちに程普は周瑜を気に入り、人に話した。「周瑜と交わると、うまい酒を飲んだように、酔ってしまう」

「はじめ」から始まる、時系列を無視した、回顧エピソード。


210年冬、魯粛が周瑜に代わる

權以魯肅為奮武校尉,代瑜領兵,令程普領南郡太守。魯肅勸權以荊州借劉備,與 共拒曹操,權從之。乃分豫章為番陽郡,分長沙為漢昌郡;復以程普領江夏太守,魯肅 為漢昌太守,屯陸口。

孫権は、魯粛を奮武校尉にした。周瑜の代わりに、兵を与えた。程普を、南郡太守にした。

周瑜の兵と太守職が、魯粛と程普に分割されました。

魯粛は孫権に、劉備へ荊州を貸すことを勧めた。ともに曹操をふせぐためだ。孫権は、魯粛の提案をみとめた。
豫章郡をわけ、鄱陽郡をおいた。長沙郡をわけ、漢昌郡をおいた。また程普を江夏太守とした。魯粛を漢昌太守とした。魯粛は、陸口に屯した。

長沙郡をわけて新設した、漢昌郡。魯粛を太守にするため、新設したのか。このとき、長沙太守は誰だろう。長沙太守に、うるさガタがいなければ、魯粛を長沙太守にすれば、すむ話なのだ。もしくは、どうしても魯粛を、陸口におきたかった?


初,權謂呂蒙曰:「卿今當塗掌事,不可不學。」蒙辭以軍中多務。權曰:「孤豈 欲卿治經為博士邪!但當涉獵,見往事耳。卿言多務,孰若孤!孤常讀書,自以為大有 所益。」蒙乃始就學。及魯肅過尋陽,與蒙論議,大驚曰:「卿今者才略,非復吳下阿 蒙!」蒙曰:「士別三日,即更刮目相待,大兄何見事之晚乎!」肅遂拜蒙母,結友而 別。
劉備以從事龐統守耒陽令,在縣不治,免官。 魯肅遺備書曰:「龐士元非百裡才也。 使處治中、別駕之任,始當展其驥足耳!」諸葛亮亦言之。備見統,與善譚,大器之, 遂用統為治中,親待亞於諸葛亮,與亮並為軍師中郎將。

はじめ孫権は、呂蒙に学問を勧めた。呂蒙は、学んだ。魯粛は尋陽で、呂蒙と語った。魯粛は、おどろいた。
「いまの呂蒙は、才略がある。呉下の阿蒙じゃないな」
「3日以上ぶりに会うなら、変化に目を見張るべきですよ」
魯粛は、呂蒙の母にあいさつし、友人となった。

「呉下の阿蒙」は、魯粛の就任直後に、おかれました。

劉備は、龐統を耒陽県令にした。魯粛は劉備に、龐統の才能を説明した。諸葛亮も、龐統をほめた。劉備は龐統と会い、器量を知った。龐統を侍中とした。劉備は、諸葛亮のつぎに、龐統と親しんだ。龐統は、諸葛亮とおなじく、軍師中郎将となった。

魯粛が、劉備の人事に口を出している。周瑜は「私は関羽と張飛をひきいる」と云っていたが、魯粛の感覚も同じだ。龐統は、孫権の軍師として送りこまれ、孫権の圧力で、軍師中郎将になったように見えなくもない。


210年、孫権の支配が、交州におよぶ

初,蒼梧士燮為交趾太守。交州刺史硃符為夷賊所殺,州郡擾亂,燮表其弟壹領合 浦太守,領九真太守,武領南海太守。燮體器寬厚,中國人士多往依之。雄長一州,偏 在萬裡,威尊無上,出入儀衛甚盛,震服百蠻。

はじめ、蒼梧の士燮は、交趾太守だった。

これも時系列を無視した記述。孫権が、交州を210年に、支配した。これを説明するため、遡って、司馬光が説明している。

交州刺史の朱符が、殺された。士燮と弟たちは、交州内の太守のポストを占領した。士燮をしたい、中原の人士も、百蛮の異民族も、集まってきた。

朝廷遣南陽張津為交州刺史。津好鬼神 事,常著絳帕頭,鼓琴、燒香,讀道書,雲可以助化,為其將區景所殺。劉表遣零陵賴 恭代津為刺史。是時蒼梧太守史璜死,表又遣吳巨代之。朝廷賜燮璽書,以燮為綏南中 郎將,董督七郡,領交趾太守如故。

朝廷は、南陽の張津を、交州刺史にした。張津は、まじないに凝っているうち、部将の区景に殺された。
劉表は、零陵の頼恭を、張津の代わりの交州刺史におくった。このとき、蒼梧太守の史璜が死んだ。劉表は呉巨を、史璜の代わりにおくった。

劉表は、順調に南方に進出していた。単騎で襄陽に入ったときから、ほぼ止まることなく、南へ南へと拡大している。中原を中心にネタを載せる史書だと、停滞しているように見えるが。

朝廷は、士燮を綏南中郎将として、交州7郡をまかせた。

劉表の交州進出を、曹操が士燮をつかって、牽制している。荊州南部にいた張羨のつぎ、曹操は、交州に手を回した。


後巨與恭相失,巨舉兵逐恭,恭走還零陵。孫權以 番陽太守臨淮步騭為交州刺史,士燮率兄弟奉承節度。吳巨外附內違,騭誘而斬之,威 聲大震。權加燮左將軍,燮遣子入質。由是嶺南始服屬於權。

のちに呉巨と頼恭が、戦った。頼恭は、零陵に逃げた。孫権は、鄱陽太守をつとめる臨淮の歩隲を、交州刺史にした。士燮は、歩隲にしたがった。
呉巨は、見せかけだけ、歩隲にしたがった。歩隲は、呉巨を斬った。

孫権が交州を支配するとは、曹操に叛逆するに等しい。地理的には、揚州と交州は隣接している。しかし孫権が交州に乗り出すには、「江湖未定」と曹操が認める、210年まで待たねばならなかった。

孫権は、士燮を左将軍にした。士燮は、孫権に人質にだした。これにより、はじめて嶺南は、孫権に服属した。

最後の1文を書きたいがために、交州の経緯を、司馬光は説明した。


210年は、曹操が性急な南方併合を、あきらめた歳。
つぎ、211年も、こんな感じでやる予定です。101102