後2年、匈奴を侮り、莽の娘が皇后に
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
後2年春、大司農の孫宝が、王莽を批判する
春,黃支國獻犀牛。黃支在南海中,去京師三萬裡。王莽欲耀威德,故厚遺其王, 令遣使貢獻。
後2年春、黃支國が、サイを献じた。黄支は、南海にある。長安から3万里。 王莽は、威徳を見せつけたい。だから黄支王を、厚くもてなし、貢献させた。
越巂郡で、黄龍がのぼり、長江をおよいだ。太師の孔光、大司徒の馬宮らは、みな言う。「王莽の功徳は、周公とおなじだ。王氏の宗廟を祭ろう」と。
大司農の孫宝は、王莽への賛美を否定した。「何かあるごとに、みな郡臣は、そろって王莽をほめる。だが王莽は、周公とおなじでない」と。大臣たちは、顔色を失った。甄邯は、この場の議論をとめた。
王莽は、司直の陳崇をつかい、孫宝とその家族を、取り調べた。孫宝はいう。「私は70歳だ。老いて心が乱れた。だが私の考えは、さきに言ったとおりだ」と。孫宝は、免官されて死んだ。
平帝は、劉箕子から、劉衎と改名した。
後2年3月癸酉、大司空の王崇が、病気を理由に、退職した。王崇は、王莽を避けた。
後2年夏、王莽が全力で、飢民をすくう
後2年夏4月丁酉。左將軍の甄豐を、大司
空とした。右將軍の孫建を、左將軍とした。光祿勳の甄邯を、右將軍とした。
王莽は、前漢の皇族や功臣の封国に、その子孫を見つけて封じた。封じられた人は、117人にのぼった。
郡国で、日照とイナゴ。青州が、もっともひどい。
民衆は、流亡した。王莽は、銭や布や土地をくばり、民衆を救済した。公卿たちは、王莽の政策を慕った。長安の城内に200の家を建て、貧民を住ませた。
王莽は郡臣をひきい、王太后に詔を出すように、頼んだ。「民衆を助ければ、王朝は祝福される。皇帝も高官も、全財産をそそいで、民衆を助けるように」と。王太后は、この詔を下さず。
王莽は、洪水や日照のたび、肉を食べない。左右の人は、王太后に知らせた。王太后は、王莽に言った。「あなた(王莽)は菜食をして、民衆を憂いている。もし今年の秋に豊作なら、肉を食べなさい。国のために、身体を大切にせよ」と。
光祿大夫楚國龔勝、太中大夫琅邪邴漢以王莽專政,皆乞骸骨。莽令太后策詔之曰: 「朕愍以官職之事煩大夫,大夫其修身守道,以終高年。」皆加優禮而遣之。
梅福知王莽必篡漢祚,一朝棄妻子去,不知所之。其後,人有見福於會稽者,變姓 名為吳市門卒雲。
後2年6月、鉅鹿に2つ隕石。
光禄大夫と太中大夫が、退職を願い出た。王莽が専政しているからだ。王莽は王太后を通し、2人に礼を加えた。
梅福という人は、王莽が前漢を簒奪するつもりだと、知った。妻子を棄て、梅福は去った。のちに会稽の呉で、姓名を変えて見つかった。
後2年秋、王昭君の娘の偽者
遣執金吾候陳茂諭說江湖賊成重等二百餘人皆自出,送家在所收事。重徙雲陽,賜 公田宅。
後2年秋9月戊申みそか、日食した。罪人をゆるした。
執金吾候の陳茂は、江湖の賊・成重らを説得した。成重は、2百余人で故郷を出た。家に送って、捕えられた。
劉貢父はいう。2百余人は、他県の出身である。故郷を出てきたから、家に送り返して、捕えられたのだ。胡三省は、異説のなか、この読み方を採用した。
成重は、雲陽に徙されて、公の田宅をもらった。
王莽は威徳をしめして、前例のないことで、王太后を悦ばせたい。王莽は、単于にウソをつかせた。「王昭君の娘である須卜居次雲が、太后に侍りますよ」と。王莽は、王昭君の娘の偽者に、賞賜を厚くあたえた。
【追記】T_S氏はいう。(引用はじめ)
「諷」は「嘘をつかせる」ではない。「単于に対し、王昭君の娘である須卜居次云を入侍させれば恩賞たっぷりだよとほのめかした」でいいのでは。どこから「偽物」と判断しましたか?(引用おわり)
ぼくの追記。「風」の誤読です。偽者じゃなさそうですね。すみません。。
後2年秋、西の国境で、匈奴と揉める
車師後王國は、新しい道をつくり、玉門関に通じた。戊己校尉の徐普は、玉門関を開通させたい。だが徐普は、車師後王國の道案内と、揉めた。
まえに前漢の都護司馬は、車師前王を殺した。いま車師後王は、前漢に殺されたくないから、匈奴に投降した。べつの異民族も、前漢の都護と揉めてしまい、1千余人で匈奴に降った。
匈奴の単于は、車師後王らを、受けいれた。単于は前漢に、これを知らせた。「臣(単于)は、謹んで、すでに投降した人たちを、受けいれました」と。
王莽は、中郎將の韓隆らを匈奴にやった。単于に言う。「前漢と対立して逃げこんだ、2つの異民族を引き渡せ」と。単于は叩頭して、あやまった。だが王莽は許さない。西域の諸王に命じて、2つの異民族を斬らせた。
後2年秋、宣帝と匈奴の盟約を、撤回する
王莽は四篠の制度をつくった。
以下の人は、四篠を受けられない。前漢から、匈奴に入った人。烏孫から、匈奴に降った人。西域の諸国にいて、前漢の印綬をもらったくせに、匈奴に降った人。烏桓から、匈奴に降った人。
評判の悪い、王莽の「侮辱外交」は、上でみた、車師後王と都護との、小さなケンカから始まったのか。それとも、史家による単純化か。
【追記】T_S氏はいう。(引用はじめ)
「以下の人は、四篠を受けられない。」ではなく、「①前漢から、匈奴に入った人。②烏孫から、匈奴に降った人。③西域の諸国にいて、前漢の印綬をもらったくせに、匈奴に降った人。④烏桓から、匈奴に降った人。」で四条「以下の人は四条に引っかかるから降伏を受けない」です。
つまりその「四条」に該当する降伏者は、受け入れてはいけない、という新ルール。これを明文化したものを匈奴に渡す、ということでしょう。(引用おわり)
王莽は、中郎將の王駿、王昌と、副校尉の甄阜、王尋を、匈奴にやった。四篠を単于にあたえた。宣帝があたえた函と取り換えた。
胡三省はいう。前漢の宣帝は、単于と盟約した。長城より南は、漢族がたもつ。長城より北は、匈奴がたもつ。漢族と匈奴のあいだで、投降を受けいれない。と。いま王莽が定めた四篠は、内容が分からない。ただし宣帝の盟約を、破棄はした。
王莽は言う。「中国では、2文字の名があってはいけない。匈奴の単于も、1文字の名に改めるなら、あつく賞してやろう」と。
単于は上書した。「幸いにも私は、前漢の藩臣になれました。囊知牙斯という名をやめて、知の1文字に改名します」と。王莽は喜び、単于を賞した。
後2年秋、王莽の娘が、平帝の皇后に
王莽は、娘を平帝に嫁がせ、政権を固めたい。王莽は上奏した。
「平帝は即位して3年。まだ長秋宮が建たない。掖廷に妻がすくない。後嗣がいないのは、国家の大難だ。
胡三省はいう。古代、諸侯1国が嫁をとると、ほかの9国から嫁がせた。ぼくの補足。いまだ掖廷が充たないとは、皇帝(どころか諸侯)として、体裁が整わない。
私(王莽)が『五経』を見るに。皇后をめとるなら、12人の女をおく。広く後嗣をつくるためだ。
二王のあと、周公や孔子の時代のように、ひろく女性を集めよ。長安にいる列侯は、妻に子供を生ませよ。
ぼくは思う。なんか、訳がヘンだなあ。あはは。
王氏の娘は、皇后の候補のなかに、多くいた。王莽は、自分の娘が、競争にさらせれるのを恐れた。王莽は言った。「私は徳がない。私の娘は、器量がない。ほかの候補者と、並べてはいけない」と。
王太后は詔した。「王氏は、私の実家です。王氏を、平帝の皇后にするな」と。
だが、毎日、1千余人が、朝廷で言った。「王莽の勲功を考えたら、王莽の娘が皇后にふさわしい。王莽の娘が、天下(つぎの皇帝)の母になってくれ」と。
王莽も王太后も、折れた。王莽の娘を、皇后にする。王莽は、まだ言う。「ひろく女性を集めて、皇后を選べ」と。公卿は言った。「王莽の娘でない人を、正統にしてはいけない」と。王莽は言った。「娘を娶らせよう」と。101123
ところで、王莽の娘が「正統」で、それ以外が「貳」というのは、おもしろい表現。