表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』載記の劉曜伝から、匈奴の儒教皇帝の限界を見る

1)三国キャラの大出演

劉曜伝です。これで劉姓の「載記」は終わりですね。
前にやった劉聡伝に、負けず劣らずに長いですが・・・劉淵の部将をやり、前趙を作り、石勒の後趙に敗れたという肩書きは、絶対の面白さを期待させてくれます。それでは、どうぞ。

劉淵の家の千里駒

劉曜,字永明,元海之族子也。少孤,見養於元海。幼而聰彗,有奇度。年八歲,從元海獵於西山,遇雨,止樹下,迅雷震樹,旁人莫不顛僕,曜神色自若。元海異之曰:「此吾家千里駒也,從兄為不亡矣!」

劉曜は、あざなを永明という。

劉淵の子・劉聡のあざなは「玄明」でした。漢字を共有しています。
いま気づいたが、劉聡のあざなは、対義語が並んでいる。玄(くらい)と明(あかるい)と。対立するものが溶け合う願いを込めたか?つまり、漢の国是である胡族と漢族の融合です。
すると劉曜は、永(ながく)明(あかるい)から、信念が単色だと想像できる。

劉淵の族子である。劉曜は、幼くして孤児になったから、劉淵に養われた。

「族子」とは便利な言い方で、血縁関係が分からなくても使える。この言葉を逆手に取れば、「劉淵と劉聡には血縁がなかった」「少なくとも不明」となる。

劉曜は、幼くして聰彗で、奇度があった。

列伝職人のボキャブラリ勝負である。族兄の劉聡の名を使ってしまったから、ぼくはあまりこの文を好きになれない。

劉聡が8歳のとき、劉淵に従って、西山で猟をした。雨に降られたので、樹の下で雨宿りした。迅雷が樹を震わし(落雷し)、樹の下にいた人は、みな顛僕した。だが劉曜は、神色を自若とさせ、平気な顔だった。劉淵は、劉曜の平常心を優異だとして、言った。
「この子は、我が家の千里駒である。兄に従って、我が家を存続させるだろう!」

「千里の駒」発言は、曹操が曹休にやった。曹操が曹休をどう遇し、曹休がどんな人生を歩んだか確認すれば、劉淵が劉曜に何を期待したかが分かる。
曹休は、曹操との血縁は不明(劉曜と同じ!)だ。曹丕と起居を共にした。下弁では「曹洪が大将だが、実は曹休が司令官だ」と任せた。皇族の名補佐を期待したのだ。
駒とは馬だが、馬は奉仕する存在であり、主に対して従です。家の継承権がないことが、約束されていることに注意。
曹休は最期に、周魴に石亭で騙された。劉曜の末路はどうかな。


身長九尺三寸,垂手過膝,生而眉白,目有赤光,須髯不過百餘根,而皆長五尺。性拓落高亮,與眾不群。讀書志於廣覽,不精思章句,善屬文,工草隸。雄武過人,鐵厚一寸,射而洞之,于時號為神射。尤好兵書,略皆暗誦。常輕侮吳、鄧,而自比樂毅、蕭、曹,時人莫之許也,惟聰每曰:「永明,世祖、魏武之流,何數公足道哉!」

劉曜が成長すると、身長は9尺3寸で、手を垂らしたら膝をすぎた。眉に白い毛が生え、目には赤光があり、須髯(ひげ)は100余根しかなかったが、どれも長さは5尺あった。

身長が215センチ。しかし突っ込みどころは、長い腕と白い眉。劉備と馬良を思い出さねばならん。劉備は170センチそこそこだが、2メートル超の人の腕が膝より下だから、どれだけ長いねん。
「貴い人は外見も特殊だ」という思想から、いろいろツギハギしただけだ。しかし理由なくコラージュしないだろう。三国ファンは、劉備と馬良との共通点を探っていく義務が課せられる(笑)
劉備は茫洋として難しいが、馬良はカンタンだ。「劉曜は、族兄弟の中で、最も優れている」で良いだろう。劉和(2代皇帝)や劉聡(3代皇帝)や劉乂(4代皇帝候補)よりも、優れている。そういう『晋書』筆者のメッセージだ。
「漢は、劉聡たちが滅んでも、根絶はしませんよ」と。

劉曜の性質は、拓落で高亮。大勢の人たちと群れなかった。劉曜は、書志を読んで広覧し、章句を精思せずに、ザクッと要点をつかんだ。

現実社会で成功する人は、一字一句に拘らない。現実社会で、メイン路線を外れる人は、一字一句に魅せられる。諸葛亮を筆頭に、同じ「学問好き」でも、タイプが2種類いるのだね。

屬文を善くし、草書や隸書をマスターした。
劉曜の雄武は人より優れ、1寸(2センチ半)の厚さの鉄でも、射て貫通させた。時の人は、劉曜の弓術を「神射」と言った。
劉曜は、もっとも兵書を好み、全て暗誦した。
つねに劉曜は、呉氏や鄧氏を輕侮した。

誰だか分からん。後ろに出てくる人も、時代がバラバラだ。「宰相として、コケた人」の名だと推測はできるが。

劉曜は、自分を楽毅、蕭何、曹参に引き比べた。時の人は、
「劉曜は、それほどの人物ではないよ」
と認めてくれなかった。だが劉聡だけは、いつも言ってくれた。
「永明(劉曜)は、世祖(後漢の劉秀)や魏武(曹操)のような連中とは、比べる必要もないくらい優れているぞ!」

さて劉聡は、会話がかみ合っておりません(笑)
劉曜は、名宰相の話をしていた。劉聡が言ったのは、君主である。
話の脱線ぶりが奏功して、劉聡の志がよく分かる。まず劉聡は、族弟の劉曜が君主になる可能性を認めている。劉聡は、兄弟相続を前提としている。わが子可愛さに、弟を排斥しない。
劉聡は、兄の劉和から皇位を奪い、弟の劉乂を次の皇帝に指名した。劉乂は失脚し、とうに死にそうなものが、ずっと皇太弟だった。同じノリで、族弟の劉曜に、皇位が回ることも考えた?
また劉聡は、後漢と魏晋を飛ばし、前漢に回帰させたいという思想を持っていた。これは前に「劉聡伝」でやりました。いま「劉曜の前では、劉秀や曹操などゴミである」と言った。後漢による再興をリセットして、後漢から禅譲された魏晋もリセットして、より正しい前漢の再興を狙ったのではないか。
後漢のブレーンにより、「後漢は前漢を継いだもの。同じ王朝だ」という宣伝がされた。『漢書』もその一翼を担った。『三国志』の人たちも、「後漢によって再興されたから」という理由で、永遠の漢帝国を信じた。しかし、後漢は前漢とは、別王朝である。後漢のウソを暴露したのは、なんと匈奴の劉氏だったという。
匈奴が晋の正統を否定したいと思ったとき、接着剤がゆるいのが、前後漢の間だったようで。禅譲されてないもん。