表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』載記の劉曜伝から、匈奴の儒教皇帝の限界を見る

16)劉胤の判断ミスにて、亡国

捕虜になり、山東に運ばれた劉曜。
しかし前趙には、あの天才息子・劉胤がいるじゃないか。まだ絶望するのは早いと思うのです。

石勒の捕虜として

曜瘡甚,勒載以馬輿,使李永與同載。北苑市三老孫機上禮求見曜,勒許之。機進酒於曜曰:「僕谷王,關右稱帝皇。當持重,保土疆。輕用兵,敗洛陽。祚運窮,天所亡。開大分,持一觴。」曜曰:「何以健邪!當為翁飲。」勒聞之,淒然改容曰:「亡國之人,足令老叟數之。」

劉曜の傷はひどかった。石勒は、劉曜を馬輿に載せて、李永に同乗させた。
北苑市の三老である孫機が、劉曜に面会したいと言ったので、石勒は許した。孫機は、酒を劉曜に進めて、言った。

「礼」のマナーかも知れないが、まだ酒を飲ませるのか(笑)

「しもべとなった辺境の王よ。

「谷」には、狭いところの意があるらしいから、こう訳した。

あなたは關右で、帝皇を称した。関中にじっくり留まり、領地を強く保った。だが用兵を軽んじたため、洛陽で敗れた。天運は窮まり、天下に滅ぼされた。申し開きを聞くために、1杯のさかずきを持ってきた」

「開大分」が分かりません。

劉曜は言った。
「何を言っても、私を正当化することは出来ないよ。その酒は、爺さんが飲んでくれ」
石勒がこれを聞き、ゾッとした表情に変わり、感想を述べた。
「亡國の人は、ただの老叟に問い詰めさせるだけで、充分にダメージを食らようだ」と。

「淒然」とは、ゾッとした様子です。「明日はわが身」と思ったんだろうか。劉曜が好調の時期とのギャップに驚いたんだろうか。
石勒のキャラは、まだ載記を読んでないから分からん、、


舍曜于襄國永豐小城,給其妓妾,嚴兵圍守。遣劉岳、劉震等乘馬,從男女,衣以見曜,曜曰:「久謂卿等為灰土,石王仁厚,全宥至今,而我殺石他,負盟之甚。今日之禍,自其分耳。」留宴終日而去。勒諭曜與其太子熙書,令速降之,曜但敕熙:「與諸大臣匡維社稷,勿以吾易意也。」勒覽而惡之,後為勒所殺。

劉曜は、襄國の永豐県にある小城に宿泊した。劉曜は、自分の妓妾を与えられ、周りを兵が厳重に囲った。
石勒は、劉岳や劉震らを馬に乗せ、男女を従わせて、劉曜に面会させた。劉曜は言った。
「きみたち(劉岳や劉震ら)は殺され、灰土になってしまったと、久しく聞いた。しかし石王は仁厚だから、全て許してくれた。私は石他を殺したが、石王は過去の同盟を、今日も守ってくれるため、私たちは殺されていない。
今日の禍いは、全て前趙の私たちが招いたことなのだ。石王には、非の打ちどころがない」

内容が屈辱的なのは、まあ良し。しかし「石王」という呼び方が、虫酸が走るというか、何と言うか。

宴席に劉岳や劉震を留め、終日して去った。
石勒は、劉曜とその太子である劉煕に書状を送り、速やかに降伏せよと命じた。劉曜は、ただ太子の劉煕に、これだけを言った。
「諸大臣とともに、社稷を正して維持せよ。私が石勒の捕虜だからと言って、カンタンに降服してはいけない」

さすが。「石王よ、石王よ」と頭を下げていた劉曜だが、洛陽争奪のプレッシャーから解放され、元に戻っている。
関中を堅持すれば、まだ前趙は滅びないのだ。

石勒は、劉曜が劉煕に宛てた書状をみて、これを悪んだ。のちに劉曜は、石勒に殺された。

息子たちの前趙

熙及劉胤、劉鹹等議西保秦州,尚書胡勳曰:「今雖喪主,國尚全完,將士情一,未有離叛,可共並力距險,走未晚也。」胤不從,怒其沮眾,斬之,遂率百官奔於上邽,劉厚、劉策皆捐鎮奔之。

劉熙および劉胤、劉鹹らは、西の秦州を保ち、防衛線とすることを議論した。
尚書の胡勳が言った。
「いま前趙は、主君を喪いました。しかし國は、まだまだ完全です。將士の情は1つにまとまり、まだ離叛もありません。ともに力を合わせて、天険で守りましょう。まだ逃げるには早すぎます
劉胤はこの意見に従わなかった。前趙の逃亡を阻むので、劉胤は胡勳を斬った。
劉胤は百官を率いて、上邽に逃げた。

上邽は、かつて西晋の陳安が本拠にしたところです。洛陽より長安が守りやすいが、長安より上邽が守りやすい。もっとも、守備力を上げるほどに、威令を及ぼせる範囲が狭まるが・・・
「長安を保つためには、劉曜のカリスマが必要。劉煕や劉胤のカリスマでは、上邽が精一杯だ」という判断なのでしょう。劉胤なら(たとえ間違ったとしても)確固たる判断をしたはずだ。

劉厚と劉策は、どちらも鎮台を放棄して、逃げた。

關中擾亂,將軍蔣英、辛恕擁眾數十萬,據長安,遣使招勒,勒遣石生率洛陽之眾以赴之。胤及劉遵率眾數萬,自上邽將攻石生於長安,隴東、武都、安定、新平、北地、扶風、始平諸郡戎夏皆起兵應胤。胤次於仲橋,石生固守長安。

關中が擾亂した。將軍の蔣英と辛恕は、数十万を擁して、長安に拠った。蔣英と辛恕は、石勒に使者を送り、「長安をお取り下さい」と招いた。

いるんだよね、こういうやつ。

石勒は、石生に洛陽の占領軍を率いさせ、長安に行かせた。
劉胤と劉遵は、数万を率いて上邽から出陣した。劉胤は、長安に入った石生を攻めようとした。だが、隴東、武都、安定、新平、北地、扶風、始平ら諸郡の戎夏が、みな起兵して、劉胤に応戦した。

劉胤は、長安で守るよりも、先に長安を敵に取らせ、後から奪う方が得策と考えた。戦術としては、アリ。
だが、いちど長安を放棄した劉胤は、求心力がガタ落ち。「前趙」ではなく、上邽の割拠勢力に過ぎないから、味方が得られなかった。
劉胤は、確かに人格は優れているけれども、日和見勢力である胡族たちの動きを読み誤った。かつては「大単于」の自分に仕えた奴らが、雪崩を起こして敵に回るとは!
「劉曜ナシでも長安を保てる」と言った胡勳は、前趙の95%の正統が残ってると思った。劉胤は現実的に見積もり、正統性は60%ぐらいだと思って、上邽に移った。だが実際は0%だった。きっと「正統」とは、100か0の二進法で、99になった時点で、0も同然なんだ。
劉胤は何をすれば正解だったか。
劉備のマネをして、「劉曜さまが石勒に殺されたので」とか、デマでもいいから口実を設け、劉煕が即位すればよかった。そうすれば、胡族たちは前趙を支持したはずだ。

劉胤は、仲橋に入った。石生は長安を固守した。

勒使石季龍率騎二萬距胤,戰于義渠,為季龍所敗,死者五千余人。胤奔上邽,季龍乘勝追戰,枕屍千里,上邽潰。季龍執其偽太子熙、南陽王劉胤並將相諸王等及其諸卿校公侯已下三千餘人,皆殺之。徙其台省文武、關東流人、秦雍大族九千余人于襄國,又坑其王公等及五郡屠各五千余人於洛陽。

石勒は、石虎に騎兵20000を率いて、劉胤を防がせた。石虎と劉胤は義渠で戦い、石虎が勝った。劉胤の軍は、死者が5000余人。
劉胤は、上邽に逃げた。石虎は、勝ちに乗じて追撃した。劉胤の軍の死体が、1000里も横たわった。上邽は潰された。
石虎は上邽にいた前趙の人を、全て殺した。
太子の劉熙と、南陽王の劉胤ならびに將相諸王らと、諸卿校公侯以下3000人余は、全て殺された。

劉胤が死んでしまった・・・

前趙の台省文武(官庁)には、山東の流人が徙された。秦州と雍州の大族9000余人は、襄國に徙された。前趙の王公らは穴埋めにされた。

華北は、石勒の後趙が統一しました。後趙、東晋、成漢の三国鼎立です。

五郡の人は、各郡5000人ずつ洛陽で屠られた。

曜在位十年而敗。始,元海以懷帝永嘉四年僭位,至曜三世,凡二十有七載,以成帝鹹和四年滅。

劉曜は、在位が10年にして、敗れた。
はじめ劉淵が、西晋の懷帝の永嘉四年に僭位してから、劉曜に到るまで、3世で27年間であった。東晋の成帝の鹹和四年に滅した。

おわりに

漢族の漢は、前漢-後漢-蜀漢と流れるのですが、匈奴の漢も、同じではないかと思うのです。
漢族の前漢は、機能不全の統一王朝(秦)の下から生まれ、
代を重ねて世界帝国の体裁を整えた。
前漢は、外戚(王莽)に簒奪されたが、
遠縁の皇族(劉秀)が復興して、儒教帝国を作った。
最後の皇帝が他勢力の懐に入ると(曹操)
地方(成都)に偏って再興を期したが(劉備)、長安を獲れずに滅びた。
これに比較すると、
匈奴の趙漢は、機能不全の統一王朝(西晋)の下から生まれ、
代を重ねて世界帝国の体裁を整えた。
趙漢は、外戚(靳准)に簒奪されたが、
遠縁の皇族(劉曜)が復興して、儒教帝国を作った。
最後の皇帝が他勢力の懐に入ると(石勒)
地方(上邽)に偏って再興を期したが(劉胤)、長安を獲れずに滅びた。

疲れたので、載記の「石勒伝」は、ちょっと休んだ後ですね。091010