表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』載記の劉曜伝から、匈奴の儒教皇帝の限界を見る

8)仇池が帰し、陳安が叛く

いま劉曜は、後漢・魏晋を踏まえた、儒教国家を作ろうとしています。
「冒頓単于を祭ったから、胡族の色が強まった」という指摘を読んだことがある。当然、否定すべくもない。だが、あまり的確じゃないと思う。
劉曜を1つの文で表すなら、「劉聡までの漢風を捨て、胡族に走った」よりは、「劉聡より現実的に、漢風を手堅く継いだ」でしょう。

仇池の楊難敵を称藩させる

曜親征氐羌,仇池楊難敵率眾來距,前鋒擊敗之,難敵退保仇池,仇池諸氐羌多降於曜。曜後複西討楊韜于南安,韜懼,與隴西太守梁勳等降於曜,皆封列侯。使侍中喬豫率甲士五千,遷韜等及隴右萬余戶于長安。

劉曜は、氐羌を親征した。仇池の楊難敵は、兵を率いて劉曜を迎撃した。

五胡十六国の、二流の群雄が登場です。しかし、「難敵」っていう名前、もう少し何とかならなかったものかねえ。ウチマチガエル・・・

劉曜は、楊難敵の先鋒を破った。楊難敵は、退いて仇池を保った。仇池の諸氐羌は、多くが劉曜に降った。
劉曜はのちに、ふたたび西討して、楊韜を南安で攻撃した。楊韜は懼れて、隴西太守の梁勳らと、劉曜に投降した。劉曜は降った人を、みな列侯に封じた。
侍中の喬豫に、甲士5000を率いさせて、楊韜らと隴右の10000余戸を、長安に移住させた。

地味に、軍事行動の文章に溶け込んでるが、徙民を引率した喬豫は、前回コンストラクションを諌めて、劉曜に褒められた人。


曜又進攻仇池。時曜寢疾,兼癘疫甚,議欲班師,恐難敵躡其後,乃以其尚書郎王獷為光國中郎將,使于仇池,以說難敵,難敵於是遣使稱籓。

劉曜はふたたび仇池に進攻した。このとき劉曜は、病気で寝込んだ。軍にも疫病が流行った。撤退することにした。
だが、背後を楊難敵に攻められるのを恐れた。劉曜は、尚書郎の王獷を光國中郎將として、仇池に行かせた。王獷は、楊難敵を説得した。このとき楊難敵は、前趙に称藩した。

曜大悅,署難敵為使持節、侍中、假黃鉞、都督益甯南秦涼梁巴六州隴上西域諸軍事、上大將軍、益甯南秦三州牧、領護南氐校尉、甯羌中郎將、武都王,子弟為公侯列將二千石者十五人。

劉曜は大悅し、楊難敵を、使持節、侍中、假黃鉞、都督益甯南秦涼梁巴六州隴上西域諸軍事として、上大將軍、益甯南秦三州牧、領護南氐校尉、甯羌中郎將、武都王とした。

どれだけ楊難敵にバラ撒くんだ。それにしても、「南秦州」「巴州」って、いつ作ったんだ。事前に許可をとって欲しいんだが(笑)

劉曜は、楊難敵の子弟を公侯列將とした。二千石の俸禄をもらった人は、15人もいた。

西晋末の独立勢力、陳安

陳安請朝,曜以疾篤不許。安怒,且以曜為死也,遂大掠而歸。曜疾甚篤,馬輿而還,使其將呼延實監輜重於後。陳安率精騎耍之於道。實奔戰無路,與長史魯憑俱沒于安。

陳安が、劉曜への面会を求めた。

予告なしに登場しましたが、陳安は重要人物。 準備がないので、ウィキペディアを読んで、注釈しておきます。
今回「3)」と「4)」で挙兵していた司馬保の配下。晋王を名乗った司馬保が320年に殺されると、陳安は仇を討った。司馬保を天子として葬った。
陳安は司馬瞻を捕虜にして、前趙に帰属した。西晋の将であり、上圭を拠点とした半独立勢力であり、、よく分からん。
いま陳安が来たのは、322年2月。いちおう「盟主への面会」を求めた訪問か。もし軽くあしらわれたら、きっとキレるな。

劉曜は、病気が重いので、陳安を断った。陳安は怒り、劉曜はすでに死んだと見なした。陳安は前趙の国内で、大掠して帰った。
劉曜の病気は、いよいよ重篤となった。馬輿に乗って、仇池から還った。

騎乗できないってこと。身体のデカい人の介護は大変だ・・・

呼延實は、輜重を見張って、劉曜の馬輿の後についた。
陳安は精騎を率いて、道を塞いだ。呼延實は戦いを避けようとしたが、逃げ道がない。呼延實は、長史魯憑とともに、陳安に敗れた。

安囚實而謂之曰:「劉曜已死,子誰輔哉?孤當輿足下終定大業。」實叱安曰:「狗輩!汝荷人榮寵,處不疑之地,前背司馬保,今複如此。汝自視何如主上?憂汝不久梟首上邽通衢,何謂大業!可速殺我,懸我首於上邽東門,觀大軍之入城也。」安怒,遂殺之。

陳安は、呼延實を捕らえて言った。
劉曜はすでに死んだ。あなたは誰を助けて戦ったのか?私は、あなたと大業を定めようと思っている(天下を取ろうと思っている)。劉曜は諦めて、私に協力せよ」

陳安の野心の種類は、後日ぜひ見てみたい。

呼延實は、陳安を叱った。
「イヌッコロめ。お前は人を担いで栄寵を受け、強い信頼を君主から得ていた。しかし前に司馬保に叛き、ふたたび劉曜さまを裏切ろうと言う。お前は、主君というものを、どう思っているんだ?
きみ自身の首が、そのうち上邽(陳安の根拠地)の通衢に晒されることを、心配したまえ。何が『大業』だよ。さっさと私を殺し、上邽の東門に首を懸けてくれ。劉曜さまの大軍が入城するのを、見届けてやろう」

「首を懸ける」は春秋戦国時代の話だったが、出典を忘れた。「劉曜伝」では、とても流行っているようです(笑)

陳安は怒り、ついに呼延實を殺した。

以魯憑為參軍,又遣其弟集及將軍張明等率騎二萬追曜,曜衛軍呼延瑜逆戰,擊斬之,悉俘其眾。安懼,馳還上邽。曜至自南安。陳安使其將劉烈、趙罕襲汧城,拔之,西州氐羌悉從安。安士馬雄盛,眾十余萬,自稱使持節、大都督、假黃鉞、大將軍、雍涼秦梁四州牧、涼王,以趙募為相國,領左長史。

陳安は、魯憑を參軍とした。

呼延實は劉曜のために、死んだ。だが魯憑は、寝返ってしまったのね(笑)

魯憑は、魯憑の弟・魯集および將軍の張明らとともに、2万を率いて劉曜を追撃した。劉曜の衛軍の呼延瑜は、魯憑らを逆撃して、斬り殺した。魯憑らの軍兵を、すべて捕虜にした。

寝返った部将は、ろくな末路を用意してもらえない。『三国演義』の袁紹の降将が、劉備たちの当て馬にされるように。
物語性を除いたとしても、降将って立場が弱いから、突っ込み役に選ばれやすい。そして、断れない。降将の筆頭が、孫呉の甘寧です。かなり以前に、このサイトでやりました。

陳安は懼れ、上邽に馳せ返った。劉曜は、南安に到った。
陳安は、部将の劉烈と趙罕に、前趙の汧城を襲わせた。劉烈と趙罕は、汧城を抜いた。西州の氐羌は、すべて陳安に従った。

汧城なんて、実はどうでも良い。
どっちが強いか見守っている、氐羌の帰趨が、国の命運を決めます。ギャラリーに強者と認定されないと、支配が安定しない仕組みだ。選挙に似てる(笑)

陳安の士馬は雄盛で、軍勢は10余万だった。
陳安は、自ら使持節、大都督、假黃鉞、大將軍、雍涼秦梁四州牧、涼王を称した。趙募を相國とし、左長史を領ねさせた。

やはり、五胡十六国にはカウントしません。

魯憑の最期と、君主の姿

魯憑對安大哭曰:「吾不忍見陳安之死也。」安怒,命斬之。憑曰:「死自吾分,懸吾頭于秦州通衢,觀趙之斬陳安也。」遂殺之。曜聞憑死,悲慟曰:「賢人者,天下之望也。害賢人,是塞天下之情,夫承平之君猶不敢乖臣妾之心,況于四海乎!陳安今於招賢采哲之秋,而害君子,絕當時之望,吾知其無能為也。」

魯憑は、陳安に向けて、大哭きして言った。
「私は、陳安どのが死ぬのを見るのは、忍びありません」

魯憑は、降ったものの、劉曜のシンパである。
「陳安には、涼王の資格などないのに・・・僭越なことだ」
と、遠まわしに批判している。これで泣かれるんだから、気分も始末も悪い。

陳安は怒り、魯憑を斬れと命じた。魯憑は言った。
「私を殺したら、死体を切り離せ。私の頭を、秦州の通衢に懸けろ。劉曜さまの前趙が、陳安を斬るのを見届けてやろう」

『晋書』のここの担当者が、ヘビロテで好きな曲をかけながら、登場人物のセリフを書いたとしか思えない

陳安は、魯憑を殺した。
劉曜は、魯憑が死んだと聞くと、悲慟して言った。
「賢人は、天下之望である。賢人を殺害するとは、天下之情を塞ぐことだ。そもそも承平之君は、臣妾之心を乖離させるようなことを、わざわざしない。まして、四海の国々を乖離させるようなことを、するものか。

「承平」は、さっきはこだわりませんでしたが、後漢の明帝の話のときに出てきた表現です。短期間で2度目です。「承平」は年号っぽいが、時代が合わない。文脈からすると、ふつうにVOで読むのが正解だろう。
「平和を享受することができる君主」くらいに解釈しておきます。

陳安はいま、賢者を招いて登用すべきだったのに、君子を殺害してしまった。陳安は、當時之望を絶ってしまった。私は、陳安は平和を作る能力がないと知ったよ」

劉曜は病気なのに、よく喋るな(笑)
ここからも、劉曜がかなり儒教を参考にして、「あるべき君主像」描いていたことが分かる。よほど頭が緩くない限り、儒教に照らして自省もしたでしょう。
じつは1度も、諫言した人を殺していない。諫言を常に聞いている。遊子遠の異民族対策のときは、際どかったが、重臣が止めてくれた。止めてくれるってことは、「言えば聞いてもらえる」という信頼を、臣下から得ているためで。
唐代の『晋書』が、劉曜を美化するメリットはゼロのはず。ってことは、諫言を聞くのは、素のままの劉曜だ。すごい名君に見えてきた。