表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』載記の劉曜伝から、匈奴の儒教皇帝の限界を見る

9)休屠王を従え、墓作りに凝る

劉曜が賢人として重んじた、魯憑。 魯憑は、西晋末の独立勢力である、陳安が殺してしまった。
儒道に叛くものは、前趙の儒帝・劉曜が許さないはず。
しかし、すぐに話の続きを読ませてくれないのが、「載記」の特徴です。いちおう本紀みたいに、文脈より時系列を重視するから。

「大悦」する皇帝

休屠王石武以桑城降,曜大悅,署武為使持節、都督秦州隴上雜夷諸軍事、平西大將軍、秦州刺史,封酒泉王。

休屠王の石武が、桑城ごと投降してきた。
劉曜は大悅して、石武を使持節、都督秦州隴上雜夷諸軍事、平西大將軍、秦州刺史として、酒泉王に封じた。

余談だが、劉聡はよく「大怒」し、劉曜はよく「大悦」しているように見える。劉曜は、今も「大悅」した。せっかく有給休暇なので、調べてみた(笑)
使ったのは、『寒泉』という検索サイトです。もちろん検索結果を目で見て、アナログに集計した結果です。検索機能では、動詞の主語までは結びつけてくれないから。。
劉聡の「大怒」は7回で、「大悅」は4回。
劉曜の「大怒」は4回で、「大悅」は10回。
ぼくのイメージは、何となく当たっていました。ちなみに上記の調査で、絡みが多いために気になったのが、石勒。ついでなので見てみましょう。
石勒の「大怒」は10回で、「大悅」は6回。
劉聡より登場が多く、大怒しまくっていることが判明推しました。下ら・・・なくはない。性格が分かりそうじゃん。


曜後羊氏死,偽諡獻文皇后。羊氏內有特寵,外參朝政,生曜三子熙、襲、闡。

劉曜の皇后・羊氏が死んだ。「獻文皇后」と贈り名した。羊氏は、後宮内で劉曜の特別な寵愛を受け、後宮外では朝政に参加した。
羊氏は、劉曜の子を3人産んだ。 劉熙と、劉襲と、劉闡である。

曜始禁無官者不聽乘馬,祿八百石已上婦女乃得衣錦繡,自季秋農功畢,乃聽飲酒,非宗廟社稷之祭不得殺牛,犯者皆死。曜臨太學,引試學生之上第者拜郎中。

劉曜は、無官の人が乗馬することを禁じた。俸禄が800石以上の婦女が、錦繡の衣を着ることを禁じた。秋の終わりから農耕が終わるまで、飲酒を禁じた。宗廟や社稷の祭りでなければ、ウシを殺してはいけないことにした。
これらの禁令を違反した人は、みな死刑になった。

死刑がどこまで係るの?ウシだけ?それとも乗馬から全部か?
君主が儒教にこだわると、すぐにこういう面倒な規則ができるのです。

劉曜は太學に臨み、成績が優秀な学生を郎中に採用した。

武功男子蘇撫、陝男子伍長平並化為女子。石言於陝,若言勿東者。

武功にいる男子の蘇撫、陝にいる男子の伍長平が、どちらも女性になった。陝にある石が、「東にいくな」と言っているようであった。

石のとこは、訳しにくい。東には石勒がいる。
「石勒に正面から当たらず、西や北に国土を拡張しろ」
と言うのか。前趙の方針は確かにそうなんだが、諸葛亮の隆中対みたいな石である。方面長官に配布すべきだな。

儒教政策=オリジナリティの欠如

曜將葬其父及妻,親如粟邑以規度之。負土為墳,其下周回二裏,作者繼以脂燭,怨呼之聲盈于道路。遊子遠諫曰:

劉曜が、父と妻を葬るとき、自ら粟邑に行き、仕切った。劉曜は自ら土を背負って、墳墓を作った。墳墓の下では、外周が2里あった 。作業者は、脂燭で現場をライトアップさせられた。怨呼之聲が、道路に満ちた。

ハデに葬り、人に迷惑をかけるのは、儒教者の悪いクセだ。

遊子遠が、諌めて言った。

「臣聞聖主明王、忠臣孝子之于終葬也,棺足周身,槨足周棺,藏足周槨而已,不封不樹,為無窮這計。伏惟陛下聖慈幽被,神鑒洞遠,每以清儉恤下為先。社稷資儲為本。今二陵之費至以億計,計六萬夫百日作,所用六百萬功。二陵皆下錮三泉,上崇百尺,積石為山,增土為阜,發掘古塚以千百數,役夫呼嗟,氣塞天地,暴骸原野,哭聲盈衢,臣竊謂無益於先皇先後,而徒喪國之儲力。陛下脫仰尋堯舜之軌者,則功不盈百萬,費亦不過千計,下無怨骨,上無怨人,先帝先後有太山之安,陛下饗舜、禹、周公之美,惟陛下察焉。」

「(抄訳)聖主明王は、死者の身の丈にあった墓を作ります。陵墓のデカさより、国力温存を重んじます。いま劉曜さまは、億の資金、6万の人手を動員していますが、大迷惑です。舜禹や周公を見習って下さい」

曜不納,乃使其將劉岳等帥騎一萬,迎父及弟暉喪于太原。疫氣大行,死者十三四。上洛男子張盧死二十七日,有盜發其塚者,盧得蘇。曜葬其父,墓號永垣陵,葬妻羊氏,墓號顯平陵。大赦境內殊死巳下,賜人爵二級,孤老貧病不能自存者帛各有差。

劉曜は、遊子遠の諫言を納れなかった。

諫言が、初めて無視された。
遊子遠の諫言には、特徴がある。遊子遠は儒教に染まっていないリアリストだということ。
劉曜の儒教は、突っ走る。異民族排斥とは、少々無理をしてでも喪に服すとか。それを諌めるのが、遊子遠の役割。
劉曜のやり方を「暗君の暴走」と言い切れないのが、中夏皇帝を見るときの難しさ。遊子遠といいペアですね。

将軍の劉岳らに騎馬隊1万を率いさせ、劉曜の父および弟・劉暉の霊を太原で迎えた。
領民に疫氣が流行し、10人のうち3人や4人が死んでしまった。 上洛の男子である張盧は、27日に死んだが、塚(墓)を盗掘すると、張盧は蘇生していた。

曜葬其父,墓號永垣陵,葬妻羊氏,墓號顯平陵。大赦境內殊死巳下,賜人爵二級,孤老貧病不能自存者帛各有差。

劉曜は父を葬り、墓號は「永垣陵」とした。劉曜は妻・羊氏を葬り、墓號は「顯平陵」とした。領内で死刑以下を大赦した。
領民に爵二級を賜った。孤児、老齢、貧乏、病気で、自活できない人に、それぞれ帛を配った。

爵位を撒き、領民を救済した。
西晋と敵対したが、政策内容は西晋を継承している。劉淵と劉聡は歴史を変えようとしたが、劉曜は歴史をありのまま認める。「前趙は西晋の次の王朝である」という自己意識だ。
もっとも、これで求心力を維持できるか疑問。ネタバレすると、明らかな失政がないのに、前趙は滅びます。失敗も覚悟で、オリジナルな施策をしないと、民衆にとって王朝が交代する意味がないってことか。


次回、やっと西晋の亡霊・陳安との決着がつきます。