5)遊子遠の異民族政策&戦争
司馬保が挙兵し、金墉城を西晋の将軍に奪われ、、
それに乗じて石勒に洛陽を奪われ、、
さっそく劉曜の前趙は、五胡の時代らしい難局に直面します。
巴氐の叛乱、劉曜の勘違い
長水校尉尹車謀反,潛結巴酋徐庫彭,曜乃誅車,囚庫彭等五十余人于阿房,將殺之。光祿大夫遊子遠固諫,曜不從。子遠叩頭流血,曜大怒,幽子遠而盡殺庫彭等,屍諸街巷之中十日,乃投之于水。
長水校尉の尹車が、劉曜に謀反した。尹車は、ひそかに巴酋の徐庫彭と手を結んだ。劉曜は、尹車を誅して、徐庫彭ら50余人を阿房で捕えた。劉曜は、徐庫彭らを殺そうとした。
光祿大夫の遊子遠が、強く諌めた。
「前趙の臣である尹車は、生殺与奪の権利が劉曜さまに帰属するから、好きになさればよい。だが巴氐は、異民族だ。取り扱いは慎重に!」
と諌めた。劉曜は、
「しかし前趙への謀反に加担したことに、変わりはないぞ」
と言い返した。そんなやり取りかな。
劉曜は諌めを聞かなかった。遊子遠は、叩頭して流血した。劉聡は大怒した。遊子遠を幽閉して、徐庫彭らを皆殺しにした。徐庫彭らの屍体は、街巷の中で10日晒されて、河川に投げ込まれた。
於是巴氐盡叛,推巴歸善王句渠知為主,四山羌、氐、巴、羯應之者三十余萬,關中大亂,城門晝閉。
ここにおいて、巴氐がすべて劉曜に叛した。
巴氐は、善王句渠知をリーダーに推した。四山の羌、氐、巴、羯族のうち、巴氐に応じた人は30万余人だった。
ゲームのルールを緩和するとき、自分が有利になることしか目が行かない。相手は、旧ルールのままで挑んでくると、勝手に決め付けてしまう。
劉曜は、他の胡族が、あたかも魏晋に従ったかのように、前趙に服属すると考えてはいなかったか。だから巴氐を過酷に罰したのではないか。
関中は大いに乱れた。長安の城門は、すべて閉じられた。
異民族政策の先見者、遊子遠
子遠又從獄表諫,曜怒甚,毀其表曰:「大荔奴不憂命在須臾,猶敢如此,嫌死晚邪?」叱左右速殺之。劉雅、硃紀、呼延晏等諫曰:「子遠幽而尚諫者,所謂忠於社稷,不知死之將至。陛下縱弗能用,奈何殺之!若子遠朝誅,臣等亦暮死,以彰陛下過差之咎。天下之人皆當去陛下蹈西海而死耳,陛下複與誰居乎!」曜意解,乃赦之。
遊子遠は、獄中から上表して、劉曜を諌めた。劉曜はひどく怒り、上表(紙?竹?)を毀して、言った。
「大荔奴め、いつ殺されてもおかしくないのに、抜けぬけと上表してくるか。早死にしたいか」
劉曜は、左右の人を叱り飛ばして、遊子遠を速やかに殺せと言った。
重臣の劉雅、硃紀、呼延晏らは、劉曜を諌めた。
「遊子遠は、幽閉されたのに、諫言をやりました。いわゆる『社稷において忠』な人で、自分の命よりも国を思っています。もし劉曜さまが遊子遠を使いこなせなくても、殺して良い理由がありません。
もし朝に遊子遠を殺せば、私たち重臣も夜に死ぬでしょう。私たちが死んで、劉曜さまのミスを明らかにします。天下の人は、みな劉曜さまの下から逃げ去り、西海で死ぬだけでしょう。劉曜さまは、1人きりになります」
劉曜は怒りを解いて、遊子遠を赦した。
於是敕內外戒嚴,將親討渠知。子遠進曰:「陛下誠能納愚臣之計者,不勞大駕親動,一月之中可使清定。」曜曰:「卿試言之。」子遠曰:
ここにおいて劉曜は、内外に戒厳を布いた。劉曜が親征して、巴氐のリーダーである善王句渠知を討伐しようとした。
遊子遠が進み出て、言った。
「劉曜さまが、もし愚臣(私)の計略を採用してくだされば、わざわざ親征しなくても、1ヶ月以内に叛乱を平定できるでしょう」
劉曜は応えた。
「遊子遠よ。きみの作戦とやらを、試しに言ってみろ」
遊子遠は言った。
「彼匪有大志,希竊非望也,但逼于陛下峻綱耳。今死者不可追,莫若赦諸逆人之家老弱沒奚官者,使迭相撫育,聽其複業,大赦與之更始。彼生路既開,不降何待!若渠知自以罪重不即下者,願假臣弱兵五千,以為陛下梟之,不敢勞陛下之將帥也。不爾者,今賊黨既眾,彌川被穀,雖以天威臨之,恐非年歲可除。」
「善王句渠知には、大志がありません。ひそかに僭越な野望を持っているだけです。劉曜さまが、巴氐に厳しくし過ぎたミスに漬けこんだだけです。
もう殺した人への処置を、悔いても仕方ありません。叛いている人たちの家族のうち、老人や病人を哀れんでやる政策を打てば、前趙は持ち直すことができます。異民族たちは、前趙に降ってくるでしょう。もし、リーダーの善王句渠知だけが、引っ込みがつかずに前趙に対抗を続けるなら、私に弱兵5000をお与え下さい。親征の必要はなく、平定できると思います。
敵軍はすごく数が多いのです。もし劉曜さまが、私の案を採用しなければ、いくら劉曜さまが天威を振りかざして挑んでも、1年そこらでは平定できないでしょう」
曜大悅,以子遠為車騎大將軍、開府儀同三司、都督雍秦征討諸軍事。大赦境內。子遠次於雍城,降者十余萬,進軍安定,氐羌悉下,惟句氏宗党五千余家保存于陰密,進攻平之,遂振旅循隴右,陳安郊迎。
劉曜は大いに悦んだ。劉曜は遊子遠を、車騎大將軍、開府儀同三司、都督雍秦征討諸軍事とした。国内に大赦をした。
遊子遠は、雍城に入った。降伏してきた人は、10余万だった。遊子遠が安定に進軍すると、氐羌がみな降ってきた。
ただ句氏の宗党5000余家だけが、陰密を保って対抗した。遊子遠は、進攻して陰密を平定した。遊子遠は進路を変えて、隴右を回り、陳安郊に入った。
これを書いている今日、台風18号が来て、近年まれに見る大災害だっていうから、有給休暇を取りました。すぐに収まった。外は静かなもので。いま勤務開始時間から、17分経過。これなら会社に行けたな(笑)
せっかくだから、「劉曜伝」を仕上げてしまおう!
虚除伊余との戦い
先是,上郡氐羌十余萬落保險不降,酋大虛除權渠自號秦王。子遠進師至其壁下,權渠率眾來距,五戰敗之。權渠恐,將降,其子伊余大言於眾曰:「往劉曜自來,猶無若我何,況此偏師而欲降之!」率勁卒五萬,晨壓壘門。
これより先、上郡の氐羌10余万落が、険しい地形に籠もって、前趙に降らなかった。酋大虚除權渠が、自ら「秦王」を名乗っていた。
遊子遠は、壁下まで進軍した。虚除權渠は兵を率いて、遊子遠を防いだ。5戦して、遊子遠が勝利した。
虚除權渠は恐れて、前趙の遊子遠に降ろうとした。ところが、虚除權渠の子・虚除伊余が、兵士たちに大声で呼びかけた。
「かつて劉曜が自ら攻めにきたとき、我ら上郡の氐羌には痛くもかゆくもなかった。まして目の前の敵は、劉曜の本隊ではなく、いち部将の軍勢に過ぎない。どうして降伏する必要があるのものか。打ち破ろう」
虚除伊余は、強兵50000を率いて、明け方に遊子遠の側の塁門を落とした。
左右勸戰,子遠曰:「吾聞伊餘之勇,當今無敵,士馬之強,複非其匹;又其父新敗,怒氣甚盛;且西戎剽勁,鋒銳不可擬也。不如緩之,使氣竭而擊之。」
左右の人は、遊子遠に言った。
「私たちは、虚除伊余の武勇は、当今に無敵と聞いています。士馬の強さは、私たち前趙では匹敵できません。また虚除伊余は、父が私たちに敗れたので、ひどく怒っています。しかも西戎は剽勁で、その鋭鋒に対抗できるものではありません。
前趙の匈奴は、後漢初から、漢の内地で生活した。匈奴は、漢化した。だから匈奴は、漢族でないくせに、後漢のとき三輔を侵し続けた氐羌を「野蛮な戦闘集団」と恐れている。おもしろい。
氐羌の攻撃をいなし、敵の勢いを緩めるのがベストです。虚除伊余に怒気を使い果たさせてから、私たち前趙が反撃しましょう」
乃堅壁不戰。伊餘有驕色。子遠候其無備,夜,誓眾蓐食,晨,大風霧,子遠曰:「天贊我也!」躬先士卒,掃壁而出,遲明覆之,生擒伊餘,悉俘其眾。權渠大懼,被發割面而降。
遊子遠は、城壁を堅くして、戦わなかった。
虚除伊余に、驕りの色が表れた。遊子遠は、虚除伊余の陣で、無防備なところを探した。夜に遊子遠は、兵士たちに寝食を早めに取るように命じた。明け方、大いに風霧が起きた。遊子遠は言った。
「天が私に味方した!」
遊子遠は、自ら軍兵の先に立ち、防御壁を取り払って、出陣した。夜明けに敵軍を覆し、虚除伊余を生擒りにした。虚除伊余の軍を、全て捕虜にした。
父の虚除權渠は、大いに懼れて、被發割面のスタイルで、遊子遠に投降した。
ただ、遊子遠のすごさはチェックしたい。「入りては相、出でては将」である。政策担当ができて、勇敢に戦争もできる。曹操と同じなのだ。
子遠啟曜以權渠為征西將軍、西戎公,分徙伊余兄弟及其部落二十余萬口于長安。西戎之中,權渠部最強,皆稟其命而為寇暴,權渠既降,莫不歸附。
遊子遠は、劉曜に願い出て、虚除權渠を征西將軍、西戎公とした。
虚除伊余(朝霧を利用して奇襲した強敵)の兄弟および、配下の部落20余万口を長安に徙した。
西戎の中で、虚除權渠の部が最強だった。みな虚除權渠の命令を受けて、前趙に対して寇暴を行なっていた。虚除權渠が前趙に降伏すると、全ての西戎が前趙に従った。