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217年、曹丕の立太子、魯粛の死

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

217年春、魏は居巣、呉は濡須で対峙

春,正月,魏王操軍居巢,孫權保濡須,
二月,操進攻之。初,右護軍蔣欽屯宣城, 蕪湖令徐盛收欽屯吏,表斬之。及權在濡須,欽與呂蒙持諸軍節度,欽每稱徐盛之善。 權問之,欽曰:「盛忠而勤強,有膽略器用,好萬人督也。今大事未定,臣當助國求才, 豈敢挾私恨以蔽賢乎!」權善之。

217年春正月。曹操は居巣にきた。孫権は、濡須にとりでした。
217年2月、曹操は孫権を攻めた。
はじめ右護軍の蒋欽は、宣城にいた。蕪湖令の徐盛は、蒋欽の兵をとらえて斬った
孫権が濡須にきた。蒋欽と呂蒙は、諸軍をひきいた。蒋欽は(自分の兵を殺されたのに)徐盛をほめた。孫権は、蒋欽が徐盛をほめる理由をきいた。
「徐盛は、天下統一に役立つ人材です。私情は二の次です」
孫権は、蒋欽をほめた。

三月,操引軍還,留伏波將軍夏侯惇都督曹仁、張遼 等二十六軍屯居巢。權令都尉徐詳詣操請降,操報使修好,誓重結婚。權留平虜將軍周 泰督濡須;硃然、徐盛等皆在所部,以泰寒門,不服。權會諸將,大為酣樂,命泰解衣, 權手自指其創痕,問以所起,泰輒記昔戰鬥處以對。畢,使復服;權把其臂流涕曰: 「幼平,卿為孤兄弟,戰如熊虎,不惜軀命,被創數十,膚如刻畫,孤亦何心不待卿以 骨肉之恩,委卿以兵馬之重乎?」坐罷,住駕,使泰以兵馬道從,鳴鼓角作鼓吹而出。 於是盛等乃服。

217年3月、曹操は軍をもどした。伏波将軍の夏侯惇に、曹仁や張遼ら26軍を、居巣で督させた。
孫権は、都尉の徐詳に、曹操への降伏を申し入れさせた。曹操は孫権と、修好をむすんだ。婚姻して、関係をちかった。

孫権の外交、わかりにくいなあ。

平虜將軍の周泰は、濡須を督した。朱然と徐盛は、周泰の下についた。周泰が寒門の出身だから、朱然と徐盛は、周泰にしたがわない。孫権は、周泰のキズを数えた。徐盛らは、周泰に服した。

有名な話なので、詳細ははぶきます。
夏侯惇と周泰が、おなじタイミングで着任し、向かい合った。この符合のほうが、むしろ興味がある。編年体のありがたみ。


217年夏、天子の旌旗

夏,四月,語魏王操設天子旌旗,出入稱警蹕。
六月,魏以軍師華歆為御史大夫。

217年夏4月、曹操が、天子の旌旗をつかうことが、検討された。
217年6月、魏は軍師の華歆を、御史大夫とした。

217年冬、曹丕を魏王の太子とする

冬,十月,命魏王操冕十有二旒,乘金根車,駕六馬,設五時副車。
魏以五官中郎將丕為太子。
初,魏王操娶丁夫人,無子;妾劉氏,生子昂;卞氏生四子:丕、彰、植、熊。王 使丁夫人母養昂。昂死於穰,丁夫人哭泣無節,操怒而出之,以卞氏為繼室。植性機警, 多藝能,才藻敏贍,操愛之。操欲以女妻丁儀,丕以儀目眇,諫止之。儀由是怨丕,與 弟黃門侍郎廙及丞相主簿楊修,數稱臨菑侯植之才,勸操立以為嗣。修,彪之子也。

217年冬10月、魏王の曹操は、特典をもらった。
五官中郎将の曹丕を、魏王の太子とした。
はじめ曹操は、丁夫人をめとった。劉氏は、曹昂を生んだ。卞氏は、丕、彰、植、熊を生んだ。丁夫人は、曹昂を育てた。曹昂が死ぬと、丁夫人と別れた。卞氏が、正夫人になった。曹操は、曹植の才能を愛した。
曹操は、娘を丁儀に嫁がせようとした。曹丕はが判断した。丁儀は、曹丕をうらんだ。黄門侍郎をつとめる弟の丁廙と、丞相主簿の楊修は、曹植を後継にすすめた。楊修は、楊彪の子である。

操 以函密訪於外,尚書崔琰露板答曰:「《春秋》之義,立子以長。加五官將仁孝聰明, 宜承正統,琰以死守之。」植,琰之兄女婿也。尚書僕射毛玠曰:「近者袁紹以嫡庶不 分,覆宗滅國。廢立大事,非所宜聞。」東曹掾邢顒曰:「以庶代宗,先世之戒也,願 殿下深察之。」丕使人問太中大夫賈詡以自固之術。詡曰:「願將軍恢崇德度,躬素士 之業,朝夕孜孜,不違子道,如此而已。」丕從之,深自砥礪。它日,操屏人問詡,詡 嘿然不對。操曰:「與卿言,而不答,何也?」詡曰:「屬有所思,故不即對耳。」操 曰:「何思?」詡曰:「思袁本初、劉景升父子也。」操大笑。

尚書の崔琰は、長子の曹丕をすすめた。曹植は、崔琰の兄の娘婿なのに、崔琰は曹丕をすすめた。
尚書僕射の毛玠は、袁紹を例にして、曹丕をすすめた。

崔琰も毛玠も、魏王就任に反対して、失脚した。そのあと、曹植派の丁儀が、権力をもった。曹植のとりまきが、強かった。

東曹掾の邢顒と、太中大夫の賈詡も、曹丕をすすめた。賈詡はいった。
「袁紹と劉表の父子を、思っておりました」と。曹操は大笑した。

操嘗出征,丕、植並送 路側,植稱述功德,發言有章,左右屬目,操亦悅焉。丕悵然自失,濟陰吳質耳語曰: 「王當行,流涕可也。」及辭,丕涕泣而拜,操及左右鹹歔欷,於是皆以植多華辭而誠 心不及也。植既任性而行,不自雕飾,五官將御之以術,矯情自飾,宮人左右並為之稱 說,故遂定為太子。

かつて曹操が出征するとき。曹丕と曹植は、曹操を見送った。曹丕は、濟陰の呉質から「泣きなさい」とアドバイスされた。曹植は、きれいな詩をつくった。曹植は、生活態度が悪いから、曹丕が太子となった。

左右長御賀卞夫人曰:「將軍拜太子,天下莫不喜,夫人當傾府藏 以賞賜。」夫人曰:「王自以丕年大,故用為嗣。我但當以免無教導之過為幸耳,亦何 為當重賜遺乎?」長御還,具以語操,操悅,曰:「怒不變容,喜不失節,故最為難。」

左右長は、卞夫人を祝った。「曹丕が決まってよかったですね」
卞夫人は「曹丕は年長だから、選ばれただけ。べつに、祝うことはありません」と答えた。曹操は卞夫人の様子を聞き、卞夫人を感心した。
「怒りや喜びを、おもてに出さないのが、もっとも難しい」

曹丕と曹植の人選は、『資治通鑑』で重視されている。司馬光が想定した読者・皇帝が、後継えらびをするとき、参考にさせる魂胆だろう。


太子抱議郎辛毘頸而言曰:「辛君知我喜不?」毘以告其女憲英,憲英歎曰:「太子, 代君主宗廟、社稷者也。代君,不可以不戚;主國,不可以不懼。宜戚宜懼,而反以為 喜,何以能久!魏其不昌乎!」久之,臨菑侯植乘車行馳道中,開司馬門出。操大怒, 公車令坐死。由是重諸侯科禁,而植寵日衰。植妻衣繡,操登台見之,以違制命,還家 賜死。

曹丕は、議郎の辛毘のくびに抱きつき、喜んだ。辛毗の娘・辛憲英は、曹丕のかるさを避難した。「魏は、さかえないだろう」
のちに曹植は、司馬門から出た。曹植は、日に日に愛されなくなった。曹植の妻は、殺された。

217年、劉備が漢中を攻め、魯粛が死ぬ

法正說劉備曰:「曹操一舉而降張魯,定漢中,不因此勢以圖巴、蜀,而留夏侯淵、 張郃屯守,身遽北還,此非其智不逮而力不足也,必將內有憂逼故耳。今策淵、郃才略, 不勝國之將帥,舉眾往討,必可克之。克之之日,廣農積穀,觀釁伺隙,上可以傾覆寇 敵,尊獎王室;中可以蠶食雍、涼,廣拓境土;下可以固守要害,為持久之計。此蓋天 以與我,時不可失也。」備善其策,乃率諸將進兵漢中,遣張飛、馬超、吳蘭等屯下辨。 魏王操遣都護將軍曹洪拒之。

法正は、劉備に説いた。
「今こそ、漢中にいる夏侯淵と張郃を、攻めるべきです」
劉備は、漢中に出陣した。張飛、馬超、呉蘭らは、下弁に屯した。曹操は、都護将軍の曹洪に、劉備をふせがせた。

魯肅卒,孫權以從事中郎彭城嚴畯代肅,督兵萬人鎮陸口。眾人皆為畯喜,畯固辭 以「樸素書生,不閒軍事」,發言懇惻,至於流涕。權乃以左護軍虎威將軍呂蒙兼漢昌 太守以代之。眾嘉嚴畯能以實讓。

魯粛が死んだ。孫権は、從事中郎をつとめる彭城の嚴畯を、魯粛に代えようとした。だが厳畯は、涙を流して、軍事職をイヤがった。孫権は、左護軍・虎威將軍の呂蒙を、陸口においた。呂蒙は、漢昌太守をかねた。兵たちは、厳畯の謙譲をほめた。

魯粛とおなじ、徐州出身の厳畯から、呂蒙へ。この人事については、じっくり考えなければならない。ぼくは、孫権が君主権力をかためる過程だと思ってます。


定威校尉吳郡陸遜言於孫權曰:「方今克敵寧亂,非眾不濟;而山寇舊惡,依阻深 地。夫腹心未平,難以圖遠,可大部伍,取其精銳。」權從之,以為帳下右都督。會丹 楊賊帥費棧作亂,扇動山越。權命遜討棧,破之。遂部伍東三郡,強者為兵,羸者補戶, 得精卒數萬人。宿惡蕩除,所過肅清,還屯蕪湖。會稽太守淳於式表「遜枉取民人,愁 擾所在。」遜後詣都,言次,稱式佳吏。權曰:「式白君,而君薦之,何也?」遜對曰: 「式意欲養民,是以白遜。若遜復毀式以亂聖聽,不可長也。」權曰:「此誠長者之事, 顧人不能為耳。」

定威校尉をつとめる吳郡の陸遜は、孫権にいった。
「山越を平定しましょう」


魏王操使丞相長史王必典兵督許中事。時關羽強盛,京兆金禕睹漢祚將移,乃與少 府耿紀、司直韋晃、太醫令吉本、本子邈、邈弟穆等謀殺必,挾天子以攻魏,南引關羽 為援。

曹操は、丞相長史の王必に、典兵督許中事。??
ときに関羽が強盛だ。関羽を引き入れて、曹操をたおすクーデターがあった。クーデターをしたのは、京兆の金禕、少 府の耿紀、司直の韋晃、太醫令の吉本、吉本の子・吉邈、吉邈の弟・吉穆らだ。101110

魯粛が死んだのと同時に、諸葛亮の戦略が発動。劉備が法正に勧められ、漢中に進出。関羽が、金禕や耿紀とつながり、許都でクーデター。このタイミングの一致は、なにかウラがあるのか?