表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

166年秋、太学派の太守が宦官を弾圧

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

166年春、荀爽が後宮批判、皇甫規が引退希望

孝桓皇帝中延熹九年(丙午,公元一六六年)
春,正月,辛卯朔,日有食之。詔公卿、郡國舉至孝。太常趙典所舉荀爽對策曰: 「昔者聖人建天地之中而謂之禮,眾禮之中,昏禮為首。陽性純而能施,陰體順而能化, 以禮濟樂,節宣其氣,故能豐子孫之祥,致老壽之福。及三代之季,淫而無節,陽竭於 上,陰隔於下,故周公之戒曰:『時亦罔或克壽。』《傳》曰:『截趾適屨,孰雲其愚, 何與斯人,追欲喪軀。』誠可痛也。臣竊聞後宮采女五六千人,從官、侍使復在其外, 空賦不辜之民,以供無用之女,百姓窮困於外,陰陽隔塞於內,故感動和氣,災異屢臻。 臣愚以為諸未幸御者,一皆遣出,使成妃合,此誠國家之大福也。」詔拜郎中。司隸、 豫州饑,死者什四五,至有滅戶者。

166年春正月辛卯ついたち、日食した。公卿と郡國に、至孝な人材を挙げさせた。太常の趙典は、荀爽を挙げた。荀爽は、桓帝に対策した。
「宮女が、5、6千人は多すぎる。維持費が、百姓を圧迫する。宮女をクビせよ」と。荀爽は、郎中になった。

われらが、荀爽のデビュー戦! 宮女は、減ってなさそうだが。165年夏、劉瑜は、さんざん桓帝を批判したが、議郎になった。就職試験の作文は、何を書いても、すこしは大目に見られるらしい。提言は、実行されないが。


司隸、 豫州饑,死者什四五,至有滅戶者。
詔征張奐為大司農,復以皇甫規代為度遼將軍。規自以連在大位,欲求退避,數上 病,不見聽。會友人喪至,規越界迎之,因令客密告并州刺史胡芳,言規擅遠軍營,當 急舉奏。芳曰:「威明欲避第仕塗,故激發我耳。吾當為朝廷愛才,何能申此子計邪!」 遂無所問。

司隷と豫州が、飢えた。4割や5割が、死んだ。戸を滅する家もあった。

胡三省はいう。戸とは、公式の戸籍に記されるもの。いまの「滅戸」とは、老人も幼児もふくめて、みな飢え死にしたことを言う。もう、家族は残っていない。
ぼくは思う。司隷と豫州は、気候が類似して、おなじ時期に飢えるのですね。豫州は、司隷と揚州をつなぐから、関心がある。

張奐を、大司農とした。ふたたび皇甫規を、度遼将軍とした。皇甫規は、ずっと高位にいるから、引退したい。皇甫規は、病気を口実に、なんども引退を願った。桓帝は、皇甫規を引退させない。たまたま皇甫規は、友人の葬儀に出るため、境界を越えた。并州刺史の胡芳は、密告を受けたが、握りつぶした。皇甫規は、罪に問われず。

胡三省はいう。度遼将軍は、西河の境界にいる。并州刺史の管轄だ。
ぼくは思う。皇甫規と張奐は、梁冀につらなる人材。桓帝と宦官から見れば、ウザい人脈である。「皇甫規が、病気のくせに動いた」と密告したのは、宦官につらなる人物だろう。


166年夏、檀石槐が、南匈奴と烏桓をまとめる

夏,四月,濟陰、東郡、濟北、平原河水清。 司徒許栩免;
五月,以太常胡廣為司徒。 庚午,上親祠老子於濯龍宮,以文罽為壇飾,淳金釦器,設華蓋之坐,用郊天樂。 鮮卑聞張奐去,招結南匈奴及烏桓同叛。六月,南匈奴、烏桓、鮮卑數道入塞,寇 掠緣邊九郡。

166年夏4月、濟陰、東郡、濟北、平原で、黄河が清んだ。 司徒の許栩をやめた。
5月、太常の胡廣を、司徒とした。5月庚午、桓帝は老子を、濯龍宮に祭る。老子の祠を、装飾した。
鮮卑は、張奐が去ったと聞いた。鮮卑は、南匈奴と烏桓とむすび、ともに叛いた。166年6月、南匈奴、烏桓、鮮卑は、いくつもの道から、後漢に進入した。国境の9郡が、寇掠された。

165年秋、党人の権力が、太学で発生する

秋,七月,鮮卑復入塞,誘引東羌與共盟詛。於是上郡沈氐、安定先零諸 種共寇武威、張掖,緣邊大被其毒。詔復以張奐為護匈奴中郎將,以九卿秩督幽、並、 涼三州及度遼、烏桓二營,兼察刺史、二千石能否。

165年秋7月、鮮卑が国内に侵入。鮮卑は、東羌と同盟した。上郡の沈氐、安定の先零諸 種は、ともに武威、張掖ら、辺境を寇した。張奐を護匈奴中郎將とした。張奐は、九卿とおなじ秩禄を与えた。

胡三省はいう。護匈奴中郎将は、比二千石。九卿は、中二千石。

張奐は、幽州、并州、涼州と、度遼、烏桓の2軍営を督した。張奐は、刺史と太守の人事評価もする。

ぼくは思う。張奐は「鮮卑の檀石槐、対策委員長」である。檀石槐と国境を接する地域で、張奐にほぼ全権をゆだねた。わるく言えば、まる投げである。


初,帝為蠡吾侯,受學於甘陵周福,及即位,擢福為尚書。時同郡河南尹房植有名 當朝,鄉人為之謠曰:「天下規矩,房伯武;因師獲印,周仲進。」二家賓客,互相譏 揣,遂各樹朋徒,漸成尤隙。由是甘陵有南北部,黨人之議自此始矣。

はじめ桓帝は、蠡吾侯だ。桓帝は、甘陵の周福に学問を習った。桓帝が即位し、周福は尚書に抜擢された。ときに、河南尹する同郡の房植は、朝廷で有名だ。甘陵の人は、謡った。「天下の規矩は、房植。でも官位の口利きなら、周福へ」と。周福と房植の賓客は、そしりあう。甘陵は、南北に分裂した。党人の議は、ここに始まった。

胡三省はいう。「揣」とは、はかること。軽重や長短を議論して、相手を批判する。
ぼくは思う。党人の本性は、私的な派閥。そしりあうのが、宿命。党人が「名士」に発展しても、派閥に分裂する。君主権力に、一致団結して対抗できない。これが渡邉義浩氏の議論だったっけ。いまの甘陵みたいに、地域を南北に分けてまで、対立するんだなあ。人脈と地縁が、一致しているのがおもしろい。
いま周福は、桓帝と個人的につながり、宦官につらなる派閥っぽい。房植は、陳蕃につらなる派閥っぽい。甘陵の対立構図は、全国の傾向とおなじだ。


汝南太守宗資以 范滂為功曹,南陽太守成□以岑晊為功曹,皆委心聽任,使之褒善糾違,肅清朝府。滂 尤剛勁,疾惡如仇。滂甥李頌,素無行,中常侍唐衡以屬資,資用為吏;滂寢而不召。 資遷怒,捶書佐硃零,零仰曰:「范滂清裁,今日寧受笞而死,滂不可違。」資乃止。 郡中中人以下,莫不怨之。於是二郡為謠曰:「汝南太守范孟博,南陽宗資主畫諾;南 陽太守岑公孝,弘農成□但坐嘯。」

汝南太守の宗資は、范滂を功曹とした。南陽太守の成晋は、岑晊を功曹とした。どちらも善政した。

ぼくは補う。成晋の名は、正しくは[王晋]です。書体がないので代用。

范滂は、もっとも剛勁だ。范滂の甥は、李頌だ。李頌は、素行がわるい。また(范滂の上司)汝南太守の宗資は、中常侍の唐衡の下についた。宗資が汝南太守となったのは、唐衡のおかげだ。
范滂は寝そべって、宗資の召集にこたえない。宗資は怒って、范滂を殺せと命じた。だが宗資は、部下に諭された。「范滂は、清裁です。もしムチで殺されても、范滂は間違いを犯さないでしょう」と。宗資は、范滂の殺害をやめた。郡中の人は、みな范滂を怨んだ。 汝南と南陽で、謡われた。「汝南太守は、范滂だ。南陽の宗資は、范滂の言いなりだ。南陽太守は、岑晊だ。弘農の成晋は、ただ嘯くだけ」と。

ぼくは思う。唐衡、李頌のストーリーが、よく分かっていません。
ぼくは補う。汝南と南陽で謡われたのは。「太守は、功曹の言いなりだ。ぎゃくに功曹が、太守みたいなものだ」という内容だろう。范滂や岑晊のように、いわゆる「清い」人が、なぜ権力を持ちえたか。なぜ宦官につらなる太守を、圧倒できたか。権力の根拠が分からない。根拠は、郡内の支持ではなさそう。謡われた内容では、「清い」人の横暴を、からかっているように聞こえる。快哉!ではなかろう。
権力の根拠は、以下ではなかろう。「後漢の国教は、儒教だ。儒教から見て、正しい議論ができる人が、権力を持って当然」と。そんなリクツは、現実世界では通じないのだ。


太學諸生三萬餘人,郭泰及穎川賈彪為其冠,與李膺、陳蕃、王暢更相褒重。學中 語曰:「天下模楷,李元禮;不畏強禦,陳仲舉;天下俊秀,王叔茂。」於是中外承風, 競以臧否相尚,自公卿以下,莫不畏其貶議,屣履到門。

太學の諸生は、3万餘人だ。郭泰と穎川の賈彪は、諸生のトップだ。李膺、陳蕃、王暢とともに、ほめられた。太學のなかで言う。「天下の模楷は、李膺。強禦を畏れない、陳蕃。天下の俊秀は、王暢」と。

ぼくは思う。「清い」人の権力基盤は、太学のようだ。ただの学び舎じゃ、なさそう。生産しない3万余人を、やしなうパトロンがいる。太学という場をつかい、パトロンたちが結びつく。名づけるなら、「太学派」だろうか。梁冀のつぎに、桓帝をふさぐのは、太学派だ。梁冀の姉・梁皇后の遺産だ。
首都の洛陽に、3万余人がいたら、一大勢力だ。無視できない。洛陽に、何人の役人がいるのか。調べれば分かりそうだが、また後日。太学の3万余人と比べて、どちらが多いのだろうか。っていうか、洛陽の人口は何人だろう。人数に誇張があるせいで、洛陽が、太学生だけで埋まらないよな。笑

太学が、内外に影響をもつ。たがいに競って、善悪を議論した。公卿より以下は、太学で批難されることを畏れた。太学の門前に挨拶にきた。

ぼくは思う。どういう来歴のある人でも、いちど権力をもてば、似てくる。権力者への周囲の対応も、似てくる。「金に清い」という建前は、無意味だと思う。いやがおうにも、権力にはお金がつき物だから。いま太学は、新しい権力の発行元になった。


165年秋、太守たちが宦官を取り締まり、有罪

宛有富賈張汎者,與後宮有親,又善雕鏤玩好之物,頗以賂遺中宮,以此得顯位, 用勢縱橫。岑晊與賊曹史張牧勸成□收捕汎等,既而遇赦;□竟誅之,並收其宗族賓客, 殺二百餘人,後乃奏聞。小黃門晉陽趙津,貪橫放恣,為一縣巨患。太原太守平原劉□ 質使郡吏王允討捕,亦於赦後殺之。於是中常侍侯覽使張泛妻上書訟冤,宦官因緣譖訴 □、□質。帝大怒,征□、□質,皆下獄。有司承旨,奏□、□質罪當棄市。

宛県に、張汎という富商がいた。張汎は、後宮に珍宝をいれる。張汎は、宦官にワイロをする。張汎は、権勢をもった。南陽功曹の岑晊は、南陽太守の成晋に、富商の張汎を捕えよと言った。だが張汎は、赦された。

ぼくは補う。上で見ました。南陽功曹の岑晊は、太守の成晋をさしおき、采配する。

岑晊は、張汎を殺した。張汎の宗族や賓客を、2百余人殺した。事後報告した。

岑晊の話は、いちどここで小休止。以下、同内容の話、2つめ。

小黃門する晉陽の趙津は、1県で巨きな患いをなした。
太原太守する平原の劉質は、郡吏の王允に、趙津を捕えさせた。太原太守の劉質は、趙津を殺した。

ぼくは補う。太原太守の名は、[王質]です。漢字が出ないので代用。
太原の郡吏・王允とは、のちに董卓を殺す王允だろう。ちょい役で、登場した。胡三省は注釈してないが、きっと同一人物。 胡三省は、前に遡って注釈はするが、後の展開を予言しない。キリがないからだろう。だが董卓だけは、例外だ。「これが、董卓の初登場」と書いてもらえる。あとで、出てくる。

中常侍の侯覽は、上書した。富商の張汎の妻を、赦免せよと。宦官は、南陽太守の成晋と、太原太守の劉質を、おとしいれた。桓帝は2人を下獄し、棄市とした。

太守が、宦官に連なる人物を殺す。宦官が、太守に報復する。この連鎖です。もっとも、岑晊に言いなりの成晋は、どこまで宦官をつぶす意思があったか、不明だ。


山陽太守翟超以郡人張儉為東部督郵。侯覽家在防東,殘暴百姓。覽喪母還家,大 起塋塚。儉舉奏覽罪,而覽伺候遮截,章竟不上。儉遂破覽塚宅,藉沒資財,具奏其狀, 復不得御。
徐璜兄子宣為下邳令,暴虐尤甚。嘗求故汝南太守李暠女不能得,遂將吏卒 至家,載其女歸,戲射殺之。東海相汝南黃浮聞之,收宣家屬,無少長,悉考之。掾史 以下固爭,浮曰:「徐宣國賊,今日殺之,明日坐死,足以瞑目矣!」即案宣罪棄市, 暴其屍,於是宦官訴冤於帝,帝大怒,超、浮並坐髡鉗,輸作右校。

山陽太守の翟超は、郡人の張儉を、東部督郵とした。侯覧の家が、防東県にある。侯覧が母の墓を飾りすぎた。張倹は、侯覧の母の墓をこわし、家財を没収した。

『考異』はいう。袁宏はいう。張倹は、平陵にゆき、侯覧の母に会った。張倹は、剣をつかんで言った。「女子が、平陵を督郵するとは、何ごとか。賊ではないか」と。張倹は、侯覧の母を殺した。張倹は100余人を殺した。道路に死体をつんだ。園宅も家畜も器物も、すべて壊したと。
『後漢書』苑康伝はいう。張倹は、侯覧の母を殺した。侯覧は、張倹を日南にうつしたと。陳蕃伝はいう。翟超が侯覧を没収したと。張倹は、出てこない。司馬光が見るに、どの記事も、張倹が侯覧の母を殺したと言わない。苑康伝は、誤りだ。だから張倹は、日南に徙されなかったと考える。これを、『資治通鑑』に記さない。
また侯覧伝では、建寧二年に、侯覧の母が死んだとある。年代がおかしい。

宦官・徐璜の兄子は、徐宣だ。徐宣は下邳令となり、もと汝南太守の李暠の娘を、嫁にもとめた。断られると、徐宣は李暠の娘をうばい、戯れに射殺した。東海相する汝南の黄浮は、徐宣の家属をとらえた。「徐宣は、国賊だ。徐宣を殺せれば、私(黄浮)は明日に死んでもいい」と。黄浮は、徐宣の家属を、棄市した。
宦官は、桓帝に訴えた。桓帝は大怒した。山陽太守の翟超と、東海相の黄浮を、髡鉗して、輸作右校した。

ぼくは思う。史書の体裁をたもつため、「訴冤は、帝に訴冤す」とする。つまり、冤罪をつくったのは宦官で、桓帝はだまされた側だとする。そんなはず、ない。
ぼくなりに例えれば。宦官は、桓帝の手足だ。宦官の子弟は、桓帝の指だ。宦官の賓客は、桓帝の爪だ。桓帝は、事情を知っていて、太守たちを弾圧している。べつに桓帝は「民主主義のリーダー」ではない。古代の皇帝なんだ。それくらいの自分勝手は、当然だ。


次回、第一次、党錮の禁がおきます。