表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

166年冬、李膺が党錮の禁に座す

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

166年秋、陳蕃と襄楷が、宦官を批判する

太尉陳蕃、司空劉茂共諫,請□、□質、超、浮等罪;帝不悅。有司劾奏之,茂不 敢復言。蕃乃獨上疏曰:「今寇賊在外,四支之疾;內政不理,心腹之患。臣寢不能寐, 食不能飽,實憂左右日親,忠言日疏,內患漸積,外難方深。陛下超從列侯,繼承天位, 小家畜產百萬之資,子孫尚恥愧失其先業,況乃產兼天下,受之先帝,而欲懈怠以自輕 忽乎!誠不愛己,不當念先帝得之勤苦邪!前梁氏五侯,毒遍海內,天啟聖意,收而戮 之。天下之議,冀當小平;明鑒未遠,覆車如昨,而近習之權,復相扇結。小黃門趙津、 大猾張泛等,肆行貪虐,奸媚左右。前太原太守劉□質、南陽太守成□糾而戮之,雖言 赦後不當誅殺,原其誠心,在乎去惡,至於陛下,有何悁悁!而小人道長,營惑聖聽, 遂使天威為之發怒,必加刑謫,已為過甚,況乃重罰令伏歐刀乎!又,前山陽太守翟超、 東海相黃浮,奉公不橈,疾惡如仇,超沒侯覽財物,浮誅徐宣之罪,並蒙刑坐,不逢赦 恕。覽之從橫,沒財已幸;宣犯釁過,死有餘辜。昔丞相申屠嘉召責鄧通,雒陽令董宣 折辱公主,而文帝從而請之,光武加以重賞,未聞二臣有專命之誅。而今左右群豎,惡 傷黨類,妄相交構,致此刑譴,聞臣是言,當復啼訴。陛下深宜割塞近習與政之源,引 納尚書朝省之士,簡練清高,斥黜佞邪。如是天和於上,地洽於下,休禎符瑞,豈遠乎 哉!」帝不納。宦官由此疾蕃彌甚,選舉奏議,輒以中詔譴卻,長史以下多至抵罪,猶 以蕃名臣,不敢加害。

太尉の陳蕃と、司空の劉茂は、成晋、劉質、翟超、黄浮を赦せと言った。

『考異』はいう。陳蕃伝はいう。司徒の劉矩と。ときに胡広が司徒だ。劉矩でない。

桓帝は、悦ばず。有司が、陳蕃と劉戊をせめた。劉茂は、だまった。陳蕃は、ひとりで上疏した。「桓帝は、梁氏の五侯を殺しました。天下は、小平をねがいました。だが桓帝は、宦官に味方し、成晋、劉質、翟超、黄浮を捕えました。彼らは悪くないから、赦しなさい」と。桓帝は、陳蕃を認めず。宦官は、陳蕃をうとむ。陳蕃のもとの長史より以下は、罪を受けた。だが陳蕃は、名臣だから、害をうけず。

ぼくは思う。「名臣」って、何のことだか、分からないなあと。きっと、太学派の人脈のことを、指す。陳蕃に危害を加えたら、もっと大きな報復を受ける。この損得計算により、宦官は陳蕃に手を出さない。
洛陽の地図を、見たい。桓帝を中心に、宦官がいる。陳蕃を中心に、太学生がいる。ひとつの都で、2つの拠点が、せめぎあっている。太学を、現代日本の大学とおなじ、「都会の公園」みたいな場所だと思っては、いけない。軍事拠点かと、思われるほどだ。


平原襄楷詣闕上疏曰:「臣聞皇天不言,以文象設教。臣竊見太微、天廷五帝之坐, 而金、火罰星揚光其中,於占,天子兇;又俱入房、心,法無繼嗣。前年冬大寒,殺鳥 獸,害魚鱉,城傍竹柏之葉有傷枯者。臣聞於師曰:『柏傷竹枯,不出二年,天子當 之。』今自春夏以來,連有霜雹及大雨雷電,臣作威作福,刑罰急刻之所感也。太原太 守劉□質,南陽太守成□,志除奸邪,其所誅翦,皆合人望。而陛下受閹豎之譖,乃遠 加考逮。三公上書乞哀□質等,不見采察而嚴被譴讓,憂國之任,將遂杜口矣。臣聞殺 無罪,誅賢者,禍及三世。自陛下即位以來,頻行誅罰,梁、寇、孫、鄧並見族滅,其 從坐者又非其數。李雲上書,明主所不當諱;杜眾乞死,諒以感悟聖朝;曾無赦宥而並 被殘戮,天下之人鹹知其冤,漢興以來,未有拒諫誅賢,用刑太深如今者也。昔文王一 妻,誕致十子;今宮女數千,未聞慶育,宜修德省刑以廣《螽斯》之祚。案春秋以來, 及古帝王,未有河清。臣以為河者,諸侯位也。清者,屬陽;濁者,屬陰。河當濁而反 清者,陰欲為陽,諸侯欲為帝也。京房《易傳》曰:『河水清,天下平。』今天垂異, 地吐妖,人癘疫,三者並時而有河清,猶春秋麟不當見而見,孔子書之以為異也。願賜 清閒,極盡所言。」書奏,不省。

平原の襄楷は、上疏した。「天文が、天子にとって凶です。罪のない太守を、罰してはいけない。桓帝は即位してから、梁、寇、孫、鄧氏を族滅させました。李雲と杜衆は、桓帝のために発言しましたが、報われなかった」と。

李賢はいう。梁冀、寇栄、孫寿、鄧萬世のことだ。

桓帝は、襄楷の上疏をかえりみず。

十餘日,復上書曰:「臣聞殷紂好色,妲己是出;葉公好龍,真龍游廷。今黃門、 常侍,天刑之人,陛下愛待,兼倍常寵,系嗣未兆,豈不為此!又聞宮中立黃、老、浮 屠之祠,此道清虛,貴尚無為,好生惡殺,省欲去奢。今陛下耆欲不去,殺罰過理,既 乖其道,豈獲其祚哉!浮屠不三宿桑下,不欲久生恩愛,精之至也;其守一如此,乃能 成道。今陛下淫女艷婦,極天下之麗,甘肥飲美,單天下之味,奈何欲如黃、老乎!」 書上,即召入,詔尚書問狀。楷言:「古者本無宦臣,武帝末數游後宮,始置之耳。」 尚書承旨,奏:「楷不正辭理,而違背經藝,假借星宿,造合私意,誣上罔事,請下司 隸正楷罪法,收送雒陽獄。」帝以楷言雖激切,然皆天文恆象之數,故不誅;猶司寇論 刑。
自永平以來,臣民雖有習浮屠術者,而天子未之好;至帝,始篤好之,常躬自禱祠, 由是其法侵盛,故楷言及之。

10余日して、ふたたび襄楷は上書した。「桓帝は、黄帝、老子、浮屠の祠をつくった。だが桓帝は、女色と飲食がすきだ。矛盾している」と。襄楷は、宦官を批判した。
尚書は言った。「襄楷は、天文にかこつけ、私見を押しつける。洛陽の獄にくだせ」と。桓帝は、襄楷の言葉はキツいが、襄楷が天文を読む能力は確かなので、司寇(2年)刑とした。
永平年間(後漢の明帝)に、仏教が伝わった。だが天子は、仏教を好まず。桓帝のとき、はじめて仏教の祠をつくった。仏教は、盛んになった。だから襄楷は、こんな上書をしたのだ。

南朝になると、仏教皇帝が出てきます。まだ300年かかる。


166年秋、太守たちが赦される

符節令汝南蔡衍、議郎劉瑜表救成□、劉□質,言甚切厲,亦坐免官。□、□質竟 死獄中。□、□質素剛直,有經術,知名當時,故天下惜之。岑晊、張牧逃竄獲免。

符節令する汝南の蔡衍と、議郎の劉瑜は、上表した。成晋と劉質を救いたい。蔡衍と劉瑜は、免官された。成晋と劉質は、獄中で死んだ。岑晊と張牧は、死なずに逃げられた。

胡三省はいう。符節令とは、秩600石。符節台をひきい、符節をつかさどる。少府に属す。
ぼくは補う。岑晊とともに逃げた張牧は、『資治通鑑』ではじめて出てきた?


晊 之亡也,親友競匿之;賈彪獨閉門不納,時人望之。彪曰:「傳言『相時而動,無累後 人。』公孝以要君致釁,自遺其咎,至已不能奮戈相待,反可容隱之乎!」於是鹹服其 裁正。
彪嘗為新息長,小民困貧,多不養子;彪嚴為其制,與殺人同罪。城南有盜劫害 人者,北有婦人殺子者。彪出案驗,掾吏欲引南,彪怒曰:「賊寇害人,此則常理;母 子相殘,逆天違道!」遂驅車北行,案致其罪。城南賊聞之,亦面縛自首。數年間,人 養子者以千數。曰:「此賈父所生也。」皆名之為賈。

岑晊がにげた。親友は、きそって岑晊をかくまう。賈彪は、岑晊を門に入れない。賈彪は理由を答えた。「最後まで責任と取れないのに、かくまうべきでない」と。
かつて賈彪は、新息(汝南郡)の県長となった。困窮して、子を養わない親を、殺人と同罪とした。数年して、子供が千人は救われた。みな「私の父は、賈彪です」と言った。姓に賈氏を名のった。

166年秋、第一次、党錮の禁がおこる

河內張成,善風角,推占當赦,教子殺人。司隸李膺督促收捕,既而逢宥獲免;膺 愈懷憤疾,竟案殺之。成素以方伎交通宦官,帝亦頗訊其占;宦官教成弟子牢修上書, 告「膺等養太學游士,交結諸郡生徒,更相驅馳,共為部黨,誹訕朝廷,疑亂風俗。」 於是天子震怒,班下郡國,逮捕黨人,佈告天下,使同忿疾。

河内の張成は、吉凶を占う人だ。張成は、殺人をさせた。司隷校尉の李膺は、張成を捕えた。張成は赦された。李膺は怒り、張成を殺した。張成は、宦官と交わった。桓帝は、張成の占いをきいた。宦官は、張成の弟子に、上書させた。「李膺ら、太学の游士は、徒党をくみ、風俗を乱す」と。桓帝は怒り、郡国にふれて、党人を捕えた。

ぼくは思う。太学を弾圧したいのは、桓帝である。宦官に上書をつくらせ、桓帝がそれ読んで怒り、、という手続が、必要なんだろう。もしくは、歴史書の定型文。実際にはそうでなくても、そうだったように、文飾しなければならない。
もし桓帝が、宦官に踊らされているとしたら。「党人を弾圧した、汚職する宦官のボス」という汚名は、消えるだろう。しかし、「直属の部下すら、制御できない無能な皇帝」という汚名をかぶる。ぼくなら、前者の汚名のほうが、ほしい。そして桓帝の実際も、前者だっただろう。
いま、第一次党錮の禁が、始まりました。


案經三府,太尉陳蕃卻之 曰:「今所案者,皆海內人譽,憂國忠公之臣,此等猶將十世宥也,豈有罪名不章而致 收掠者乎!」不肯平署。帝愈怒,遂下膺等於黃門北寺獄,其辭所連及,太僕穎川杜密、 御史中丞陳翔及陳寔、范滂之徒二百餘人。或逃遁不獲,皆懸金購募,使者四出相望。 陳寔曰:「吾不就獄,眾無所恃。」乃自往請囚。

桓帝の命令は、三公の府をまわった。太尉の陳蕃は、通達をたたいた。「いま指名手配されたのは、海内のほまれ、憂國忠公の臣だ。どうして彼らを捕えるか」と。陳蕃は、桓帝の命令に、署名せず。いよいよ桓帝は怒った。李膺とらを、黃門北寺獄にくだした。太僕する穎川の杜密や、御史中丞の陳翔陳寔、范滂ら、200余人が連座した。逃げたら、賞金がかかった。陳寔は言った。「私が獄にゆかねば、他の士人は安心して獄にゆけない」と。陳寔は、みずから獄にゆく。

范滂至獄,獄吏謂曰:「凡坐系者, 皆祭皋陶。」滂曰:「皋陶,古之直臣,知滂無罪,將理之於帝,如其有罪,祭之何 益!」眾人由此亦止。陳蕃復上書極諫,帝諱其言切,托以蕃辟召非其人,策免之。

范滂は、獄にゆく。獄吏が、范滂に言った。「つかまった人は、皋陶を祭る」と。范滂は反論した。「皋陶は、古代の直臣だ。ただし私の無罪は、天が知っている。皋陶を祭る必要はない」と。太学派は、皋陶を祭るのをやめた。

胡三省は、皋陶を注釈しない。ググッた知識を書くのは、気が引けるので、後日の課題。

陳蕃は上書をくり返した。陳蕃は、わるい人材を辟召した罪で、免官された。

『考異』はいう。袁宏はいう。李膺は9月に下獄された。范曄はいう。陳蕃は7月に免ぜられた。陳蕃伝はいう。陳蕃は「李膺を釈放せよ」と言ったと。李膺は、翌年の6月に赦される。ふたたび獄に下って死ぬのは、建寧2年10月だ。陳蕃は、166年7月に免じられてしまうから、時期が合わない。「李膺を釈放せよ」という上書を、陳蕃が書いていないかも。


166年秋、皇甫規と杜密は、党錮されない

時黨人獄所染逮者,皆天下名賢,度遼將軍皇甫規,自以西州豪桀,恥不得與,乃 自上言:「臣前薦故大司農張奐,是附黨也。又,臣昔論輸左校時,太學生張鳳等上書 訟臣,是為黨人所附也,臣宜坐之。」朝廷知而不問。

天下の名賢が、捕えられた。度遼将軍の皇甫規は、西州の豪桀を自認する。李膺に連座しないことを、恥じた。

つかまっても、牢獄で毎日ムチに打たれない。判決は、まだだから。政治犯を、いちじ閉じこめただけ。政治の主導権争いの結果、いつでも起こりそうなこと。やりすぎではない。三国の解説本なんかでは、後漢の滅亡を単純化して、「恐怖の大弾圧が、2度にわたって行われ」という、ホロコーストなトーンで書かれるが、ウソ。
皇甫規が恥じたのは、皇甫規がマゾだからではない。また第1次の党錮が、甘っちょろく、半分遊びめいたからでない。「罰されたほうが、名声が得られる」なんて、打算でもない。
例えば会社で、人望のある専務(陳蕃)が、社長(桓帝)と対立して辞職し、別会社を起こした。専務を慕い、人材がゴソッと移籍した。海外出張していた営業部長(皇甫規)は、移籍の手続が遅れた。帰国して、あわてて辞表を書いた。こんな感じ。

皇甫規は、上書した。「私は、かつて大司農の張奐を推薦した。張奐と私は、同類です。また私が論輸左校されたとき、太學生の張鳳らが上書して、私を助けた。私は党人だ。免ぜよ」と。朝廷は、皇甫規の人脈を知るが、皇甫規をクビにしない。

ぼくは思う。辺境の守備は、適任者がやるべきだ。桓帝が梁冀の人材を一掃したとき、辺境の人事は、変更しなかった。また、桓帝や宦官と仲がいいのは段熲だが、段熲は異民族にきびしすぎる。皇甫規のような人材が、憎らしいけど、辺境には必要だ。


杜密素與李膺名行相次,時人謂 之李、杜,故同時被系。密嘗為北海相,行春,到高密,見鄭玄為鄉嗇夫,知其異器, 即召署郡職,遂遣就學,卒成大儒。後密去官還家,每謁守令,多所陳托。同郡劉勝, 亦自蜀郡告歸鄉里,閉門掃軌,無所幹及。太守王昱謂密曰:「劉季陵清高士,公卿多 舉之者。密知昱以激己,對曰:「劉勝位為大夫,見禮上賓,而知善不薦,聞惡無言, 隱情惜己,自同寒蟬,此罪人也。今志義力行之賢而密達之,違道失節之士而密糾之, 使明府賞刑得中,令問休揚,不亦萬分之一乎!」昱慚服,待之彌厚。

杜密は、李膺と名声をならべる。みな杜密も、捕われると考えた。
かつて杜密は、北海相となった。春に高密についた。

『百官志』はいう。郡国の太守や相は、つねに春に赴任する。農桑を民にすすめ、飢えた人を救うためだ。高密県は、北海国に属す。

杜密は、鄭玄に会った。鄭玄に評価された。杜密は就職しても学問し、大儒となった。のちに杜密は、退職して帰宅した。杜密は、守令たちに挨拶した。同郡の劉勝は、蜀郡から帰郷した。杜密は、劉勝に挨拶しない。太守の王昱は、杜密に言った。「劉勝は、おおくの人材を、推薦した実績がある。挨拶をしておきなさい」と。杜密は答えた。「劉勝は、よい人材を挙げず、わるい人材をあげた。挨拶する必要がない」と。太守の王昱は、恥じいって、杜密をますます尊敬した。

166年冬、檀石槐の特大な鮮卑帝国

九月,以光祿勳周景為太尉。 司空劉茂免。
冬,十二月,以光祿勳汝南宣酆為司空。
以越騎校尉竇武為城門校尉。武在位,多辟名士,清身疾惡,禮賂不通。妻子衣食 裁充足而已。得兩宮賞賜,悉散與太學諸生及□施貧民。由是眾譽歸之。

166年9月、光禄勲の周景を、太尉とした。司空の劉茂をやめた。

ぼくは思う。周景は、太学派ではなさそう。ということは、周景は、ダークなイメージのある宦官に、ちかいか。周瑜のイメージが、崩れるなあ。
劉茂は、陳蕃とともに上書した「前科」がある。劉茂は、太学派である。

166年12月、光祿勳する汝南の宣酆を、司空とした。
越騎校尉の竇武を、城門校尉とした。竇武は、おおく名士を辟した。ワイロを受けない。妻子は、衣食が足りるだけ。両宮(天子と皇后)から賞賜を受けても、太学の諸生や、貧民に配ってしまった。

ぼくは思う。貧民は、ともかく。太学の諸生に配るのは、派閥づくりである。


匈奴烏桓聞張奐至,皆相率還降,凡二十萬口;奐但誅其首惡,餘皆慰納之。唯鮮 卑出塞去。朝廷患檀石槐不能制,遣使持印綬封為王,欲與和親。檀石槐不肯受,而寇 抄滋甚。自分其地為三部:從右北平以東至遼東,接夫餘、濊貊二十餘邑,為東部;從 右北平以西,至上谷十餘邑,為中部;從上谷以西至敦煌、烏孫二十餘邑,為西部。各 置大人領之。

匈奴と烏桓は、張奐がくると聞き、20万口がくだった。張奐は、叛いたトップだけ斬り、のこりを許した。ただ鮮卑だけが、張奐に従わず。後漢は、鮮卑の檀石槐を制御できない。王の印綬を与えても、檀石槐は受けず。檀石槐は、領土を3部に分けた。右北平から東、遼東までの20余邑を東部とした。右北平から西、上谷までの10余邑を中部とした。上谷より西、敦煌や烏孫までの20余邑を西部とした。東部、中部、西部に、檀石槐は大人をおく。101208