166年冬、李膺が党錮の禁に座す
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
166年秋、陳蕃と襄楷が、宦官を批判する
太尉の陳蕃と、司空の劉茂は、成晋、劉質、翟超、黄浮を赦せと言った。
桓帝は、悦ばず。有司が、陳蕃と劉戊をせめた。劉茂は、だまった。陳蕃は、ひとりで上疏した。「桓帝は、梁氏の五侯を殺しました。天下は、小平をねがいました。だが桓帝は、宦官に味方し、成晋、劉質、翟超、黄浮を捕えました。彼らは悪くないから、赦しなさい」と。桓帝は、陳蕃を認めず。宦官は、陳蕃をうとむ。陳蕃のもとの長史より以下は、罪を受けた。だが陳蕃は、名臣だから、害をうけず。
洛陽の地図を、見たい。桓帝を中心に、宦官がいる。陳蕃を中心に、太学生がいる。ひとつの都で、2つの拠点が、せめぎあっている。太学を、現代日本の大学とおなじ、「都会の公園」みたいな場所だと思っては、いけない。軍事拠点かと、思われるほどだ。
平原の襄楷は、上疏した。「天文が、天子にとって凶です。罪のない太守を、罰してはいけない。桓帝は即位してから、梁、寇、孫、鄧氏を族滅させました。李雲と杜衆は、桓帝のために発言しましたが、報われなかった」と。
桓帝は、襄楷の上疏をかえりみず。
自永平以來,臣民雖有習浮屠術者,而天子未之好;至帝,始篤好之,常躬自禱祠, 由是其法侵盛,故楷言及之。
10余日して、ふたたび襄楷は上書した。「桓帝は、黄帝、老子、浮屠の祠をつくった。だが桓帝は、女色と飲食がすきだ。矛盾している」と。襄楷は、宦官を批判した。
尚書は言った。「襄楷は、天文にかこつけ、私見を押しつける。洛陽の獄にくだせ」と。桓帝は、襄楷の言葉はキツいが、襄楷が天文を読む能力は確かなので、司寇(2年)刑とした。
永平年間(後漢の明帝)に、仏教が伝わった。だが天子は、仏教を好まず。桓帝のとき、はじめて仏教の祠をつくった。仏教は、盛んになった。だから襄楷は、こんな上書をしたのだ。
166年秋、太守たちが赦される
符節令する汝南の蔡衍と、議郎の劉瑜は、上表した。成晋と劉質を救いたい。蔡衍と劉瑜は、免官された。成晋と劉質は、獄中で死んだ。岑晊と張牧は、死なずに逃げられた。
ぼくは補う。岑晊とともに逃げた張牧は、『資治通鑑』ではじめて出てきた?
彪嘗為新息長,小民困貧,多不養子;彪嚴為其制,與殺人同罪。城南有盜劫害 人者,北有婦人殺子者。彪出案驗,掾吏欲引南,彪怒曰:「賊寇害人,此則常理;母 子相殘,逆天違道!」遂驅車北行,案致其罪。城南賊聞之,亦面縛自首。數年間,人 養子者以千數。曰:「此賈父所生也。」皆名之為賈。
岑晊がにげた。親友は、きそって岑晊をかくまう。賈彪は、岑晊を門に入れない。賈彪は理由を答えた。「最後まで責任と取れないのに、かくまうべきでない」と。
かつて賈彪は、新息(汝南郡)の県長となった。困窮して、子を養わない親を、殺人と同罪とした。数年して、子供が千人は救われた。みな「私の父は、賈彪です」と言った。姓に賈氏を名のった。
166年秋、第一次、党錮の禁がおこる
河内の張成は、吉凶を占う人だ。張成は、殺人をさせた。司隷校尉の李膺は、張成を捕えた。張成は赦された。李膺は怒り、張成を殺した。張成は、宦官と交わった。桓帝は、張成の占いをきいた。宦官は、張成の弟子に、上書させた。「李膺ら、太学の游士は、徒党をくみ、風俗を乱す」と。桓帝は怒り、郡国にふれて、党人を捕えた。
もし桓帝が、宦官に踊らされているとしたら。「党人を弾圧した、汚職する宦官のボス」という汚名は、消えるだろう。しかし、「直属の部下すら、制御できない無能な皇帝」という汚名をかぶる。ぼくなら、前者の汚名のほうが、ほしい。そして桓帝の実際も、前者だっただろう。
いま、第一次党錮の禁が、始まりました。
桓帝の命令は、三公の府をまわった。太尉の陳蕃は、通達をたたいた。「いま指名手配されたのは、海内のほまれ、憂國忠公の臣だ。どうして彼らを捕えるか」と。陳蕃は、桓帝の命令に、署名せず。いよいよ桓帝は怒った。李膺とらを、黃門北寺獄にくだした。太僕する穎川の杜密や、御史中丞の陳翔と陳寔、范滂ら、200余人が連座した。逃げたら、賞金がかかった。陳寔は言った。「私が獄にゆかねば、他の士人は安心して獄にゆけない」と。陳寔は、みずから獄にゆく。
范滂は、獄にゆく。獄吏が、范滂に言った。「つかまった人は、皋陶を祭る」と。范滂は反論した。「皋陶は、古代の直臣だ。ただし私の無罪は、天が知っている。皋陶を祭る必要はない」と。太学派は、皋陶を祭るのをやめた。
陳蕃は上書をくり返した。陳蕃は、わるい人材を辟召した罪で、免官された。
166年秋、皇甫規と杜密は、党錮されない
天下の名賢が、捕えられた。度遼将軍の皇甫規は、西州の豪桀を自認する。李膺に連座しないことを、恥じた。
皇甫規が恥じたのは、皇甫規がマゾだからではない。また第1次の党錮が、甘っちょろく、半分遊びめいたからでない。「罰されたほうが、名声が得られる」なんて、打算でもない。
例えば会社で、人望のある専務(陳蕃)が、社長(桓帝)と対立して辞職し、別会社を起こした。専務を慕い、人材がゴソッと移籍した。海外出張していた営業部長(皇甫規)は、移籍の手続が遅れた。帰国して、あわてて辞表を書いた。こんな感じ。
皇甫規は、上書した。「私は、かつて大司農の張奐を推薦した。張奐と私は、同類です。また私が論輸左校されたとき、太學生の張鳳らが上書して、私を助けた。私は党人だ。免ぜよ」と。朝廷は、皇甫規の人脈を知るが、皇甫規をクビにしない。
杜密は、李膺と名声をならべる。みな杜密も、捕われると考えた。
かつて杜密は、北海相となった。春に高密についた。
杜密は、鄭玄に会った。鄭玄に評価された。杜密は就職しても学問し、大儒となった。のちに杜密は、退職して帰宅した。杜密は、守令たちに挨拶した。同郡の劉勝は、蜀郡から帰郷した。杜密は、劉勝に挨拶しない。太守の王昱は、杜密に言った。「劉勝は、おおくの人材を、推薦した実績がある。挨拶をしておきなさい」と。杜密は答えた。「劉勝は、よい人材を挙げず、わるい人材をあげた。挨拶する必要がない」と。太守の王昱は、恥じいって、杜密をますます尊敬した。
166年冬、檀石槐の特大な鮮卑帝国
冬,十二月,以光祿勳汝南宣酆為司空。
以越騎校尉竇武為城門校尉。武在位,多辟名士,清身疾惡,禮賂不通。妻子衣食 裁充足而已。得兩宮賞賜,悉散與太學諸生及□施貧民。由是眾譽歸之。
166年9月、光禄勲の周景を、太尉とした。司空の劉茂をやめた。
劉茂は、陳蕃とともに上書した「前科」がある。劉茂は、太学派である。
166年12月、光祿勳する汝南の宣酆を、司空とした。
越騎校尉の竇武を、城門校尉とした。竇武は、おおく名士を辟した。ワイロを受けない。妻子は、衣食が足りるだけ。両宮(天子と皇后)から賞賜を受けても、太学の諸生や、貧民に配ってしまった。
匈奴と烏桓は、張奐がくると聞き、20万口がくだった。張奐は、叛いたトップだけ斬り、のこりを許した。ただ鮮卑だけが、張奐に従わず。後漢は、鮮卑の檀石槐を制御できない。王の印綬を与えても、檀石槐は受けず。檀石槐は、領土を3部に分けた。右北平から東、遼東までの20余邑を東部とした。右北平から西、上谷までの10余邑を中部とした。上谷より西、敦煌や烏孫までの20余邑を西部とした。東部、中部、西部に、檀石槐は大人をおく。101208