-372年、元帝の子・司馬昱
09年夏休みに、直前の廃帝まで本紀を訳しました。興味のある時代が広がったので、続きをやってみます。
元帝の子で、瑯邪王
簡文皇帝諱昱,字道萬,元帝之少子也。幼而岐嶷,為元帝所愛。郭璞見而謂人曰:「興晉祚者,必此人也。」及長,清虛寡欲,尤善玄言。永昌元年,元帝詔曰:「先公武王、先考恭王君臨琅邪。繼世相承,國嗣未立,蒸嘗靡主,朕常悼心。子昱仁明有智度,可以虔奉宗廟,以慰罔極之恩。其封昱為琅邪王,食會稽、宣城如舊。」咸和元年,所生鄭夫人薨。帝時年七歲,號慕泣血,固請服重。成帝哀而許之,故徙封會稽王,拜散騎常侍。九年,遷右將軍,加侍中。咸康六年,進撫軍將軍,領秘書監。
簡文皇帝は、いみなを(司馬)昱といい、あざなは道萬である。元帝の末っ子である。
簡文帝は、幼くして岐嶷だったから、元帝に愛された。郭璞は簡文帝をの人相を見て、人に言った。
「晋の天命を中興するのは、必ずこの人だ」
簡文帝が大人になると、清虚寡欲で、もっとも玄言を善くした。永昌元(322)年、元帝は詔した。
「先公武王、先考恭王君は琅邪に臨んだ。まだ跡継ぎがいないので、死んだ前の王に心を寄せている。私は、とても心に悼ましいことだ。私の子の昱(簡文帝)は、仁明で智度がある。宗廟を虔奉できるだろう。司馬昱をとし、會稽郡を食ませよ。宣城は元のまま司馬昱の領地とする」
咸和元(326)年、母の鄭夫人が薨じた。簡文帝はこのとき7歳だった。母の名前を呼んで慕い、血の涙を流した。断固として、鄭重に服喪することを願った。成帝は、母を亡くした簡文帝のために哀しみ、服喪を許した。
簡文帝は、親孝行ぶりが評価されて、會稽王となり、散騎常侍に封じられた。九(334)年、右將軍に遷り、侍中を加えられた。
咸康六(340)年、撫軍將軍に進み、秘書監を領ねた。
臣下の第一人者
建元元年夏五月癸醜,康帝詔曰:「太常職奉天地,兼掌宗廟,其為任也,可謂重矣。是以古今選建,未嘗不妙簡時望,兼之儒雅。會稽王叔履尚清虛,志道無倦,優遊上列,諷議朝肆。其領太常本官如故。」永和元年,崇德太后臨朝,進位撫軍大將軍、錄尚書六條事。二年,驃騎何充卒,崇德太后詔帝專總萬機。八年,進位司徒,固讓不拜。穆帝始冠,帝稽首歸政,不許。廢帝即位,以琅邪王絕嗣,複徙封琅邪,而封王子昌明為會稽王。帝固讓,故雖封琅邪而不去會稽之號。
建元元(343)年、夏5月癸丑、康帝は詔した。
「太常の職務は、天地を奉り、宗廟を掌ることである。重要だと言うべきだ。古今より、時望と儒雅のある人が選ばれた。會稽王の司馬昱(簡文帝)は、清虚を尚び、志道を倦まない。司馬昱は高い位に座って、朝廷で発言力がある。太常を領ねさせよう」
永和元(345)年、崇德太后が臨朝した。簡文帝は、撫軍大將軍に進み、録尚書六條事。二(346)年、驃騎の何充が死んだ。崇德太后は詔して、簡文帝に萬機を專總させた。
八(352)年、簡文帝は司徒に進んだが、固辞して受けなかった。穆帝が元服すると、簡文帝は穆帝に政権を返し、親政をしてもらおうとした。だが穆帝は、許さなかった。
廢帝が即位すると、琅邪王に後継者がいなくなった。そこで簡文帝は、ふたたび瑯邪に封じられた。しかし簡文帝は、子の司馬昌明を會稽王とした。簡文帝は固辞して、瑯邪王を受けなかった。簡文帝は、瑯邪に封じられたが、「会稽王」の号は使い続けた。
太和元年,進位丞相、錄尚書事,入朝不趨,贊拜不名,劍履上殿,給羽葆鼓吹班劍六十人,又固讓。及廢帝廢,皇太后詔曰:「丞相、錄尚書、會稽王體自中宗,明德劭令,英秀玄虛,神棲事外。以具瞻允塞,故阿衡三世。道化宣流,人望攸歸,為日已久。宜從天人之心,以統皇極。主者明依舊典,以時施行。」於是大司馬桓溫率百官進太極前殿,具乘輿法駕,奉迎帝于會稽邸,於朝堂變服,著平巾幘單衣,東向拜受璽綬。
太和元年、簡文帝は丞相に進み、録尚書事となった。入朝不趨、贊拜不名、劍履上殿を許され、羽葆鼓吹班劍60人を給わった。簡文帝は断った。
廃帝が廃されると、皇太后は詔した。
「丞相・録尚書・會稽王の司馬昱よ。あなたは元帝の子で、明德は劭令、英秀は玄虚、神棲は外に仕えている。皇統がうまく繋がらないので、3代も皇帝を補佐してくれましたね。道化は宣流、人望は攸歸、もうそんな日が長く経ちました。天人之心に従って、皇極を統べなさい。舊典を参考にしつつも、時を以て施行せよ」
ここにおいて、大司馬・桓温が百官を率いて、太極前殿に進んだ。桓温は、乘輿法駕を引き連れて、簡文帝を會稽邸に奉迎した。簡文帝は、朝堂で服を變えた。平巾幘に單衣を着て、東を向き、璽綬を拜受した。