373年、簡文帝の腰抜け
このまま桓玄が、王朝の代を重ねるのでしょうか?
言い訳ばかりの詔
二年春正月辛醜,百濟、林邑王各遣使貢方物。二月,苻堅伐慕容桓於遼東,滅之。三月丁酉,詔曰:「朕居阿衡三世,不能濟彼時雍,乃至海西失德,殆傾皇祚。賴祖宗靈祗之德,皇太后淑體應期,籓輔忠賢,百官戮力,用能蕩氣務於昊蒼,耀晨輝於宇宙。遂以眇身,托于王公之上,思賴群賢,以弼其闕。夫敦本息末,抑絕華競,使清濁異流,能否殊貫,官無秕政,士無謗讟,不有懲勸,則德禮焉施?且強寇未殄,勞役未息,自非軍國戎祀之耍,其華飾煩費之用皆省之。夫肥遁窮穀之賢,滑泥揚波之士,雖抗志玄霄,潛默幽岫,貪屈高尚之道,以隆協贊之美,孰與自足山水,棲遲丘壑,徇匹夫之潔,而忘兼濟之大邪?古人不借賢於曩代,朕所以虛想於今日。內外百官,各勤所司,使善無不達,惡無不聞,令詩人元素餐之刺,而吾獲虛心之求焉。」
二(373)年春正月辛丑、百濟王と林邑王がそれぞれ朝貢した。
2月、苻堅が、慕容桓を遼東で滅ぼした。
3月丁酉、簡文帝は詔した。
「私は3代の皇帝を補佐したが、時局を救うことができなかった。廃帝の時代に、私は徳を失い、皇室を傾けた。
皇太后や諸王や百官は力を尽くして、天下を守り立てよ。私は欠点だらけなので、助けてくれ。中原との戦費は拡大するばかりで、本当にすまないと思う。言うことは聞く。どうすべきか、教えてくれ」
癸醜,詔曰:「吾承祖宗洪基,而昧於政道,懼不能允厘天工,克隆先業,夕惕惟憂,若涉泉冰。賴宰輔忠德,道濟伊望,群後竭誠,協契斷金,內外盡匡翼之規,文武致匪躬之節,冀因斯道,終克弘濟。每念干戈未戢,公私疲悴,籓鎮有疆理之務,征戍懷東山之勤,或白首戎陣,忠勞未敘,或行役彌久,擔石靡儲,何嘗不昧旦晨興,夜分忘寢。雖未能撫而巡之,且欲達其此心。可遣大使詣大司馬,並問方伯,逮于邊戍,宣詔大饗,求其所安。又籌量賜給,悉令周普。」
3月癸丑、簡文帝は詔した。
「私は皇帝を継いだが、政道には蒙昧である。うまくやれないことが、怖い。異民族との戦争は已まないし・・・。大司馬の桓温と、その他の高官たちは、何とかしてくれ」
簡文帝の死
乙卯,詔曰:「往事故之後,百度未充,群僚常俸,並皆寡約,蓋隨時之義也。然退食在朝,而祿不代耕,非經通之制。今資儲漸豐,可籌量增俸。」騶虞見豫章。夏四月,徙海西公于吳縣西柴裏。追貶庾後曰夫人。六月,遣使拜百濟王餘句為鎮東將軍,領樂浪太守。戊子,前護軍將軍庚希舉兵反,自海陵入京口,晉陵太守卞眈奔于曲阿。秋七月壬辰,桓溫遣東海內史周少孫討希,擒之,斬于建康市。己未,立會稽王昌明為皇太子,皇子道子為琅邪王,領會稽內史。是日,帝崩於東堂,時年五十三。葬高平陵,廟號太宗。遺詔以桓溫輔政,依諸葛亮、王導故事。
3月乙卯、簡文帝は詔した。
「東晋はずっと節約して、給与カットをしてきた。だが、少しキャッシュフローが改善したので、多めに給与を払うよ」
騶虞(平和の獣)が、豫章郡に現れた。
夏4月、海西公(廃帝)を呉縣の西柴里に移した。追って、廃帝の庾皇后を、夫人にランクダウンした。
6月、百濟王の餘句を鎮東將軍とし、樂浪太守を領ねさせた。戊子、前の護軍將軍である庚希が舉兵して反した。海陵から京口に入った。晉陵太守の卞眈は、曲阿に逃げた。
秋7月壬辰、桓温は東海内史の周少孫に命じて、庚希を捕えさせ、建康の市で斬った。
己未、會稽王の司馬昌明を、皇太子に立てた。皇子の司馬道子を琅邪王として、會稽内史を領ねさせた。この日、簡文帝は東堂で崩じた。53歳だった。高平陵に葬られ、廟號は太宗という。遺詔により、桓温が輔政した。諸葛亮や王導の故事がマネられた。
簡文帝のエピソード
帝少有風儀,善容止,留心典籍,不以居處為意,凝塵滿席,湛如也。嘗與桓溫及武陵王晞同載遊版橋,溫遽令鳴鼓吹角,車馳卒奔,欲觀其所為。晞大恐,求下車,而帝安然無懼色,溫由此憚服。溫既仗文武之任,屢建大功,加以廢立,威振內外。帝雖處尊位,拱默守道而已,常懼廢黜。
簡文帝は、幼いときから風儀があり、言いたいことを飲み込む分別があった。典籍を心にとどめ、不以居處為意,凝塵滿席,湛如也。
かつて簡文帝は、桓温と、武陵王の司馬晞とともに、車に同乗して、版橋に遊びに行った。
桓温は、太鼓を鳴らし、笛を吹かせて、御者に全速力を出させ、同乗者の反応を見た。司馬晞は大いに恐がり、車を下りたいと言った。簡文帝は、心が穏やかで、恐がる様子もなかった。桓温は、簡文帝を憚って、敬服した。
桓温は文武の両面で手柄を立てて、皇帝を挿げ替えたいと考えた。簡文帝は、皇帝に昇らされたが、じっと道義を守った。簡文帝は常に、皇帝から降ろされるのを懼れた。
先是,熒惑入太微,尋而海西廢。及帝登阼,熒惑又入太微,帝甚惡焉。時中書郎郗超在直,帝乃引入,謂曰:「命之修短,本所不計,故當無複近日事邪!」 超曰:「大司馬臣溫方內固社稷,外恢經略,非常之事,臣以百口保之。」及超請急省其父,帝謂之曰:「致意尊公,家國之事,遂至於此!由吾不能以道匡衛,愧歎之深,言何能喻。」因詠庾闡詩雲「志士痛朝危,忠臣哀主辱」,遂泣下沾襟。帝雖神識恬暢,而無濟世大略,故謝安稱為惠帝之流,清談差勝耳。沙門支道林嘗言「會嶴有遠體而無遠神」。謝靈運跡其行事,亦以為赧獻之輩雲。
簡文帝が即位するより以前、熒惑が太微に入り、廃帝を降ろそうという話になった。簡文帝が即位してからも、同じように熒惑が太微に入った。簡文帝は、廃帝のように降ろされても文句が言えないから、この天体の動きをとても憎んだ。
中書郎の郗超が宿直のとき、簡文帝は引き入れて、郗超に言った。
「天命の長短は、人にはどうしようもないことだ。だから、近日のこと(廃帝を降ろしたこと)を、くり返さない。私は皇位を降りないぞ」
郗超は答えた。
「大司馬の桓温は、内政も外交もきっちりやっている。非常之事,臣以百口保之。」
及超請急省其父,帝謂之曰:
「致意尊公,家國之事,遂至於此!由吾不能以道匡衛,愧歎之深,言何能喻。」
庾闡は詩に詠んで曰く、
「志士は朝危を痛み、忠臣は主の辱を哀しむ」
ついに庾闡は、泣きまくって襟をぬらした。
簡文帝は、神識で恬暢だったが、濟世する大略はなかった。ゆえに謝安は、簡文帝は恵帝と同類だと言い、清談差勝しただけだった。
沙門支道林は、かつて言った。
「會嶴有遠體而無遠神」。
謝靈運は、簡文帝の行動をたどり、亦以為赧獻之輩雲。
桓温がはじめから簒奪したいなら、王莽のように幼帝を立てたはず。しかし大御所の簡文帝を出してきたのは、親政の手腕に期待したからだろう。「簒奪のクッションに、簡文帝が立てられた」ではない。桓温は、簡文帝の打って変わったチキンぶりに、がっかりしただろう。