表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』帝紀9、簡文帝と孝武帝の翻訳

374-375年、桓温の死と天体異常

翻訳がしんどくなってきたので、
だいたい意味が理解できる程度にバラすのみです。理解するのが大変そうな詔のたぐいは、要約します。訳して面白いところは、叮嚀にやります。

桓温の死

孝武皇帝諱曜,字昌明,簡文帝第三子也。興甯三年七月甲申,初封會稽王。咸安二年秋七月己未,立為皇太子。是日,簡文帝崩,太子即皇帝位。詔曰:「朕以不造,奄丁閔凶,號天扣地。靡知所訴。藐然幼沖,眇若綴旒,深惟社稷之重,大懼不克負荷。仰憑祖宗之靈,積德之祀。先帝淳風玄化,遺詠在民。宰輔英賢,勳隆德盛。顧命之托,實賴匡訓。群後率職,百僚勤政。冀孤弱之躬有寄,皇極之基不墜。先恩遺惠,播于四海,思弘餘潤,以康黎庶。其大赦天下,與民更始。」
九月甲寅,追尊皇妣會稽王妃曰順皇后。冬十月丁卯,葬簡文皇帝于高平陵。十一月甲午,妖賊盧悚晨人殿庭,遊擊將軍毛安之等討擒之。是歲,三吳大旱,人多餓死,詔所在振給。苻堅陷仇池,執秦州刺史楊世。

孝武皇帝、諱は(司馬)曜、あざなは昌明。簡文帝第三子也。興甯三年七月甲申,初封會稽王。
咸安二年秋七月己未,立為皇太子。是日,簡文帝崩,太子即皇帝位。
詔曰:
「私は幼いから、天下を治める実力がない。これまでの晋帝が遺してくれた恵みで、うまく治まりますように。大赦をするから、気分を入れ替えよう」

孝武帝は11歳である。

九月甲寅,追尊皇妣會稽王妃曰順皇后。
冬十月丁卯,葬簡文皇帝于高平陵。
十一月甲午,妖賊盧悚晨人殿庭,遊擊將軍毛安之等討擒之。
是歲,三吳大旱,人多餓死,詔所在振給。やはり同じ歳、苻堅が仇池を陥落し、秦州刺史を楊世とした。

甯康元年春正月己醜朔,改元。二月,大司馬桓溫來朝。三月癸醜,詔除丹陽竹格等四桁稅。夏五月,旱。秋七月己亥,使持節、侍中、都督中外諸軍事、丞相、錄尚書、大司馬、揚州牧、平北將軍、徐兗二州刺史、南郡公桓溫薨。庚戌,進右將軍桓豁為征西將軍。以江州刺史桓沖為中軍將軍、都督揚豫江三州諸軍事、揚州刺史,鎮姑孰。八月壬子,崇德太后臨朝攝政。九月,苻堅將楊安寇成都。丙申,以尚書僕射王彪之為尚書令,吏部尚書謝安為尚書僕射,吳國內史刁彝為北中郎將、徐兗二州刺史,鎮廣陵。複置光祿勳、大司農、少府官。冬十月,西平公張天錫貢方物。十一月,苻堅將楊安陷梓潼及梁、益二州,刺史周仲孫帥騎五千南遁。

甯康元(373)年春正月己醜朔,改元。
二月,大司馬桓溫來朝。
三月癸醜,詔除丹陽竹格等四桁稅。
夏五月,旱。
秋七月己亥,使持節、侍中、都督中外諸軍事、丞相、錄尚書、大司馬、揚州牧、平北將軍、徐兗二州刺史、南郡公桓溫が薨じた。
庚戌,進右將軍桓豁を征西將軍とした。以江州刺史桓沖為中軍將軍、都督揚豫江三州諸軍事、揚州刺史,鎮姑孰。
八月壬子,崇德太后臨朝攝政。
九月,苻堅將楊安が、成都を寇した。丙申,以尚書僕射王彪之為尚書令,吏部尚書謝安為尚書僕射,吳國內史刁彝為北中郎將、徐兗二州刺史,鎮廣陵。複置光祿勳、大司農、少府官。
冬十月,西平公張天錫貢方物。
十一月,苻堅將楊安が梓潼及梁、益二州を陥落した。益州の刺史周仲孫帥騎五千南遁。

翻訳サイトでも何でもないが、本紀ならこれで充分な気がしてきた(笑)
このペースなら、東晋の本紀を最後まで一気に読めそうです。

不徳?の皇太后

二年春正月癸未朔,大赦。追封諡故會稽世子鬱為臨川獻王。己酉,北中郎將、徐兗二州刺史刁彝卒。二月癸醜,以丹陽尹王坦之為北中郎將、徐兗二州刺史。丁巳,有星孛於女虛。三月丙戌,彗星見於氐。夏四月壬戌,皇太后詔曰:「頃玄象忒愆,上天表異,仰觀斯變,震懼於懷。夫因變致休,自古之道,朕敢不克意複心,以思厥中?又三吳奧壤,股肱望郡,而水旱並臻,百姓失業,夙夜惟憂,不能忘懷,宜時拯恤,救其雕困。三吳義興、晉陵及會稽遭水之縣尤甚者,全除一年租布,其次聽除半年,受振貸者即以賜之。」五月,蜀人張育自號蜀王,帥眾圍成都,遣使稱籓。秋七月,涼州地震,山崩。苻堅將鄧羌攻張育,滅之。八月,以長秋將建,權停婚姻。九月丁醜,有星孛於天市。冬十一月己酉,天門蜑賊攻郡,太守王匪死之,征西將軍桓豁遣師討平之。長城人錢步射、錢弘等作亂,吳興太守硃序討平之。癸酉,鎮遠將軍桓石虔破苻堅將姚萇于墊江。

二(374)年春正月癸未朔,大赦。追封諡故會稽世子の司馬鬱為臨川獻王。己酉,北中郎將、徐兗二州刺史刁彝卒。
二月癸醜,以丹陽尹王坦之為北中郎將、徐兗二州刺史。

謝安とのツートップの完成です。いま謝安は、尚書僕射で呉国内史だ。

丁巳,有星孛於女虛。 三月丙戌,彗星見於氐。
夏四月壬戌,皇太后詔曰:
「天体が異常だ。皇太后である私のせいだ。水害の被災地は、減税する」
五月,蜀人張育自號蜀王,帥眾圍成都,遣使稱籓。
秋七月,涼州地震,山崩。苻堅將鄧羌が、張育を攻めて、滅之。
八月,以長秋將建,權停婚姻。

なんで重要な記事なのか、よく分かりません。

九月丁醜,有星孛於天市。
冬十一月己酉,天門蜑賊攻郡,太守王匪死之,征西將軍桓豁遣師討平之。

聞いたことのない地名です。荊州だろうね。

長城人錢步射、錢弘等作亂,吳興太守硃序討平之。癸酉、鎮遠將軍の桓石虔が、苻堅の將・姚萇を墊江で破った。

三年春正月辛亥,大赦。夏五月丙午,北中郎將、徐兗二州刺史、藍田侯王坦之卒。甲寅,以中軍將軍、揚州刺史桓沖為鎮北將軍、徐州刺史,鎮丹徒,尚書僕射謝安領揚州刺史。秋八月癸巳,立皇后王氏,大赦,加文武位一等。九月,帝講《孝經》。冬十月癸酉朔,日有蝕之。十二月癸未,神獸門災。甲申,皇太后詔曰:「頃日蝕告變,水旱不適,雖克己思救,未盡其方。其賜百姓窮者米,人五斛。」癸巳,帝釋奠于中堂,祠孔子,以顏回配。

三(375)年春正月辛亥,大赦。
夏五月丙午,北中郎將、徐兗二州刺史、藍田侯王坦之卒。

桓温の即位阻止、おつかれさまでした。

甲寅,以中軍將軍、揚州刺史桓沖為鎮北將軍。そして徐州刺史,鎮丹徒,尚書僕射謝安領揚州刺史。
秋八月癸巳,立皇后王氏,大赦,加文武位一等。
九月,孝武帝は『孝經』を講じた。

前漢後期以来の、皇帝を正当化する儒教は健在?日食や星の動きに、為政者が心を痛めているから、まだけっこう健在なんだろう。

冬十月癸酉朔,日有蝕之。
十二月癸未,神獸門災。甲申,皇太后詔曰:
「日食は、変事を継げている。万民を救済したいが、行き渡らない。飢えている人に、5石ずつを支給する」

当たり前だが、東晋領内の人に届かないことが「未盡其方」だ。中原は関係ないんだろう。

癸巳、帝釋奠于中堂,祠孔子,以顏回配。

顔回が、漢帝のための儒教でどんな役割か、確認せねば。